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ベラ・ドッド著『School of Darkness』第一章〜第三章

管理人
参照元のサイトを見れば、この本は全17章から成るようですが、第三章までしか訳していません。ここにはカトリックの話も陰謀の話も出て来ません。ただ人間の物語があるばかりです。が、私は訳していて泣けて仕方ありませんでした。
第一章
 私は南イタリアの数代続いていた母方の家の農場で生まれた。しかし、実のところ私は一連のアクシデントによってたまたまイタリア国内で生まれることになったアメリカ人だった。そしてまた、そのアクシデントの一つにより、私は6歳になるまでイタリアに留まれなければならなかった。何年かして私は、私の母が私をイタリアに残した理由の一つは、彼女が、自分はいつか他の子供達と一緒にニューヨークにいる父を、その子供達もろともイタリアに戻るよう説得することができるだろうと考えているからであると理解した。彼女にとっては Potenza の近くにあるその農場はわが家だったのだ。しかし、彼女はその説得に決して成功しなかった。何故なら、アメリカは彼らが選んだ場所だったから。
 私の母は、彼女の九人いる子供達のうちの末っ子がまだ赤ん坊の頃、未亡人となった。その後、年長の子供達の手を借りながら農場を切り盛りした。もし Rocco Visono が Lugano の家から Potenza に来ることがなければ、彼女は疑いなく残りの人生をその場所で送っただろう。
 しかし Rocco は、九人の子供と仕事詰めの生活にもかかわらず明るい黒い目と活発な性格をした、まだ魅力を失っていない Teresa Marsica と恋に落ちた。Rocco は下級官吏と結婚した一人の妹を訪ねるために来、そして Picerno の近くの村で Teresa と会った。Teresa が心を決めている間に、彼は Potenz で石工の手配の仕事を見つけた。彼女はほとんど説得されかけたが、しかし彼がニューヨークに行くつもりだと知ってためらった。彼女がそれに同意するまで長い時間がかかった。彼女は立派に育ったレタスと豆がなる彼女の肥沃な土をじっと見つめたことだろう。それは彼女の父親の農場であり、彼女の祖父の農場であり、そしてその祖父の父親の農場だった。彼女はどのようにしてそれを諦め、不確実さに向かって、またおそらく愛おしむ土地も仕事もないだろう場所に向かって、大西洋を渡ることができただろう。
 しかし、静かで青い目をした求婚者は忍耐強かった。そして子供達もアメリカに行きたがり、彼の側についた。何故なら Rocco が、そこでの生活について、自由について、また裕福になるチャンスについて、彼らの前で熱っぽく語ったからである。彼らは彼らの母親が折れるまで、論じ、嘆願した。
 年長の三人の男の子達は、彼らの父親として選ばれた人と共に行くことになった。私の母と他の子供達は、あとから彼らに加わることになった。私は今、故意に「選ばれた」と言った。何故なら Teresa は、自分がアメリカに行くまでは彼と結婚しようとはしなかったから。他の全ての諦めなければならなかったことに加えて、彼はこのことでも譲歩しなければならなかった。そして、彼を含む四人はアメリカに旅立った。
 イーストハーレムから、彼らは熱心なレポートを送って来た。そこには多くのイタリア人が住んでいた。それはまるで同郷人のコロニーのようだった。彼女は早く来るようにとせっつかれた。やむなく彼女は受け入れた。彼女は隣人と愛する土地に別れを告げ、また、彼女のそれまでの全人生を護ってくれた家、その中で彼女の全ての子供達が生まれた家に別れを告げた。農場を売るには忍びなかったので、親戚の手に託した。彼女はまたいつか戻って来るかも知れなかった。六人の子供達と共に、彼女は新しい家に向けて出航した。
 年長の三人の子供達と Rocco は、彼女を108番街の五つの部屋からなるアパートに意気揚々と案内した。彼女は彼らと再会できて幸せだったが、部屋々々にあるハチの巣には恐れをなした。しばらく前からアメリカにいる彼女の姉妹である Maria Antonia が彼女を歓迎するために訪ねて来た時だけ、彼女はいくぶん慰められた。
 1904年1月、Rocco Visono と Teresa Marsica は、イーストハーレムにある聖ルチア教会で結婚した。それはおそらく彼女がその生涯のうちで最もホームシックを感じた日だったろう。司祭の言葉を聞いた時、彼女の脳裡に過去の日々の、彼女の母 Fidelia の、父 Severio の、そして農場労働者達や彼女自身や彼女の兄弟姉妹達の、そして家族の祈りの時、彼ら全員が Picerno の農家の大きなリビングルームで共に跪いて祈ったことなどの記憶が蘇った。
 数ヶ月後、イタリアから Teresa のもとに、彼女の資産の管理について問題がある旨の手紙が届いた。この知らせを受けて彼女は Rocco に、自分は問題を調整するために戻らなければならない、そしておそらく農場を信頼できる人々に賃貸しなければならないだろう、またあるいはそれを完全に売り払わなければならないかも知れない(これはむしろ Rocco の提案だったが)等と言い、説得しようとした。
 Teresa が自分の妊娠を知ったのは、公海上に出てからのことだった。彼女はあわてた。イタリアでの仕事には何ヶ月もかかるかも知れない。赤ん坊はそこで生まれるかも知れなかった。
 農場の問題は彼女が予想したよりも長い時間を要した。1904年10月、私は Picerno で生まれ、Maria Assunta Isabella という洗礼名を与えられた。私の父の了解を得て Teresa は、自分はアメリカに戻り、私は養母の手に残すことに決めた。彼女は一年以内に戻って来たいと思っていた。しかし彼女が再び私を見ることができたのは、それから5年後のことだった。私が初めて自分の父親と兄弟姉妹を見たのは、私がほとんど6歳になろうとしている時だった。
 私の養母また乳母になった女性は、Avialano で羊飼いをしている人の妻だった。彼女は自分の子供をなくしていたので、私のことで幸せだった。5年間、私はこの純朴な人達と共に生きた。その小さな石造りの家には贅沢さはほとんどなかったが、私は養父母から愛情のこもった世話を受けた。私は彼らを覚えている。私の記憶は、私の人生の三年目に戻る。Mamarella は良い女性だった。そして私も大いに彼女を愛した。けれども、私のより深い愛情が行ったのは彼女の夫 Taddeo の方にだった。他には子供はなかったから、彼は私一人に親としての全愛情を注いだ。
 私は彼らの家を覚えている。そこには暖炉があり、夕食の時にはその前にテーブルが寄せられた。そして私は Taddeo の腕の中で、彼の大きな羊飼いのコートに包まれていた。後に私の人生が難しくなった時、私はたびたび、もう一度小さな子供に戻って、自分に向けられた保護的な愛情の中で座っていられたら、と願ったものだった。
 私の母は規則正しくお金を送って来た。そして Taddeo が持って来るささやかな報酬より多くの快適なものを、私の養父母に与えた。Mamarella は再三再四、Taddeo を丘の羊飼いではない何かにしようとしていた。彼女は冬の期間、彼が家を離れるのを嫌った。しかし、イタリアのその山地では冬は非常に寒く、そのため羊たちはもっと暖かく放牧に適した Apulia に追いやられなければならなかった。
 夏の間でさえ、Taddeo はしばしば一晩中丘に留まった。そんな時、Mamarella と私は、自分達もまた外で眠ることができるように、食べ物と毛布を持って彼のところに向かった。夫と妻が話している間、私は花と蝶に気を取られて彷徨っていたことだろう。私は、一つの丘のてっぺんから別の丘のてっぺんまで走ったのを覚えている。私の熱心な指は天に向かって広げられた。何故なら、空はとても近いように見え、私はそれに触れることができると思ったから。私は疲れて、編み物をしている母と私のために新しい一足の木靴を削っている父を探しに戻って来たことだろう。私が皮の靴をはくためには、私がアメリカに旅立つ正にその時まで待たなければならなかった。
 Taddeo は彼の羊から温かいミルクを私に与え、私に空について説明しようとしただろう。一度彼はこう言った。「心配しなさんな、おチビさん。たぶんいつか、君は空に触ることができるさ。たぶんね! 」
 そして彼は星々についての物語を私に語った。そして私は、星々は彼のもので、彼は天の星々を動かすことができるのだとほとんど信じた。私は毛布に包まれて眠りに落ちただろう。目覚めた時私は、自分が村はずれのわが家に戻っていて、自分の小さなベッドの中にいることに気づくのだった。
 宗教に関して漠然とした記憶がある。Taddeo の背中の上で、ある聖地に向けて、多くの人々と一緒に、深い森を通って数昼夜、巡礼の道を運ばれたことを覚えている。木々の周りがスミレのカーペットだったから、春だったに違いない。それ以来、多くの人達が一緒に唱える祈りのさざめきを心の中に聞くことなしには、私は決して青いスミレ(Wood Violet)を見ることができない。
 一人の子供が私に「煉獄」と呼ばれる場所について話したことがある。彼女は、もしあなたが司教様に、あなたの舌に塩をつけさせ、そしてあなたの額に水をつけさせることができたなら、あなたは天国に行くけれど、もしそうできなければ、あなたは何年も煉獄に居なければならない、と言った。私はこの事を Taddeo のところに持って行った。すると彼は、今回に限って、私を安心させようとはしなかった。煉獄は灰色の世界なんだ──と彼は言った──そこには木も丘もひとつもない。そして彼は、彼は私と一緒にそこに居ることになるだろう、と言った。
 彼は Mamarella に語りかけ、Mamarella は、この子はまだ幼いけれど堅信を受けさせるつもりだ、何故なら、司教様がその執行のために私達の町に来る予定だから、と言った。この事は大きな準備を要求した。私は「プリンセス・スタイル」に仕立てられたハイネックの新しい赤いドレスを持っていたが、私にとっては初めての革靴も持つことになった。
 その素晴らしい日が来た時、私は早くから教会に居た。それでも、堅信を待っている落ち着かない子供達にとっては、それはほとんど空虚な時間だった。大きな教会の中で、数個の座席が、祭壇に向けて置かれていた。それは一般の人々が座るところではなかった。というのは、それは町の偉い人達が座るところだったから。他の者は全員石の床に跪いた。
 私は跪いた。そして、私の周りにある幾つかの御像を見た。それらの中に、私のお気に入りがあった。聖アンソニー。優しい微笑みを浮かべ、腕には幼子のイエズスを抱いている。Taddeo は、聖アンソニーは私を見守ってくれ、私を悪から護ってくれる、と言った。そして、もし私が何かをなくしたら、聖アンソニーはそれを探すのを手伝ってくれる、とも。
 ある晩、夕食の時、私達は慌ただしい足音と興奮した呼び声を聞いた。
 「Una lettera d’America!(アメリカから手紙だよ!)」
 「きっとママからだ」と私は言った。「Mamarella のためのお金も入ってるよ。」
 彼女がそれを開けた時、私は、そこにはただとても小さな手紙があるだけで、お金はまったく入っていないのを見た。それが何についての手紙なのか、誰も私に言わなかった。数週間後、私は家に一人、暖炉のそばに坐っていた。その年の2月は寒かった。Taddeo は Apulia に行っていて、しばらくは帰れなかった。Mamarella は飲み水を汲みに村の泉に行っていた。
 私は踏み石を踏む聞き慣れない足音を聞いた。ドアが開き、そこに背の高く重いコートを着た一人の女性の黒い影が立っていた。彼女は私を見、何も言わずに私の体に腕を回し、抱擁した。
 私は驚いて彼女を見た。「あなたは、誰?」
 彼女はイタリア語で答えたが、しかしそれは、私達の村の言葉とはどこか違うもののように響いた。「私は、ここに住んでいる人達とお友達なの。羊飼いをしている人はどこ?」
 「彼はいないの。Apulia に行ってるの。」
 「あなたは彼のことが好きかしら?」
 「世界中で一番好き。いつでも彼のことが好きなの。」
 私は、彼女をじっと見つめ、この人は何故そんなことを聞くのだろう?と思った。
 「もちろん、そうよね」と、彼女はなだめるように言った。「こっちにいらっしゃい。そして、私があなたにお話をする間、私の膝の上に座っていて頂戴。けれど、その前に、あなたはあなたの本当のお母さんより彼のことが好きかしら?」
 「もちろん、そうよ。だって、私は本当のお母さんを知りもしないんだもの。」
 不思議な女性は私に微笑みかけた。「聞いて頂戴、いい子ね。私には昔、一人の女の子がいたの。」
 聞いているうちに、私は不安になり始めた。
 「私は、その子の世話をすることのできない知らない場所に行かなければならなかったの。そしてその時、私に親切にしてくれると言った一人の男の人と出会ったの。彼の名前は Taddeo っていうのよ。」
 「Taddeo?」 突然、私は理解した。そして、その女性の膝から滑り落ちた。「あなたは私の本当のお母さん。」
 彼女は私の髪をなでながら言った。「私は私の女の赤ちゃんに会うために、アメリカからはるばる来たの。彼女が私のことを好きだといいな、と思いながらね。」
 彼女の声の中の何かが、私の心を掴んだ。私は彼女のところに行き、彼女の首に腕を回し、そして私達は Mamarella が帰って来るまで、そうして座っていた。
 私は半分眠っていて、ただ自分にこう言ったことだけを覚えている。「この人は私のお母さん、私の本当のお母さん。あなたはあなたのお母さんを愛さなくちゃ。」
 彼女はその晩、帰って行った。しかし、一週間したら再び来ること、もしそうすることができなければ、私を迎えに誰かを寄越すことを言い残して行った。彼女は、私を連れてアメリカに行くと約束した。
 それから、全てが興奮した準備に向けられることになった。手紙が Taddeo に送られた。そして彼は、私が出発する時には家に居ることにする、と返事を返して来た。私にとってこの最後の週は、遊び仲間の中で一つの勝利となった。
 「彼女はあなたにプレゼントをくれたの?」と子供達は聞いた。「あなたは Potenza 行きの汽車に乗るの?」
 「アメリカの家はガラスでできているんだって」と、もう一人の子が言った。「貧乏な人は一人もいなくて、みんなハッピーなんだって。」
 「そして毎日マカロニを食べるんだって」と、別の子がかん高い声をあげた。私も知っていたこの事は、素晴らしい事を意味していた。何故なら、マカロニを毎日食べるということは、主食が豆とポレンタ(トウモロコシがゆ)だった子供達にとっては、富豪階級を意味するエッセンスのようなものだったから。
 「それで、あなたはいつか帰って来るの?」と誰かが尋ねた。
 どうようにしてかこの質問は、私に、自分はここを出て行くのだという初めての実感をもたらした。私は少しばかり動揺したが、それでも大胆に答えた。「もちろん、そうよ。そして、いつか、ここにいるみんなをアメリカに連れて行くね。」
 母と合流するために出発することになっている日の前日まで、Taddeo からは何の連絡もなかった。Mamarella は、パスタ・arricata、ナッツ、イカのレーズン詰めなど、素晴らしい夕食を用意した。甘い白ワインもあった。まるでカーニバルのようだった。私達は Taddeo を待った。しかし、彼は来ないのだとわかった時、私達は座り、黙って食べた。そして、テーブルを片付けた。私は Mamarella の椅子に背を向けて座った。彼女は泣いていた。しかし、私も泣いているのを見た時、彼女は泣くのをやめた。彼女は私を腕に取り、私のために歌を歌った──聖人達に関する歌を。
 依然として Taddeo は帰って来なかった。私は、彼に再び会えずに終わるのではないかと恐れた。私は、彼のことをいつまでも覚えていられるように、彼の姿を正確に心に焼き付けようとした。
 暖炉の火が残り火だけになった時、Mamarella はその上に灰をかぶせ、私達はベッドに入った。しかし、眠ることはできなかった。突然、私は、今までいつも聞いていたものを聞いた──踏み石を踏む、重い足音。ドアが開いた時、私は彼の腕の中にいた。私の足は冷たく、彼は自分のマフラーを取ってそれを包み、さすってくれた。
 Mamarella が入って来、そして火をつついて起こし、私に「動かなくていいわ」ときっぱりと言い、ポレンタを暖め始めた。Taddeo がその日の帰り道にあったことを私達に話す間、私は彼の腕の中でそのまま座っていた。
 「夜の間に半分移動したんだ。Avialano がこんなに寒くなるなんて思いも寄らなかったよ」と彼は言った。彼は、羊達を Filippi の手に預けて来たので、また直ぐに谷の羊小屋に戻らなければならなかった。彼は私達と一時間しかいることができなかった。
 「聖アンソニーが僕を連れて来てくれたんだ」と、彼は私に言った。「時間に間に合うように、ここに来るのを助けてくれたんだ。彼のことを忘れないようにするんだよ。彼は、君が行くべき場所に行くのを手伝ってくれるし、君がなくした物を見つけるのを手伝ってくれるからね。」
 私はほとんど彼の言葉に注意を払っていなかった。私は、彼がポテンザを食べ、パンを赤ワインの中に浸すのを見ながら、火のそばに坐っているだけで幸せだった。
 それから、彼は立ち上がり、外套を身につけ、首にマフラーを巻き付けた。「このマフラーは薄過ぎて役に立たないな。聞いてくれ給え、わが娘よ。君は私のために、アメリカから新しいものを一つ送ってくれるかな?」
 私の目は涙でいっぱいになった。彼は私にキスをした。「さて、いいさ、君はまたいつか戻って来るさ」と、彼は私を元気づけようとして言った。「そして君は今、素敵な家に向かおうとしている。そこで君は一人の令嬢になり、シルクのドレスと、そしてたぶん二足の皮靴を持つというわけだ。」
 「行きたくない」と、私はパニックになって叫んだ。「行きたくない! 行きたくない!」
 私がすすり泣くのをやめるまで、彼は私を抱いていてくれた。そして、こう言った。「さて、本当にもう行かなきゃ。Addio, carina.(さようなら、ごきげんよう)」 そして彼は、私を Mamarella に渡し、急いで家から出て行った。私は自由になろうともがき、彼のあとを追って走った。私はショールをはおっていなかった。私のドレスは風にはためいた。私は叫び続けた。「Taddeo! Taddeo!」 私は広場に着くまで道を駆け降りて行った。そして羊を追っている Taddeo と Filippi の姿を遠くに見ることができた。外の寒さは厳しく、地面は凍っていた。
 私は何度も何度も Taddeo を呼んだ。私は彼に見せるべく初めての革靴をはいていたが、紐を縛っていなかったために躓いた。硬い皮が私の足を傷つけた。私は雪の中に倒れ、すすり泣いた。そこに Mamarella が来て、私を見つけ、家に連れ帰り、温かい毛布の中に入れてくれた。彼女は、私が寝入るまで一緒にいてくれた。
 次の日、私は、それは聖母の祝日とカーニバルの日に着ることにしていたものだったが、堅信のために作った赤いドレスを着ていた。私の髪は丁寧に梳かれた。革靴の紐は足首に回して結ばれた。Mamarella は自分の結婚式の時の箱を持って来て、その中から白いシルクのスカーフを取り出した。それを三角に折り、私の顎の下でそれを結びながら、「私が若かった頃、これを使っていたのよ」と言った。そして私達は、私を連れ去るために待っていた馬車に向かった。「Madonna, questa creatura e tutti occhi」と、彼の小さな乗客を見た時、御者は言った。Mamarella と私は黙って座席に座り、荒涼とした山並みと道沿いに積み上げられた雪だまりを見た。そして、遂に、寒さに震えながら、私達は Potenza の駅に着いた。Mamarella は私を汽車に乗せ、そしてキスをした。私から全ての感情が飛び去り、私は泣くことさえできなかった。それから、母が私を待っている Naples まで、見知らぬ乗客達と共に、私は独りだった。
 私にとって汽車に乗ることは初めてだったが、それでも奇妙な感じはしなかった。私は窓の外の移りゆく景色を見ていた。しばらく行くと雪も山もなくなり、あるのは草と平野、そしてところどころのオリーブの木だけになった。一度、羊飼いと一緒の白い羊の群れが見えた。私は Taddeo を想った。しかし今や Taddeo は遠いところにあり、私は独りだった。私は私が知っていた全てから離れ、今、見知らぬものに向かって進んでいた。
 私が乗ったコンパートメントはほとんど空だった。車掌は Mamarella に、私のことを世話すると約束していた。木の座席に座っているうち、私は汽車の慣れない揺れに疲れ、自分の衣服をまとめた包みにもたれながら、とうとう眠りに落ちた。
 汽車が Naples に入った時は夜になっていた。車掌が入って来て、私の包みを拾い上げた。「Viene subito(すぐについて来て)」と彼は言い、私は彼の後をついてプラットホームに向かった。そして私は、そこで私の母が心配そうにしながら私を探しているのを見た。彼女は背が高く、真っ直ぐに立ち、元気そうだった。私は興奮して彼女に手を振った。そして、彼女が私の方に走りながら温かな笑顔を見せているのを見て、嬉しくなった。
 私は Naples で目にしたものにおびえた。そこには乞食がいた。彼らは哀れな声を出し、聖ロコの名のもとに憐れみを乞うていた。通りには汚い子供達がいた。そこには騒音と混乱があった。私は、私達の静かで小さな村に飛んで帰りたいと思った。そこでは人々は貧しかったが、しかし純粋で、誇りがあった。
 翌日、私達がアメリカに向けて出航する時、私は嬉しかった。
第二章
 私の母が五年もの間私を連れ戻すためにイタリアに来なかった理由は、のちに父が説明したところによれば、当時のアメリカは深刻な不況に襲われていたから、ということだった。父は母が旅をするためのお金を工面することができなかったし、小さな子供がひとりで旅をすることもできない相談だった。私は自分の父親の前で内気だった。彼はブロンドの髪を持ち、目は青く、母とは反対に控えめな人だった。しかし、彼の静かで内気な態度にもかかわらず、私は、彼は私を愛していると感じていた。彼は親切で、私を可愛がった。
 家には今や四人の子供達しか居なかった。他の子供達は結婚していて、自分の家を持っていた。彼らは自分達の新しい妹を見に来て、私のことで大騒ぎした。しかし彼らは、私の最上のドレス──Avialano では全ての子供達の賞讃を勝ち取った堅信用の赤いドレス──のことをからかった。彼らは私を笑い、今直ぐ店に連れて行ってもらってアメリカのドレスを買ってもらうべきだと主張した。私はとても抵抗を覚えたが、それでもその美しい赤いプリンセス・ドレスを片付け、それで私のイタリアの年月が終わった。そして私は、アメリカの子供になる仕事に熱心に取りかかった。
 まだ家で暮らしていた三人の兄弟達は私にじゅうぶん親切にしてくれたが、しかし彼らは自分自身の関心を持ち、その関心は確かに、六歳の女の子の関心、また英語を話さない子の関心とは一致しなかった。しかし、私の17歳になる姉カトリーナ(アメリカでの愛称でケイティと呼ばれていたが)は、私をよく手元に引き寄せ、可愛がってくれた。彼女は灰色の目をした、背が高く、スリムで美しい少女だった。彼女は親切で優しかった。彼女は、私が呼ばれていた名前 Maria Assunta が好きでなかった。それで、私が洗礼を受けた時別の名前──イザベラ──をもらっていることを知った時、彼女は私のことを「ベラ」と呼ぶと言って譲らなかった。
 ケイティは私を学校に連れて行った。彼女は、私が小さいけれど利口だと踏んで、実際の生まれ年より2年早い1902年生まれだとすることによって、私を早い学年に入れようと決心した。この初期教育の日々において、彼女は、私を第二学年に編入させることに何の困難も持たなかった。最初の僅かの日々、私は「南欧系移民! 南欧系移民!」とはやし立てる声に追われた。しかし私は、それに何の注意も払わなかった。私には、彼らが何を言っているのかわからなかったし、わかった頃にはクラスのリーダーとして受け入れられていた。
 私は学校との間を行き来するのが好きだった。特に、道すがらぶらぶらして、道の右側に停められた手押し車に商品が積み上げられているのをじっと見たりするのが好きだった。そこでは人々は、果物、唐辛子、菓子、そして服地や帽子さえ買うことができた。また私は、鳩が通りのそこらを、灰色とバラ色のコートを着て、銀色の翼をして威張って歩いているのを見るのも好きだった。
 私の母は、そのような街での喜びを、私と共有しようとしなかった。「田舎に住んでいたならねぇ!」と、彼女はしばしば漏らした。後年になって初めて、私は、彼女がどれほど街の汚い道、隣人達のするゴシップ話、そして狭いアパートなどを憎んでいたかを知った。そこにはもちろん公園もあった。しかし、それはそれで、彼女を更に、広々とした野原へのホームシックにするのだった。
 母は有能な女性だった。彼女は厖大な量の仕事をこなすことができ、それでいて、疲れているとか薄汚れているとか見えることは少しもなかった。彼女は私達のために、勉強と遊びの毎日のプログラムを素早く確立した。彼女は彼女自身、決して英語が上手でなかったけれども、私がそれを学ぶのを助けようとした。彼女はカレンダーを指差し、奇妙で柔らかな発音でそれぞれの月と日の名前を繰り返し、私はそれに続いて復唱するのだった。そしてそれから、彼女は箒を手に取り、それでキッチンの古めかしい時計の上の時間と分を指し、そしてまた彼女が言った後に私が繰り返すのだった。
 彼女がそのように教育の努力を傾けた理由の一つとして、私が思うのは、彼女は私が街の路上で時間を費やすことを好まなかったので、そうさせないために、学校が終わった後私を忙しくさせたかったのだろうということである。彼女は私に、裁縫、そして鉤針編みを教えた。彼女は時々、鉤針と目の粗い糸を取って、私にシンプルステッチを見せた。「いつの日かあなたも、婚礼用の布を自分で鈎編みしなければならないんだからね」と、彼女は厳かに言った。そして、私がそれに関心を示さないと知るや、彼女は付け加えた。「とにかく、何もしないで怠けていることは罪なんだから。」
 私は私の家族が好きだった。その全員が好きだった。しかし、中でも一番愛していたのはケイティだった。私は、彼女が優しかったからというばかりでなく、彼女が美しかったから彼女を愛した。彼女の顔に影を落とす髪、ほっそりした腰、そして彼女の綺麗なドレス。私の母は、彼女は騎兵隊の将校だった彼女の父親に似ている、と言った。私は間もなく、17歳のケイティはジョーに恋をしていると知った。長くて細い指をした、背の高い若い男性で、オペラスターのような気質の持ち主だった。
 私の新しい家族は徐々に、遠い Avialano にある私のもう一つの家族を過去の中に退かせた。しかし、時々、ハッピーでないと感じる時、また、父は冷たい、あるいは母は別の物に気を取られている、と思った時、私は Taddeo のもとに戻っている自分自身を想像した。そのような時、私は堅信式用の赤いドレスを箱の中から引っ張り出し、Mamarella が私の顎の下で結んだ白いスカーフを取り出し、その私の晴れ着を着て、Avialano に戻っている自分を想像した。
 四ヶ月で、私は、私の通っている学校──第一公立学校──で楽しく過ごすために不足がないほどに英語を話せるようになった。この学校はいまだに、かつてそれがそうであったところの特質──慈善学校、いわゆる「スープ・スクール」と言われる学校の一つであったところの特質──を保っていた。それは、幾つかの隣接する富裕階級の家々に囲まれており、祈りを捧げ、「コロンビア、海の宝石」を歌う毎朝のクラスを開いている二人の年輩の婦人達の管理を受けていた。
 私が第三学年に進む準備が整っていた時に、私達の家族はイーストハーレムから引っ越した。母はついに、自分はもうこの貸し住宅の取り散らかった生活に耐えることはできないのだ、と父を納得させた。そして、私達はウェストチェスターの家へ引っ越した。しかし、その家もまた十分ではないことがわかった。私達は数度の引っ越しを繰り返した。しかしついに、父がやがて成功するに至る食料雑貨を扱う会社を設立し、その数年後、母はキャッスルヒル近くの耕作に適した土地を持つ大きな家を手に入れた。私はこの家で、残りの若い時代を過ごすことになる。
 そこには64エーカーの土地と、不規則にだだっぴろく広がる大きな家があった。私達がこの家に住むことが決まる前から、母はこの農場を切望していた。それは私達の近くに住んでいた二人の未婚女性、マッティとセイディ・マンの所有だった。彼女らは年老いていて、母は病弱だったミス・セイディの世話をしていた。母はまた、彼女らの家にも気を配った。それで、その老婦人達は母のことを頼りにするようになった。私達がその家に住みに行ったのは、彼女らが死んだ時だった。
 元の所有者は、そのコロニアル様式の家を「巡礼者の休憩所」と呼んでいた。そこには灯油ランプ以外の灯りはなかった。屋根は雨漏りがし、トイレは外にしかなかった。しかし私は、最初からこの家を心から愛した。そして特に、二階にある私自身の部屋を愛した。何故なら、それは文字通り大きな栃ノ木(Horse Chestnut)の腕の中にあり、それはいつも素敵で、しかし春になってそれが白いキャンドルのような花を咲かせ、陽光に照らされて輝く時、特に素晴らしかったからである。
 私達の家は常に子供たちでいっぱいだった。私の若い兄弟達は出たり入ったりした。ケイティはしばしば赤ちゃんを連れてやって来た。その上そこには、犬、猫、にわとり、ガチョウがおり、山羊と豚さえいたことがあった。母は何でも上手に飼った。母が、にわとりと、私達の家を気前の良い仮の住まいと心得た野生の鳥たちのために、あまりに多くの餌を飼うので、父は、母が卵のためよりも餌のためによっぽど多くの出費をしていると言って不平を鳴らした。しかし、私はそれはどうかと思う。何故なら、母は良いマネージャーだったから。彼女は労働者を雇って自分の農場を運営した。しかし、全ての労働者の中で、彼女が一番の働き手だった。私達はあらゆる種類の作物を作った。それはわが家のためには十分過ぎるほどで、幾らかは父の店で売られ、また幾らかはワシントンのマーケットに出荷されたりした。
 私達はほとんど現金を持っていなかった。しかし、家を持ち、一面の良い土地を持ち、そして想像力に富んだ人、臨機応変な母を持っていた。私達は何のお金もなかった時にさえ、貧窮や生活の不安定を意識することがなかった。私は、家にあまりお金がなかった時、母が私達子供のために作ってくれた特別のデザートのことを覚えている。私達は、彼女が新雪と砂糖とコーヒーを混ぜて私達のために彼女バージョンの「グラニータ・ディ・カフェ」を作る時、いつも喜んでいたものだ。
 私達は私達の周りにあらゆる種類の隣人を持っていた──スコットランド人の家族、アイルランド人の家族、ドイツ人の家族など。私達の家からさほど遠くないところに、二つのカトリック教会があった。Holy Family Church には、主にドイツ人住民が通っていた。そして、聖レイモンド教会には、アイルランドのカトリック信者たちが。私達自身は、そのどちらにも属していないようだった。そして間もなく父と母は、秘跡を受けるのをやめ、しまいには教会に行かなくなった。しかしそれでも母は、聖人達の歌を歌い、彼女の記憶の倉庫から引き出した宗教的な物語を私達に語って聞かせた。
 私達はまだ自分達のことをカトリックファミリーだと考えていたが、しかしもはやカトリックの信心は実践しなくなった。母は私達に教会に行くようにと急き立てたが、私達は間もなく両親の例に倣った。私は、母は自分の英語力のなさや服装がパッとしないことで自意識過剰だったのだと思う。私達のベッドの頭のところにはまだ十字架像が掛かっており、母も聖母像の前に祈りのロウソクを灯していたが、私達子供は、それはイタリア人の古い習慣だと思うようになり、自分達はアメリカ人になりたいと願った。喜びつつ、しかし自分達が何をすべきかをまだわからぬまま、私達は私達自身の民族の文化から自分自身を切り離し、何か新しいものを見つけようとしていた。
 私にとっては、探索は公立学校と図書館で始まった。私達の家から半マイルのところに、一つの公立学校があった──第十二公立学校。そこの校長であったカンダン博士(よく関心の変わる人)は、生徒達をスクール横笛と鼓笛隊に合わせて行進させることが好きだった。彼はしばしば授業を中断させ、全員に、横笛と太鼓がリードする行進に加わるように言うのだった。その学校では、カンダン博士自身の指導による毎日の聖書読書の時間があった。私は、彼が私達に読んで聞かせる詩編と箴言を愛するようになり、それらの詩的な表現を素晴らしいと思うようになった。
 ウェストチェスター通りに面した私達の家の近くに、聖ペテロ監督教会があり、キャッスルヒルにはその牧師館があった。その建物と景色は、まるで英国教会の絵葉書のようだった。その敷地は半マイルかそれ以上にも及んでいた。夏に、私達はそこでブラックベリーを摘んだ。そして春には、スミレや Star of Bethlehem を探した。
 聖ペテロ教会は古い教会だった。その墓地には風雨によって名前が判読し難くなった墓石があった。日曜の午後など、私は時々、その墓地の中を歩き、人々の名前からその人物像を掴もうとした。アメリカの歴史に関するひっきりなしの読書によって、私はその墓地にある人々の全てをピルグリムファーザーズの一員、つまりピューリタンか、あるいは南北戦争の英雄であると考えた。私は、アメリカの過去の男性と女性への尊敬の印として、しばしばそれらの墓石に花束を捧げた。私は、自分がアメリカの一部となることを熱望した。植物のように、私はそこに根を張ろうとした。私達は、自分達の文化的な過去と絆を断った。しかし、新しい文化的な現在を見出すことは困難だった。
 聖ペテロ教会の牧師であるクレンデニング博士は、威厳のある親切な紳士だった。私達は、彼が牧師館から教会まで歩いたり車(訳者:馬車?)で行ったりする時に、彼に挨拶した。聖ペテロ教会の向かいには、私が通学途中で横切る、教会活動のための建物があった。ハンティントン図書館がその傍にあり、私はその司書と親しくなった。彼女は本の好きな子供達に関心があり、私に聖ペテロ教会の教区会館で行なわれている慈善裁縫会に行くことを提案したのも彼女だった。
 その活動を担当していたのは、牧師の娘であるガブリエル・クレンデニングだった。私達は週に一度集まり、縫物をし、そして歌った。私が「Onward, Christian Soldier(見よや、十字架の 旗高し)」や「Rock of Ages Cleft for Mes(ちとせの岩よ)」といった素朴な歌を教わったのは、ここでだった。他の子供達は通りを横切り、教会で奉仕するのがいつもの習いだった。しかし、この点では、私は彼らと一線を画していた。何故なら、私は実際には自分の教会との結びつきをほとんど感じていなかったが、それでも自分のことをカトリックだと思っていたからだ。私はミス・ガブリエルに、カトリック教徒は他のどんな教会にも参加することが許されていない、と説明した。彼女は理解してくれたようだった。それ以降、この件に関して決して反対もしなければ、私と論じようともしなかった。
 子供達が教会での奉仕から戻って来た時、私達は皆でお茶を飲み、クッキーをつまんでいた。それは最高に楽しい会だった。しばしばガブリエル・クレンデニングは、彼女のポニーの引く馬車に乗らないかと子供達を誘った。それは私にとってワクワクする冒険だった。そしてそれは、私の愛する人々の中で受け入れられることを意味していた。ガブリエラの母親はホラス・グリーリーの娘なのだ、と図書館司書が私に言った。私はホラス・グリーリーとは誰なのか知らなかったが、司書は、彼は有名な編集者であり愛国的なアメリカ人だった人だ、と説明してくれた。私はその家族のことを、私達の地域に健康的な感化を及ぼした家族であると記憶している。彼らは、私がアメリカ人気質とはどのようなものであるかと信ずることにおいて、一つの模範を与えてくれた。
 その小さな地域での生活は平和なものだった。各家族の集まりである私達の群れは、民族や宗教の違いを越えて互いに尊敬し合う人々でいっぱいだった。私が意識するのは互いの間の親切心だけであり、互いの間の違いではなかった。薬剤師のワイスマン氏、菓子屋のオーナーであるフォックス夫人、マクグラース家の人々、クレンデニング家の人々、ヴィソノ家の人々… 彼らは皆、僅かの敵意もなく、まったく分け隔てのない心で共に生きていた。私達は互いの違いを受け入れ合い、おのおのの人をそれ自身の特性において尊敬した。それは子供が成長するには素晴らしい場所だった。
 私が公立第十二学校を卒業する数年前に、第一次世界大戦が始まった。私は新聞の熱心な読者になった。私は、ドイツ人の残虐さを指摘するゾッとするほど恐ろしいプロパガンダを読んだ。私の想像力は掻き回され、熱狂的なものになった。それ以降、私は新聞を読む習慣を決して失わなかった。読んだものは、私の脳裏にその印を残した。
 1916年の秋、私はエヴァンダー・チャイルズ・ハイスクールに行く支度ができていた。しかし私は、それをもう一年延期した。私にとって、厳しく辛い年だった。7月のある暑い日に、私はトロリー式市街電車に乗って家に向かっていた。そして、降車地点が近づいたので、私は運転手に合図を送った。市街電車が停まり、次の瞬間、私は何が起きたのかわからなかった。私は激しく道路に投げ出され、私の左足が車輪の下敷きになった。
 私は気を失わなかった。私は、父が来てその腕に私を抱き上げ、頬に涙を流しながら私を医者に運ぶまで、道路に横たわっていた。救急車が到着した頃には、私は激しい痛みに襲われていた。しかし、私の横に坐った医者はとても親切で、私は、彼に面倒をかけたくないと思った。それで、フォーダム病院に着くまで、私達はジョークを飛ばし合った。
 彼らが私を病院に運び入れる時になって、私は気を失った。私が意識を取り戻した時、エーテルの病院くさい匂いと、情け容赦なく刺すような痛みがあった。私のベッドの横に坐った母の表情には、何かとても恐ろしいことが起こったことが伺われた。その同じ日、私は、自分の左足が切断されたことを知った。
 私の母は、オレンジ、花、そして私の興味を惹くと思ったものは何でもたくさん抱え、私の病室を忠実に訪ねた。それは、暑い、蒸し暑い夏だった。市街電車はストライキに入り、母は病院まで何マイルも歩かなければならなかった。彼女はこの酷い年の間、ただの一日も見舞いを欠かさなかった。
 それは私にとって苦い時だった。私は年のわりには背が高かったので、成人女性の病棟にいた。私は、苦しむ女性や死んで行く女性を見た。私は特に、一人の年老いた女性のことで強く感情を動かされた。彼女は壊れた腰を持って病院にやって来、医者達が彼女の足を切断した時、壊疽で死んだ。私はその夜、眠れなかった。そして、その後の多くの夜々においても。
 私の傷はなかなか良くならなかった。私はその病院にほとんど丸一年いた。ほとんど快方に向かわないままの処置に次ぐ処置、手術に次ぐ手術。私は、五度、手術室に運ばれた。私が最も寂しさを感じたのは、学校が始まった日だった。私は、病室の窓から、子供達が腕に教科書を抱えて通り過ぎるのを見ていた。私があまりに悲しげなので、ジョン・コンボイ医師は、私に体の状態を訊くのをやめたほどだった。
 「私は今日、ハイスクールでの生活を始めるつもりでした」と、私は泣きながら彼に話した。「これで私は、ラテン語で遅れを取ることになります。」 何故なら、ラテン語は私にとって、全ての教科の中で最も楽しみにしていたものだったから。それは私にとって、真の教育のシンボルのようなものだった。
 その午後、コンボイ医師は私のところに、彼がカレッジで使っていたラテン語の文法書を持って来てくれた。そして、私の勉強を助けてくれると約束した。私は直ぐにそれで勉強を始めた。
その病院にいる間、私はカトリック信者として登録されていた。しかし、私は私の教会からの誰にも会うことはなかった。時折、司祭が私の病棟を通った。しかし、彼を呼び止めるためには、私は内気過ぎた。しかし、クレンデニング博士とガブリエルは私を見舞ってくれた。そして彼らは、私に手紙をくれた。一度、クレンデニング博士は、宗教的な詩と格言が書かれた小さな本を持って来てくれた。白いカバーには花の絵があった。そして口絵には、「落穂拾い」の複製があった。本のタイトルは、「Palette d’Or」。私はそれを読み、また再読した。
 外科手術が痛み以外の何ものももたらさないことが明らかになった時、母は私を家に連れ帰る決心をした。次の半年間、私は農場で過ごし、母が私を看護した。義足を取り付けることができるようになるまで、私は松葉杖であちこち歩いた。一人の開業医が週に一度、私を診るために家にやって来た。手術がうまくなされなかったからだが、しかし傷はゆっくりと癒えて行った。私は自分の時間のほとんどを、詩を読むことと書くこと、そして母との友情を育むことに費やした。私は病院を出たことがあまりに嬉しく、ほとんど完全な満足を覚えたほどだった。
 その頃は、私達の家族が死による喪失に苦しんだ時期だった。私の姉ケイティは二番目の赤ちゃんを失い、その後程なく、彼女自身がインフルエンザの流行によって死んだ。母はとても悲しみ、彼女の茶色の髪は白くなった。彼女がそのように苦しむのを見て、私も苦しかった。彼女の息子達は結婚していて、家を出ていた。一人の娘は死に、もう一人の娘は肢体不自由者だった。
 その頃、私は家でほとんどの時間を読書に費やした。私の母は地元の図書館から本を借りて来てくれたし、私の家には Munn 家の人達が置いていった本もたまっており、私はそれも読んだ。その家族はメソジストだったので、それらの本の中には色々な讃美歌集、古い聖書、解説書、そしてジョン・ウェスレーの説教集などが含まれていた。そこにはまた、シャルダンの書いた「In His Steps」という題名の本もあったが、それは私に深い印象を残した。
 古い聖書には私の目を惹き付ける魅力的な挿絵があった。また、私はジョン・ウェスレーの説教が好きだった。今日でも、彼の不屈さは私を励ます。それは、彼がその下で立って会衆に説教した英国のオークのように、堅固で真っ直ぐなものだった。
 そしてもちろん、それらの擦り切れた古い本の中には、福音書に通じる単純さが多くあった。私はそれらの中から、決して私の心から去ることのない私自身の祈りを、少しばかり編み出した。私がもはや信ずることをしなくなってからも、人がお気に入りの詩を口ずさむように、私はそれを繰り返した。次は、私がジョン・ウェスレーの本からヒントを得て作った祈りである。「親愛なる神よ。キリストの御ために、わが霊魂を救い、わが罪を赦し給え。アーメン。」
第三章
 1917年の秋、私の状態はほとんど良くならず、松葉杖を使わなければならなかったが、エヴァンダー・チャイルズ・ハイスクールでの勉学を始めた。母は私が学校に行き続けるよう励まし、体の障害に耐えた聖人達の話をしばしば語って聞かせた。彼女は、体に障害があっても心をしっかりと保持しさえすればどんなことでも達成できる、と私に信じさせた。
 それで、私は松葉杖と高い希望でもって武装して、ハイスクールでの年を開始した。私は、学校まで10ブロックの距離を歩いて自分のクラスに通った。私は、初めから好意を当てにしなかった。教師とクラスメート達は、じきに私の感じていることを理解し、私の独立心を尊敬した。
 その冬、私は初めて義足を身に付けた。それはあまり良くなかったが、松葉杖よりはマシだった。そして私は、本格的に学校の諸活動の中に参加し始めた。私は、他の生徒達がしているどんなことにも挑戦した。ハイキングに行くことまで。私は自然愛好クラブに入り、メンバーと一緒に Palisades に行き、そこで花を摘んだり鳥を観察したりした。疲れた時はしばらくの間坐り、他のメンバーが戻って来るのを待った。
 それらの日々、私は色々な困難にもかかわらず、ハッピーな少女だった。私は心から人生を愛し、多くの小さな事の中にも喜びを見つけた。時々、外に居る時、私は耳を澄ますために立ち止まった。世界全体が私に何かを囁いているように思ったから。春の風は、遥か遠くの美しい事を話しているようだった。
 当時、エヴァンダー・チャイルズ・ハイスクールの生徒総数は、男女合わせて1000名を超えるものだった。彼らの大部分は、スコットランド系、アイルランド系、ドイツ系のアメリカ人の子供達だったが、中には幾らか、イタリア系、ロシア系、そして他のヨーロッパ人の系統の子供達もいた。私達の宗教は様々だった──プロテスタント、カトリック、ユダヤ教。私達は、裕福であれ貧乏であれ、慎みを知った両親の子供だという点で似通っていた。誰一人、互いの違いを強調したり、自分の利益のためにずる賢く相手を利用しようとしたりはしなかった。
 ある日、イーストブロンクスから来ている一人の少女が──私は彼女と、その頃私が関心を持ち始めていた主題、すなわち政治について話したことがあったが──私がそれまで見たこともない一枚のペーパーを差し出した。それは「The Call」という表題を持っていたが、社会主義の刊行物だった。その印刷物は私の思考に新たな転換を与えた。私は他の号を探した。私は、社会正義を扱うそれらの記事を読み、鼓動が高鳴るのを感じた。貧しい人達の暮らしぶりやその生活の中に横たわる不平等を歌ったポエムでさえ、私の関心を惹いた。実際、私は初めて呼び声を、召命を感じた。無意識のうちに、たとえ感情においてだけだったとしても、私は「自分達は社会正義のために闘うのだ」と宣言している人達の軍隊に加わった。そして私は、「抵抗」という言葉が人を酔わせるものであることを知り始めた。物事の是非を判断する能力の中で、私の頑固なプライドが育って行った。
 私はハイスクールの体育の授業で通常のコースを受けることができなかったので、体育教師のミス・ジェヌビエーブ・オコンネルの指導のもとに勉学の時間を持つことが許された。彼女は私に、解剖学と衛生学のコースを与えた。彼女は、私がハイスクールで唯一出会った宗教的影響力だった。私がカトリック教徒であると知ると、彼女は私を、ニューヨークの聖レジス教会でセナクル(高間の会)として持たれている少女達のミーティング・クラブに参加しないかと誘ってきた。土曜日の午後、彼女と私は少女達の小さなグループと合流し、140番街の修道院及びリバーサイド・ドライブを訪ねた。
 ある時、そのクラブで、私達は円形になって坐り、一人の修道女が私達に本を読むのを聞きながら、めいめい簡単な編み物をしていた。私は読まれている本に関心を持つことができなかった。しかし、その会にあった単純さ、穏やかさ、そして真実であり不変であるものへの受容的態度は、私に大いに影響を及ぼした。
 セナクルは、たぶん私が声に出して問わなかったからだろうけれども、私が持ち始めていた疑問に直接の回答を与えてはくれなかった。しかしそれでも、私は週末の黙想会に数回出席し、そこの雰囲気にとても惹き付けられたので、個人的な黙想のためにもここに来させて欲しいと頼むほどだった。しかし、その試みは失敗に終わった。私は、霊的な事柄に関してはあまりに無教育であり、信仰的事柄についてあまりに無知だったので、私のガイド役をおおせつかった修道女が差し出す霊的な書物から、何も汲み取ることが出来なかった。
 しかし、その失敗にもかかわらず、私は、セナクルで過ごしたこの数週間が確かに私に価値のある何かを、そしてこれからも私の中で続くだろう何かを与えてくれたことを、知っていた。私はそこで、霊的な生活の深い平和を感じ取った。また、生まれて初めて参加した聖体降福式に、心を動かされた。短い祈り、香、高く顕示された聖体、音楽などは、詩を愛する私にとっては信仰の詩だった。のちの私の放浪において、幾度となく、思いがけない時に、その小さな美しい礼拝堂で修道女達が歌っていた Tantum ergo が、私の心にこだました。
 しかし、私自身自分の中で動いていると感じていたものを、私のハートは受け入れることを欲したが、私はそうできなかった。何故なら、自分の感じているものを非科学的であると拒絶する、外皮に覆われたプライドを、私は自分の知性の中に既に持っていたから。私はその中に、当時の教育界で一般的だった「科学は宗教に対立する」という考え方の、表面的で軽薄な音を反響させていた。
 エヴァンダー・チャイルズでの四年間で、私は英国歴史と科学で良い成績をあげ、私のカレッジへの進学を助けてくれる州の奨学金を獲得した。卒業の日、私は自分の卒業証書と、私の英語の優秀さに対し賞として与えられたシェリーとキーツの本を、胸にしっかりと抱いていた。賞を受けたことも誇らしかったが、更に誇らしかったのは、自分がクラスの中で最も人気のある女子に選ばれたことだった。
 秋、私はニューヨークの女子校であるハンター・カレッジに入学した。私は教師になる決心をしていた。私は強い決意と共に学ぶことを始めた。研究したい分野はたくさんあった。私は家から、当時私達の地域まで敷かれた新しい Pelham Bay Subway に乗って、毎日カレッジとの間を往復した。
 私の最初のカレッジの衣装は、二着のドレス(ボイルとギンガム)、黒いスカート、母が編んでくれた二着のセーター、そしてセーターと合わせて着る、襟に糊のきいた何枚ものシャツから成っていた。今日では、どんなに貧しくても、カレッジに通う女子の衣装はもう少し多いものだろう。しかし、私は衣装に不足を感じたことは一度もなかった。それがハンター・カレッジの特徴だったから。生徒達は、たとえ裕福な家庭の子でも、精神的な事柄の方に、より一層の関心を持っていた。
 カレッジはハイスクールと違い、最初の頃は、なにか今一つ活気がないように思えた。男女共学のハイスクールには、もう少しチャレンジの空気があったものだ。当時、ハンター・カレッジは移行期にあり、教師になりたい女子のために養成を行なう女子学園から本当の大学へと変わろうとしていた。しかし、学位を授与することができる大学になってからも、そこの空気とスタッフは、教師養成を行なう上品な専門学校であったそれまでと同様だった。
 しかし、その移行によって、教職員と生徒との間に漠然とした距離感が生まれたのも事実だった。それはたとえば、教職員の幾人かが絶えず私達に向かって、あなた方は市によって自由教育を受けさせてもらっているのだから感謝しなければならない、などと言うことからして明らかだった。生徒達の中に憤慨の流れが起こった。生徒達は、自分達はただそれを受ける資格を与えられたからそれを受けているだけだ、と感じていたから。
 ディーン・アニー・ハッケンボトムは良い女性だった。中年で、優雅で、育ちが良く、彼女自身ハンター普通学校の卒業生だった。私達女生徒は彼女を愛した。ただし、そこには彼女を見下しているようなところもあった。それはたとえば、彼女が、ハンターの女子生徒にとって帽子と手袋を身につけることや抑えられた声で洗練された話し方をすることはどんなに大切なことか、などと私達に向かってしばしば話す時などであった。私達は、心でというよりはむしろ耳で、彼女の話をお上品に聞いていた。
 教職員は主に、年老いたプロテスタントのアングロサクソンとスコットランド系及びアイルランド系のアメリカ人によって構成されていたが、若干の例外もあった。教育学部には数人のカトリックの教員がおり、僅かだがユダヤ人の教員もいた。その僅かなユダヤ人教員の中に Adele Bildersee がいた。彼女は英語を教えたが、彼女の生徒達にしばしば素晴らしいユダヤ教の祭日について話して聞かせ、またユダヤの古来からの祈りと書き物を声に出して読み上げ、どれほど彼女がユダヤの美を愛し高く評価しているか、また彼らの真理を深く信じているかを示すのだった。
 中世史を教えていた穏やかな女性、エリザベス・バーリンガム博士は、職員の幾人かからあまりに感傷的だと思われていた。おそらくその通りだったろう。しかし私は、彼女が私に与えてくれた中世に関する認識のことで、彼女に深い感謝を感じている。彼女は私達に、歴史上の事実の冷たい羅列ではなく、その時代に対する温かな理解を与えた。そして私に、十三世紀についての愛と、その時代におけるカトリック教会の役割についての認識を与えた。しかし残念なのは、彼女の教えていたことは、私達が死んだものと考えていた過去に関するものだったことだ。
 私に最も影響を与えたのはサラ・パークスだった。彼女は新入生に英語を教えていた。彼女の授業はほとんど過去とは関係がなく、現在と未来に関係していた。彼女は他のお行儀の良い教職員達とは違っていた。彼女は、あえて型破りであろうとするどんな生徒にもまして型破りであり、通勤時など帽子もかぶらず、ストレートのブロンドの髪を風になびかせながら、自転車でパーク・アヴェニューを駆け抜けて来るのだった。
 明らかに、ディーン・アニー・ハッケンボトムはそのことについてミス・パークスに何も言わなかった。しかしそれでも、私達生徒は、もし彼女が、私達が自転車で68番ストリートを駆け抜け、そして帽子なしであるのを見たなら、何と言うかを、よく心得ていた。その時、彼女は呆れ返っただろう。私は、もし彼女がミス・パークスの進歩的社会理論を知ったなら、更にもっと呆れ返っただろうと確信する。しかし当時のハンターでは、教室は教師の城だった。だから、誰もあえて口を差し挟もうとはしなかった。ミス・パークスの社会理論は私にとって、不穏なものであると同時に刺激的なものだった。
 ハンターでの最初の年、私はニューマン・クラブに入った。しかし直ぐに興味を失ってしまった。何故なら、その社会的な外観にかかわらず、他の活動は全てまったく旧態然に思えたからだ。そこには信仰教義に関する真剣な議論などほとんどなく、また、カトリック教会の地上的事柄への参加についての強調もほとんどなかった。私は、私の若い傲慢の中で、その雰囲気を反知性的なものであるとみなした。
 そのクラブを指導していたのは可愛らしい小柄な女性教師だったが、彼女は私から見ればあまりに現実離れしていて、彼女は彼女自身の宗教的隠遁のような孤独生活と生徒達が直面している問題との間にある広いギャップを埋めることなどできないのではないか、と思われた。しばらくして私は、議論のために提案するのを諦めた。そしてもはや、自分をニューマン・クラブの中に統合しようとすることをしなくなった。たとえ私がその場に身を置くことに、まだ何らかの道理があったとしても。私は、自分がどこに所属すべきかを決めるのは難しいと気づきつつあった。私は初めて不安を感じ始めた。
 私は、別の交友関係の中に、社会改革についての責任感でいっぱいの強い知的精力を持った女子達の輪の中に、流れて行った。私のベスト・フレンドはルース・ゴールドスタインだった。私はしばしば彼女の家を訪れたが、彼女の母は身の周りに旧約聖書の雰囲気を漂わせているような賢く立派な女性で、私達に手作りの美味しい料理を食べさせ、また堅実なアドバイスを与えた。
 ユダヤの祭日であるロシュ・ハシャーナ(新年祭)と過越の祭りの日に、ミセス・ゴールドスタインは私達を食事と家庭礼拝に招いた。その由緒ある儀式は私に感銘を与えた。この家族がいかに民族の歴史に忠実なままであるか、また、彼らがこの新しい地で祈りによっていかに過去との一体感を強化しているかを見ることは、私にとっては示唆的なことだった。ロウソクの火が輝くのを見ながら、またヘブライ語の祈りが唱えられるのを聞きながら、私は、自分の家族が互いにこれほどは結び付いていないこと、そして今やどこにも属していないようであることを、意識せずにはいられなかった。私達の両親が献身的な親であるにもかかわらず、その子供達である私達は、それぞれバラバラの方向に漂っているようだった。
 ハンター・カレッジには、他国で生まれた人達の子供もいた。私は、1905年のロシア革命に身を置いていた両親を持つ、数人の女の子達と親しくなった。彼女達は、彼女らの両親が社会主義者の理論あるいはマルキストの理論を論じ合うのを聞きながら成長した。彼女らは、時々自分達の両親のことを笑っていたけれども、その両親の叶わなかった理想と自分達の救世主としての使命感でいっぱいであり、来るべき共産主義活動において中核的な人達になろうとしていた。
 ハンター・カレッジにおける私の友人達は、様々なグループに属する人達だった。私はそれら全てから受け入れられていたが、自分はそれらのどこにも属していないと感じていた。私は様々なグループの人達と議論することに多くの時間を費やした。68番街のビルの地下室に、私達が内輪の喫茶室でありミィーティング・ルームでもあるものに改造した一つの部屋があった。その場所で私達は、一種の知的プロレタリアートを形成した。私達は、革命、性、哲学、宗教などについて、善悪の基準に導くどのようなガイドもなしに、論じ合った。私達は未来の「心の軍事同盟」や「新しい世界」について話し合った。それらは、現在の利己的な世界を脱却して、私達がその実現を手伝おうとしているものだった。
 私達は信念に関する共通の基盤を持っていなかったので、信仰問題においては不可知論、哲学においてはプラグマチズムを持ちながら、自由放任主義的な考え方の中に漂流した。この頃、ハンターには幾つかの宗教的グループがあった。私が交流を持ったあるグループは、自分達のグループのことを、入るのも出るのも自由な、当人の選択に任された社交グラブのように考えていた。私達の幾人かは、そのグループの前で公然と言った──「神なんていないわ。」 また、私達のほとんどが言った──「神はいるかも知れないし、いないかも知れない。」
 その頃のキャンパスには、僅かだが共産主義者がいた。しかし、彼らの存在はほとんど問題とされなかった。彼らは、革のジャケットを着たみすぼらしい人達で、人々に彼らのことを理解させることにも、また、彼らが他の人達を理解しようとすることにも、ほとんど関心を示さなかった。彼らの語ることは、主に、少数者の手の中に集中した富の不均衡を終わらすこと、そしてロシア革命の讃美だった。彼らはまた、良い音楽とヨーロッパ文学にも関心を持ち、また、「The Nation」や「The New Republic」といった "オピニオン雑誌" も読んだ。
 私自身の宗教的訓練は表面的なものだった。子供の時、私は Mamarella と一緒に教会に行った。私は、自分の祈りを唱えることを教えられた。家には、様々な聖画や十字架像が掛けられていた。しかし私は、自分の信仰の教義については何も知らなかった。それよりも、英文法のドグマ(定論)の方を多く知っていた。もし私が、何か信仰のようなものを持っているとすれば、それは、私達は隣人愛に献身しなければならない、ということだった。
 サラ・パークスは、私達を、新しいもの、そしてまだ試されていないものに駆り立てた。私は彼女から、ロシア革命についての好意的な見解というものを初めて聞いた。彼女は、それをフランス革命と比較した。彼女によれば、フランス革命はヨーロッパ文化に偉大なる自由化をもたらしたが、それはいつの日かロシアにおける革命においても達成されるものであるだろう、ということだった。彼女は教室に共産主義に関する本を持って来ては、それを読みたいと思う生徒達に貸したものだった。
 彼女が私の教師であった最初の年に、私は二つの学期論文を書いた。一つは、薔薇の栽培法について。そしてもう一つは、修道院制度についてだった。彼女はその両方に良い評価を与えた。しかし、修道院制度についての論文には、小さな不吉な命令が付けられていた──「会いましょう」。彼女は正直な人だったから、良いものに良い評価を与えないなどということはできなかったが、それでもそのテーマについては、一言言わねばならなかったのである。
 私が入って行った時、彼女は歓迎したが、何故そのような主題を選んだのか、と私に訊いてきた。私は、自分が中世史のコースで読んだものや、そこで自分のことを余所にして人々に奉仕した中世の無私無欲な男達や女達のことを知り、どれほど感銘を受けたか、ということを説明しようとした。
 「それがあなたの人生に対する感じ方というわけ? 17歳の女の子の?」と、彼女は軽蔑的に尋ねた。
 それは私の答えることのできない質問だった。そして彼女の知的な軽蔑は、私の心の中に疑いを引き起こした。
 第一学年の終りにあたり、私は、翌年の学費の足しにするためにお金を稼がなければならない、と決意した。そして私は本を売る仕事を見つけたが、それはまだ痛みなしには遠い距離を歩くことが困難だった私にとっては、かなり大胆な選択だった。
 その夏に私が売った本は、その題名を「Volume Library」と言ったが、それは子供向けに教える事実と説明とで満載の分厚い本だった。それは装丁の違いによって9ドルから15ドルした。私の販売地区はウェストチェスター郡の一地域だった。そこは私の家からはかなりの距離だったので、私はキスコ山のそばの農場の家族の家に部屋を借りた。
 私は一夏中本を売った。そして自分が優秀な販売員であることを証明した。それは疲れる仕事だったが、私は自分の衣服のため、ポケットマネーのため、そして翌年の学費のために、十分なお金を稼ぐことができた。
 秋に、私はハンターに戻った。私は、前の年にカレッジに入った時とは色んな意味で違った少女になっていた。その一年で、私の考え方が変わっていた。私は今や、科学について、また人間と社会の進化についてもっともらしく語り、宗教的な概念には懐疑的だった。私はいつの間にか、創造主を信ずる者は知的でない、来世を信ずるのは非科学的である、という考え方を受け入れていた。私は全ての宗教に寛容だった。それらは良い、それらを必要とする人々にとっては──と私は言った。しかし、自分の頭で考えることができる人間にとっては、そのようなものに依存する必要はないのだ。人間は、一人で真直ぐに立つことができる。人生に対するこの新しいアプローチは、私を陶然とさせた。それは私に追いつき、私を掴まえた。
 第二年、サラ・パークスは私の担当教師ではなかった。しかし、私はたびたび彼女と話した。何故なら、彼女は私達の幾人かを自分のアパートに招いたからだ。そこで私達は、まるで彼女が非公式の学部長でもあるかのように、彼女にアドバイスを求めた。
 彼女を愛する私達にとってサラ・パークスは、知的だが時々不毛感の漂う、ガリ勉によってファイ・ベータ・カッパ・キーを集めるだけの世界のように思われる勉学の世界に吹き込む、外からの新鮮な風のようなものだった。私達は次第に、評価と学位を軽蔑するようになった。私は、真の知性はファイ・ベータ・カッパ・キーを受け取るべきか否か、を議論したことを覚えている。何故なら、それは評価に基づいているし、民衆の競争本能を煽るのが常だし、そしてしばしば真の知的価値とは無関係のものだから。私達は、自分達は競争原理によってではなく真の学びのためにこそ、学者達との連繋を求めて動かなければならない、と結論した。
 ミス・パークスは、私達のあまりに多くの者が彼女の助言を求めて押し寄せるので、多忙な日々を送っていた。彼女は、彼女が「腐敗堕落(dry rot)」と呼ぶもの──既成社会──を、私達もまた情け容赦なく馬鹿にしながら私達の心を唯物哲学の受容に向けて整えることにおいて、重要な作用をおよぼす存在だった。私は確かに、彼女は幾人かの生徒達に特に援助の手を差しのべた、と言うことができる。しかし彼女は、信念において既にあまりに心が空っぽで、そのため何も信じなくなっている生徒達に対しては、ほとんど何もしなかった。このことは、彼女らの歩みを、私達の時代の大変な妄想の方向に、すなわちカール・マルクスの社会主義/共産主義哲学の方向に、向けさせることができるだけだった。
 彼女は、道徳的振舞いの既存の模範について疑いを投げ、道徳問題に対してプラグマチックなアプローチをしてみせることで、私達の幾人かを暗い迷路の中に導いた。性的な事柄が浸透し飽和した1920年代、知的な若者達は心の約束よりも性的な事柄の周囲で生きることに一層関心を持つようになった。それは「モダンガール(flapper)」の、ボブ・ヘアーの、フリンジ・スカートと不格好なドレスの、精神障害の、そして肉体優位の時代だった。私達は自分達のことを知識人と思い、自分達自身の行動規範を開発した。過去の時代を軽蔑し、また自分達の時代の未完成さと醜さにも嫌気がさして、私達は自分達のことをニュー・カルチャーのアバンギャルドであると規定した。
 第三学年の年、私はクラスの議長に選ばれた。私と私の友人の幾人かは学生自治と関係していた。それは私達にとって、自分達は重要なことをしているのだという感覚を得るための、大人達に対して苛立ちを表明するための、そして同時に、自分達は仲間の学生達が社会活動の意義を宣布するために助けとなる何事かをしているのだと感じるための、もう一つの機会だった。学生会の集会に向けて、活発で若い娘達はあらゆる種類のまばゆい提案を持ち込んで来た。そして、新しいものと実験的なものをサポートする用意のあった私は、彼女ら全員に熱心に耳を傾けた。その最もハードな仕事がウォール・ストリートのオフィスでティッカー・テープを引っ張ることであるといった人々によって蓄積される富について私達が読んだ時、私達の小さなグループは声をあげて憤るようになった。それは都市における仰々しく品のない時代だった。そして私達のグループは、物質的な事柄に対する軽蔑を表明するために、ほとんど禁欲的なまでになった。
それほどまでに世界を助けることを願い、自分自身を賭けるものをあちこちと探していたその熱狂的なグループのことを振り返ると、当時の私達の真面目さを、私は痛ましく思う。私達は皆、その全員が、本当の善に向かっての強い意志を持っていた。私達は荒涼たる現在を見た。そしてそれを、貧しい人々、困難を抱えた人々のために、素晴らしい未来に変えたかった。しかし私達には、確かな考え方と効果的な行動の基礎がなかった。私達には、人間の性質と定めについての深い洞察がなかったので、真のゴールも手にできなかった。私達には、フィーリングと感情があった。しかし、未来図を作成するための基準というものがなかった。
 第三学年の後期に、私は学生会議長のミーナ・リースと一緒に、ヴァッサー・カレッジで開催された大学間会議に出席した。そこに居た五日間、ヴァッサーは私達をアット・ホームな感覚にしてくれた。私達が宿泊した寄宿舎での昼と夜は、有意義な対話と刺激的な意見の交換で満たされた。
 その会議では多くの事が議論された。その中の一つに、女子学生クラブとその廃止の可能性についての議論があった。女子学生クラブに参加していないことは、それまでの私にとっては問題ではなかった。しかし今、一団の代表者達によってされるそれについての鋭い批判を聞いているうちに、私は自分が今までその問題についてあまり敏感でなかったと感じざるを得なかった。私はいつも、その問題はどちらかというと子供っぽいものだと考えていたのだが、その会議は、それを一つの社会問題だと考えているようだった。
 私達は、学生による自主管理制度の重要性について議論した。また、自主管理制度に関する議論との関連で、犯罪に対する懲罰の問題についても話し合った。それは懲罰と考えられるべきか、それとも抑止力と考えられるべきか? 支配的なグループは、それは後者の意味でのみ考えられるべきだ、と主張した。しかし私は口を開き、それは確かにその両方の意味において考えられなければならない、と言った。
 最終学年の年、私は学生会の議長に選ばれた。その年、私はハンターで自主管理制度を確立するための運動をリードした。そしてまた、その年、私は学生自治に政治学を取り入れ、大統領選挙の際に初めての学内世論調査を行なった。そして、その少し後で、私は社会衛生についての一連の講義を要求して、ディーン・ハッケンボトムを卒倒させた。私は学校政治家達のグループに支えられ、それによってよく組織化されたグループというものの価値を知った。そして、それが与えてくれるパワーによって陽気になった。
 その前年のことだが、ある日、教育学部で教えているハンナ・イーガン教授が、ホールで私を呼び止めた。そしてこう尋ねた。「あなたは一体全体どうしてニューマン・クラブに来ないの?」
 私は有効であると同時に礼儀正しくもある弁解を探そうとした。しかし、私の混乱を見て、彼女は厳しく言った。「ベラ・ヴィソノ。あなたは学生会に選ばれて、学生達の人気を博すようになってから、今までずっと、地獄に真っ直ぐに向かっているのよ?」
 私は仰天した。これはとても古臭い考え方のようだ──と私は考えた。しかし、確かに私はうろたえてもいた。「アブ・ベン・アデム」の中の一節を繰り返すことで、私は自分を慰めた。「神に忠実な人達を愛している者として、私の名前も書いて下さい。」 この考えが、かなり私を元気づけた。私は、ミス・イーガンが私に負わせようとした個人的責任を捨て去った。重要なのは──と私は言った──わが人類同胞を愛することだ。
 それは新しいクレド、同胞愛のクレドだった。そして、世界がそれをとても必要としているのは明らかだった。それは、キリストの磔刑の神性は否定していたとしても、なお十字架の重要性の幾つかは保持している良いフレーズだった。それは、痛みと自己犠牲を喜んで引き受けるクレドだった。しかし、それは約束されたキリストの贖罪に関しては懐疑的だった。私は、自分にはもう古いクレドは必要ないのだ、と言い続けて、自分を励まし続けた。私は現代人だ。私は科学の支持者だ。私は、自分の人生をわが人類同胞に奉仕することに捧げるつもりだった。
 1925年6月、私はカレッジを優秀な成績で卒業した。卒業式は、直近の未来について考える必要を私に運んだ。私は既に、ニューヨークで初等教育と高等教育の両方における教師試験を受けていた。そして、状況は教師不足だったので、私は合格する確信があった。
 卒業式の翌日、私はルース・ゴールドスタインの家にいた。私達は二人とも、修士号を取ろうとの意図で、コロンビア大学の夏期セッションに登録した。そして、彼女の姉のガートルードが私達に、いったい何故コロンビアに行こうとするのか、との問いを向けた時、私達はギクリとした。「カレッジが終わった今、あなた方女の子は仕事に就かなきゃ駄目よ。──あるいは、結婚ね」と彼女は言った。
 ルースと私は彼女の言葉に微笑んだ。しかし彼女の言葉は、私の中に思考の連鎖を引き起こした。カレッジの年月においては、私は学生であり、政治家であり、改革者だった。しかし今、考える時間を手にしてみると、私は、自分が女性でもあるのだと気づいた。私は、私が受けた教育は私の女性としての訓練においてはほとんど何もしなかったのだ、と気づいた。
 しばらく前から、私は、自分が更なる足の手術をしなければならないと知っていた。そして学校の課業から自由になった今、私は突然の決定をくだした。私は、ブロンクスにある聖フランシスコ病院に行った。何故その病院を選んだのか、自分でもわからない。私との面会に現われた修道女に、私は、足の手術をしなければならないのでこの病院に関係している最良の外科医を紹介して欲しい、と言った。彼女は私に、ドクター・エジャートンの名前を与え、また、パークアヴェニューにある彼のオフィスの住所も教えてくれた。私は直ぐに彼に会いに行った。
 ドクター・エジャートンは、身長は6フィートをゆうに超える人で、非常に大きくまた有能な人に見えたので、私は直ぐに信頼感を持った。私は彼に足を見せ、「どう思いますか?」と訊いた。
 彼は即座に迷いなく答えた。「これは壊死による切断だね。」
 「何かできることはあるでしょうか」と、私はおどおどしながら訊いた。
 「もちろん、ありますとも」と彼は言った。「もっときれいにカットすることです。そうすれば、あなたはもっと楽に歩くことができます。退院後六週間であなたはダンスしたりスケートをしたりできるようになる、と約束しましょう。」
 話し合うべきもっと大事なことがあった。「費用はどれくらいになるでしょうか」と私は尋ねた。彼は疑いもなく適正であるところの金額を示した。私は、自分でもビックリするくらいの自信をもって言った。「私はカレッジを卒業したばかりで、今、まったくお金がないんです、ドクター・エジャートン。でも、足が良くなり次第、できるだけ早く仕事を見つけて、できるだけ早くお支払いします。」
 彼は私に微笑み、「やってみましょう」と言った。そして、聖フランシスコ病院に翌朝入院できるように手配してくれた。
 私は素晴らしい人々のもとに置かれた。担当のフランシスコ会の看護婦達は有能で、下級の看護助手の人達までもが優秀だった。入院した時、私は自分の宗教についての質問を受けた。私は、自分はカトリックだったが今は自由思想家である、と、間違いなく若者特有の虚勢でもって答弁した。
今、当時をことを振り返ると、宗教に関する私のその答弁に誰も注意を払わなかったことを残念に思う。修道女達は私の部屋を出たり入ったりし、テキパキと働き、そしてフレンドリーだった。また、一度か二度、一人の司祭が通り過ぎるのを私は見た。しかし、誰も私と話すために入っては来なかった。私が病院にいる間、誰一人、宗教に関して私に話しかけてこなかった。もし誰かがそうしていたら、私は答えたかも知れなかった。
 退院して六週間後、ドクター・エジャートンが約束した通りに、私はずっとよく歩けるようになった。ほどなくして私は、シーワード・パーク・ハイスクールの歴史学の代理教師の職を得た。このハイスクールは規律が低く、難しい学校に思えたけれども。私は、中世史と西洋史で六クラスを担当することになった。
 私が教室に入った時、生徒達はもう何週間も教師なしであり、チョークやら消しゴムやらを投げ合っているような状態だった。私は、仕事に対する敬意の感覚と自分の理想を貫こうとする決意と共に教室に入ったのだったが、全ての若い教師と同様、現実と理想との間には広いギャップがあるということを学ばねばならなかった。いかに教えるかを教師が学ぶのは、教室においてだった。教授法について学んだ全てのことは、ただ目標を指し示す目安でしかなかった。
 少年達は明らかに私を試すつもりのようだった。二日目、私は教室に入るなり、教室の後ろで火が燃えていることに気づいた。私は煙を上げている屑のことろまで行き、火を消し、近くにいた四人の少年をつかまえた。
 「誰が火をつけたの?」と私は詰問した。彼らは、自分達は関係ないとシラを切った。そこではそれ以上できることはなかった。火は消えたので、私は西洋史の授業に戻った。私は、自分の問題を歴史学の学部長も教頭も呼ぶことなしに解決しようと決心した。しかし私は、一人の年長の少年に助けを求めた。
 「エバンス」と私は言った。「あなたは他の子達より年上だわ。この問題で私を助けて頂戴。」
 エバンスは頭を掻き、考えながら言った。「ええと、ミス・ヴィソノ。あなたがしなければならないのは、彼らの苦痛を取り去ることです。そうすれば、彼らは落ち着きますよ。」
 それは良いアドバイスだった。私は彼らの関心を刺激するように、懸命に努めた。そして、彼らは落ち着いていった。学期の残りは、それ以上のどんな乱暴な示威行動もなしに過ぎて行った。
 私は、自分自身が政治に強い関心を持っていたから、私の若い生徒達にもその方面への関心を起こさせようとした。私は彼らに、教室に新聞を持って来させ、活発な議論を始めた。少年達の大部分がタブロイド版をもって来た。私がその選択について多少の不快感を表わした時、生徒の一人、若いモーリス・レヴァインが私に言った。「おやまぁ、ミス・ヴィソノ。あなたは僕に何を読ませたいのかな──タイムズ? でも、僕は株券も債券も持ってないんでね。」
 シーワードパークの学期は、2月の初めに終わることになっていた。年が変わり1926年になってしばらくしてから、ハンター・カレッジの政治学部長であるドーソン博士から電話があり、私にカレッジでの職を提供した。1926年の2月、私はハンターでの授業を始めた。
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