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聖体拝領とまことの現存:いったい崇敬に何が起こったのか

1996年5月
クリスティーン・マッカーシー
私達は立って聖体拝領を受けます。ほとんど全ての信者は手の上に受けます。信者の半数は司祭から受け、残りの人々は女性の平信徒から受けます。
約5分後に御ミサは終わります。うるさめのささやきが騒がしい笑い声とおしゃべりに変わります。人々はグループになって、昼食に何を食べるか、また休日にどこに行くかについて、立って話します。これらすべてが教会の中、御聖櫃の主の現存の前で行われます。
何人かは片膝をつくことなく御聖櫃のところに行って、扉を開け、病人に与えるための御聖体を取り出します。そして御聖体を運ぶ時、そこらでぶらぶらしている他の人達に話しかけながら御聖堂の中心に戻ります。
私は「聖いっぱいおしゃべり教区」について話しています。世界中至る所にこのような小教区があります。
私の小教区
私の小教区では違っています。私達は御聖体を立って受けますが、受ける前に片膝をつきます。ある人々は手で受け、他の人々は舌で受けます。それは彼らの選択に任されています。日曜日には司祭はアルバを着た侍者によってアシストされながら御聖体を配布します。約5分後に御ミサは終わります。しかし会衆は静かです。──静かです!
多くの人達は感謝の祈りを捧げるために跪きます。他の人達は話して、笑って、楽しそうにしていますが、しかしそれは教会の外で、あるいは、祈っている人を邪魔しないように、しかし何よりも御聖櫃の主への敬意から、離れたところでそうしています。
上に述べた二つの状況の間には、雰囲気的な、美的な、そして信仰的な隔たりがあります。前者には、大きな公共的な集会があった後のホールのような、マーケット的な状況があります。それは、「一旦御ミサが終われば、もはやキリストの現存はなくなるのだ」と考えることが許されているかのようです。
詩編作者は、神の住居を神の法廷として描きます。神は王であり、荘厳に崇められます。詩編作者は、神の現存に恵まれないまま、疲れた夜警が夜明けを待つよりも、渇いた鹿が小川の流れを望むよりも、神の法廷を切望し、憧れました。旧約時代の神の住居に対する敬意はそのように大きかったのです。ですから、神であり人である主の現存を得ている私達は、遥かに彼ら以上に、御聖櫃の主の住居に対して崇敬を捧げなければならないのです。
では、何故私の小教区は多くの他のところと違っているのでしょうか?
司祭というものは、私が信ずるに、会衆のリーダーとして、また、心構えを作る者として、潜在的に力強い立場に置かれています。信者達は、信仰と立ち居振舞いの標準を得るために、常に聖職者に目を向けてきました。もし司祭が御聖堂の中で教区民とおしゃべるするなら、彼らはそのことを、彼ら自身もそうしてよいと示唆するヒントとして受け取ります。しかしもし司祭が御聖体の前で祈りに時間を費やすならば、もし司祭が御聖櫃の前を横切る度に片膝をつくならば、もし司祭が教会の中で沈黙を要求するならば、彼は御聖体の内なる主の現存に対する彼の信仰を立証し、彼自身の聖なる職務とその有効性に対する確固たる信念を立証することになるのです。
私の教区司祭は御聖体を愛しています。彼は教会で崇敬を要求します。このことは、彼の信者達が御聖櫃の中のキリストの現存に対して抱いている崇敬によって、また、教会の外でも彼らがお互いの中のキリストの存在に対して抱いている愛によって、例証されます。
「聖いっぱいおしゃべり教区」のことに話を戻しましょう。担当の司祭は今もまことの現存を信じているでしょうか? はい。彼は御聖体に対する個人的な愛を欠いていますか? いいえ。しかし御ミサ後の騒がしい雰囲気は少なくとも、リーダーシップの欠如と、信者に主の現存に対する崇敬と礼儀の規準を教えることの失敗を表わしています。
それは、私達の教会の増大する世俗化が、そして特にその至聖所での世俗化が、カトリック教会の典礼の規範よりも会衆の標準に従う上長の下に置かれている司祭に押し付けられてしまっていることを意味しているのかも知れません。司祭は彼の信者達の声を聞こうとしますが、もし人々が情報に通じたカトリック信者であった場合、これはただ美味しいフルーツを作るだけのことです。
祈りと行動
人は、多くの教会に広まっている事態が覆されることがあり得るかどうか尋ねるかも知れません。世界中の共通理解は、私達が信仰と行動の大きな危機の中にいるということです。反転は一晩では起こりそうではありません。私は、反転には二つの方法があると信じています。祈りと行動です。そのどちらも重要です。
教皇様は私達に、私達の聖職者の清められんことを祈るようにと頼みました。私達が彼らのために定期的に祈ることをしなければ、私達は彼らに清さを期待することはできないでしょう。
私達は私達の行動によって、御聖体の秘跡にまします私達の主に対する私達自身の確固たる信仰と愛を証することができます。私達は教会で私達自身の沈黙を守ることができます。私達は御聖櫃の前を横切る度に信心深く片膝をつくことができます。そして私達の教区で規範が跪くことでなかったとしても、私達は御聖体を受ける前に片膝をつくことができます。(崇敬の何らかの行為はこの時に必要とされるのですから。)
私達は情報に通じたカトリック信者になり得ます。私達が成熟した信仰に進めば進むほど、キリストと彼の教会に対する私達の愛は大きくなっていくでしょう。私達はカトリック教会のカテキズムを読むことができます。私達はカトリックの書店や多くの一般書店から、教皇様の回勅やその他の文書を容易に読むことができます。
私達は御聖体の秘跡の主の現存の前で、司祭のため、教区のため、家族のため、教皇様とその御意向のため、カトリック教会と召命のために、祈りに定期的に時間を費やすことができます。私達は私達の主の秘跡的な現存に対して犯される多くの罪のために償いを捧げることができます。
私達が騒がしい教区を、静かで祈りに満ちた、平和と深い信仰の場所に変えることを心から望むのなら、それを叶えるまったく確実な方法があります。しかしそれは信者の側の協力と多くの個人的な関与を必要とします。この方法が失敗したということは、今迄聞かれていません。
最初に、勇気と神の御助けを願い、祈って下さい。そして、あなたの親戚、友人、知人、そしてカトリック以外の信仰を持った人にさえも、あなたの教会に来て、一週間につき一時間、祈りに時間を費やすように頼んで下さい。できるだけ多くの日中と夜の時間をカバーするために、名簿を作成してください。あなたの教区司祭にも名簿に加わるように頼んでください。よく出席された数時間があるならば、彼は御聖体を顕示するよう説得されるかも知れません。彼に彼自身そうするように頼んで下さい。司祭として、彼はそうすることを喜ばしく思うでしょう。
世界中に、彼らの教会を静けさと平和の場所として維持することに熱心な多くのカトリック信者達がいます。彼らは彼らの教区の司祭の承認のもとに、永久礼拝の教区を確立しました。彼らの教会は閉じられることがありません。信者達は、御聖体の秘跡におこもりになる私達の主と共に時間を過ごすために、刻々とやって来ます。
人々が常に日夜教会にいるので、公共物汚損は減少します。小教区コミュニティーの生活はよみがえります。日曜と毎日の御ミサへの出席は増加し、告解も増加します。信者の、神と互いへの愛はいっそう力強くなり、生ぬるい人も信仰の実践に戻ります。そしてより多くの召命が、聖職と信仰生活のためにもたらされます。
そうです、私の教区は永久礼拝をします。
クリスティーン・マッカーシーはシドニーのカトリック・ライターであり、母親であり、ミュージシャンである。
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