下線、太字、色文字などによる強調は管理人

聖体拝領台と跪きの防衛

Altar Rail(聖体拝領台)と跪きの防衛
In defence of the altar rail and kneeling.
2005年6月1日
ポール・ココスキー(Paul Kokoski)
フランシスコ会のレジス・スキャンロン神父はこう言っています。「ご聖体の中のイエズスのまことの現存という教義は、キリスト教を人間の理性の能力を遥かに超えた神秘の宗教としてひときわ高く輝かせる素晴らしい真理の一つです。カトリック教会は、このまことの現存のドグマを、イエズス・キリストは聖変化の言葉の後に全体としてまた完全にパンとワインの外観の下に存在する、という表現によって定義して来ました」
ミサにおける聖体拝領は常に非常に大きな敬意と畏敬の瞬間でした。それは伝統的にベルの音と沈黙の後に来る瞬間でした。もはや主のまことの現存を信じない多くのカトリック信者がいますが、このことは疑いもなく、これらや他の多くの崇敬の象徴と印の衰退──あるいは場合によっては消滅──によって引き起こされたものです。このような、取り除かれた崇敬の象徴の一つが、聖体拝領台と呼ばれる建築構造物です。
Communion Rail
Communion Rail 又は Altar Rail は、中世に平信徒たちが跪いてご聖体を拝領し始めた時にカトリック教会の中に導入されました。聖体拝領台をよく知らない人たちのために説明すると──疑いもなく今日これを経験したことのない多くの人たちがいるのですが──それは教会の全体から聖域の部分を区別する建築構造物です。普通、大理石か他の堅い材料で作られています。清潔で純粋な亜麻布が、通常この聖体拝領台の聖域側に固定され、聖体拝領をする人たちの前に、聖体拝領台の縦幅より幅広く広げられます。この布は、もし司祭の手から聖体の欠片が落ちた時、それを受け止める一種のコルポラーレ(聖体布)の役割を果たします。拝領者はこのように両手でこの布を取り、顎の下にそれを保持します。このような聖体布の役割を為す何かが既にキリスト教の初期の時代にも存在したことを示す証拠があります。より現代に近い時代では、侍者が拝領者の顎の下に拝領用パテナを保持する形となりました。
拝領の時には、人々は拝領台を、まるで主の御いけにえの祭壇の横か前にある長テーブルのように見なすことができました。あたかも神に属する人々が正に主の最後の晩餐の場面にいるかのように、それが主の晩餐に与るために集うテーブルであるかのようにです。あたかも人々が主を受け主の御いけにえに与ろうとして実際にカルワリオの主の御前に跪いているかのように、それが私たちの主のご受難を現在にたぐり寄せるテーブルであるかのようにです。これはなんとすさまじいことか!
これを、聖体拝領の時に信者が立っていることを許す現在のカナダのルブリカ(典礼執行規程)と比較してみて下さい。私たちは何に気づくでしょうか? 聖体拝領の時、拝領者は、あたかも司祭の手が叙階の際に奉献されたという事実の背後にある意味を否定するかのように、司祭の手から彼ら自身の手にご聖体を受けています。そして彼あるいは彼女らは、その体の動作において、自分が何か神聖なもの──あるいは神聖な “御者” ──を受けたことを大して認めないかのようにして祭壇の正面から去ります。また、私たちの主の御からだの欠片および御血が決して失われないようにするための完全な予防措置が取られることもありません。
拝領用パテナ(把手付き)
何故、聖体拝領台の撤去なのか?
第二バチカン公会議後にされた聖体拝領台を撤去するという決定は、公会議の典礼改革を実現するためにはそれが必要であると関係者たちによって信じられた建築構造の改造を導入するために、ローカル・レベルにおいて主導されたことだったようです。若干の教会は聖体拝領台を同じ場所に残したけれども、それは不使用に付されましたし、新しい教会堂の構造は一般にそれを含みません。
典礼学者たちは、「人々の完全で積極的な参加」を呼びかける公会議の声との関係において、聖体拝領台は司祭の能動性と一般信徒の受動性を分けるものである、聖体拝領台はその構造そのものによって、彼らの信ずるところによれば、一般信徒を祭儀から切り離すものである、と論じました。しかし彼らの考え方は、基本的に、第二バチカン公会議の「完全で積極的な参加」という言葉の意味を何か身体的なものにまで引き下げるものであり、重点を司祭から外して集会のメンバー各々の上に一様に再配分するために、区別を統合する、あるいは統一するものです。このことはまた、これは一つの例ですが、次のようなことを意味します。すなわち、教会は侍者の少年たちが司祭の仕事を助けると引き続き思うけれども、今や少女たちも彼らの集団の中に加えられなければならない、何故なら、どのような区別であれ、それは分離を意味するからだ、と。
このような文脈においては、司祭は今や、1965年以前までそうであったように全会衆と共にキリストの十字架に向かうというよりはむしろ、人々にこそ「対面」しなければならない単なる「座長」である、ということになります。ミサの御いけにえは、ある人たちに言わせると、今や主として共同体の会食であることになったのであり、このことはノヴス・オルドあるいは新ミサにおいてはおそらく事実なのです。しかし、ヨゼフ・ラッツィンガー枢機卿がその著書『典礼の精神』の中で説明しているように、「司祭が会衆に向くことは、信徒共同体がそれ自体で完結した社会を形成することになります。それは、その形態からして、もはや前方へ、また上方へ開かれたものではなく、自分自身の内に閉じこもったものです」。ラッツィンガー枢機卿は、広範囲にわたって、今や「1970年の改革」の改革が必要である、という考えを表明しておられます。(参照:ジョン・モール神父『ラッツィンガー枢機卿: 典礼についての司牧的配慮』カトリック・インサイト誌、2004年3月号 p6-19、4月号 p34-37)
また、或る者らが言うように、私たちはもはやいけにえに与るのではなくてむしろ会食の席にいるので、今日の典礼学者に従えば、私たちはキリストの御からだと御血を受ける際に己が手をもって「自己拝領(Self-Communion)」することも今や大切である、ということになります。カナダ司教協議会の1970年3月23日付の内部通達は、この実践の施行に関して次のように言っています。
「主の最後の晩餐の象徴を非常に身近なものとして」明示するために「(…)拝領者は自分の手でホスチアを受け取り、口に運ぶ。この行為は、典礼改革の目的の一つである能動的で個人的な参加を強調するものである。これはキリスト者に彼個人の尊厳の感覚を呼び覚ますものである」
私たちは、これに関連して、今日何故ほとんどの教区で、ホスチアを配布する役割を持つ司祭や平信徒に渡すためにホスチアをご聖櫃から取り出すのが平信徒であるのか、その理由を見出します。
跪かないこと
この認められた平等主義的「愛の祝宴」を、人間の尊厳という事との関連において発展させながら更に促進するために、今や拝領者は聖体拝領する時に立っていることも要求される、とも言われています。ラッツィンガー枢機卿が書いているように、彼らは、跪くことは「私たちの文化に合わない」…「そうすることは成人には正しいことではない──成人は立って神と対面すべきである」、あるいはまた「それは贖われた人には相応しくない──贖われた人はキリストによって自由にされた。それ故もはや跪く必要はないと言います」
今日、多くの人たちが、第二バチカン会会議後に現われた聖体拝領の時に立っている習慣は、それが一般信徒の中に一様に浸透するまで、厳格に、また専横的に、選択の余地なく強要されたものだった、と思い返したとしても無理はありません。今日でさえ、特に私自身の経験において、全ての信者は今までも常にそうであったように跪きながらご聖体を受ける教会的な権利を完全に持っているにもかかわらず、司祭たちはまるで判で押したように、また積極的に、聖変化と聖体拝領の時に跪くことを望む信者たちが跪こうとすることを阻もうとします。このようにして、跪くことを好む伝統主義的な信者たちは、あたかも自分が変化に対する自己中心的なレジスタンスをしているかのように感じさせられます。ある司祭たちは、彼らに、それは第二バチカン公会議に反している、と告げます。しかし、それは間違っています。正にこの問題における進行中の闘いが、事実、オンタリオ州のロンドン司教区にあります(参照:「チャレンジ・マガジン」9月号 p. 27)。ここに次のことを付け加えるのはおそらく適切なことでしょう。それは、聖体拝領台は、跪くことを望んではいても聖体拝領台の助けなしにはそうすることのできない人たち──たとえば病人や高齢者たち──を助けるだろうということです。結局、聖体拝領台を撤去することは、立つという新しい姿勢を押し付けることにおいて有効だったわけです。
ラッツィンガー枢機卿は言っています、「キリスト教徒の跪きは、既存の習慣を文化受容した一形式ではありません。それとは正反対に、キリスト教文化の表現であり、神についての独自の深い認識と経験によって既存の文化を変容させるものです」
跪きは、事実、聖書と聖書の中にある神についての知識に由来しています。枢機卿が私たちに思い出させるように、「その語は新約聖書だけでも59回も使われていて、そのうち24回が黙示録に出てきます。黙示録は、教会の典礼にとっての基準となる、天上の典礼を記す書です」
ラッツィンガー枢機卿はまた、教会の中で多くの人の念頭に浮かばなくなった──十字の印をすることと同様に──習慣である跪くことの重要性を示す注目すべき例に言及します。彼の本『典礼の精神』においてこう言っています。「砂漠の教父たちの教えに由来する物語があります。それによると、アポロンとかいう修道院長の前に、悪魔が神に強いられて姿を現わした時、その容姿は黒く、おぞましく見え、恐ろしいほど痩せた肢体を持ち、そして最も印象的なことに、彼には膝がなかったのです。跪くことができないことは、悪魔的なものの本質そのものとして著わされています」
ラッツィンガー枢機卿のおっしゃったことから、聖体拝領の時の跪きを捨てた人々は事実上聖書を捨てたのだ、と結論するのは、イマジネーションの拡張ではありません。何故なら、人はもしその時に跪かないなら、いつ跪くのでしょうか? 枢機卿はまた跪きについてこうも言っています。「信じることを学んだ者は、跪くことをも学びます。そして、もはや跪くことを知らない信仰あるいは典礼は、その本質において病んでいることでしょう」
現代の典礼学者とデザイナーとコンサルタントたちは、彼らの新しい神学は教会の心を表わしていると主張するけれども、そこには聖体拝領台に反対する教会文書も、あるいは聖堂からそれを撤去することを認可した教会文書もありません。バチカンは1967年の「Eucharisticum Mysterium(聖体の奥義)」において次のように言っています。「信者が跪いてご聖体を拝領する時、ご聖体に対するその他の如何なる敬意のしるしも要求されない。何故なら、跪くこと自体が礼拝を意味するからである。立ってご聖体を受ける時は、行列を作って祭壇に近づきながら、ご聖体を受ける前に敬意のしるしを表わすことが強く勧められる」
ヴァージニア州アーリントンのジョン・キーティング司教は、ご聖体への敬意に関する司牧書簡の中でこう言っています。「跪く行為ほど神に対する内なる敬意を明瞭に表わす体の姿勢はありません。相関的に、跪く姿勢は霊魂における敬意の態度を強め、また深めます」(「聖体に対する敬意についての司牧書簡」1988年12月4日)
従って、跪くことは、服従と降伏を表わす最高の姿勢です。カトリック教会で、私たちは、キリストのまことの現存に対する精神と心における全面的な服従を表わすために、体の姿勢によって、片膝をつき、あるいは両膝をつきます。これは主の現存によって啓発された敬意の外的表現です。聖体拝領台は、集会から聖域を切り離す仕切りです。それは、それが人の目に天と地、創造主と被造物を隔てる距離を視覚化する限りにおいて、人が人としての傲慢心を克服するのを助け、人がそれに相応しい心構えと敬意とをもってご聖体のキリストに近づき、それを受けることを可能にする建築構造です。更に付け加えれば、花嫁と花婿が聖域において神に奉献されるという意味合いおいて、聖体拝領台は婚姻の秘跡の意味を力強く視覚的に強化するものと考えられます。
聖体拝領台の撤去は、教会の中の多くの人々に大きな痛みを引き起こしました。それは多くの人々の方向感覚を失わせました。人々は、至極もっともなことに──特にご聖体における主のまことの現存に対する信仰の最近における圧倒的な喪失を見る時──「カトリック信仰の正に核心が危うくされている」と恐れました。ミサ聖祭は聖体拝領にその頂点を持つのですから、聖体拝領台は信者たちにとって最も高い重要性のある場所として以前のように再び置かれなければなりません。真のカトリック信仰の見地から言って、この昔からの建築構造物は、より大いなる霊魂の救いのために回復されなければなりません。
ココスキー氏のカトリック・インサイトへの過去の投稿──何故イエズスは苦しまれたのか」(2004年9月)
管理人注
[] ヨゼフ・ラッツィンガー著『典礼の精神』サンパウロ刊 p88
[] 同書 p200
[] 同書 p201
[] 同書 p201
[] 同書 p210
[] 同書 p210
ページに直接に入った方はこちらをクリックして下さい→ フレームページのトップへ
inserted by FC2 system