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跪 き

1991年
ジェラルド・ホフマン
不必要な種々の委員会(committees and commissions)における深刻な問題は、彼らが彼らの存在を正当化するために何かしなければならないと感じる、ということです。その結果、彼らは存在しもしない問題を見つけ、必要でもない治療を決めます。
最近の、ミサの中から跪くことを取り除きたいという衝動は、私には好例のように思えます。跪き台の膝ぶとんは引き剥がされつつあります。教会は、聖堂用の長椅子も跪き台もなしで、ただの椅子だけで建設されます。跪き台がまだ破壊されていないますます多くの教会で(また、私が知っている司教座聖堂でも)、人々はたとえ奉献の時でも立ったままでいるように教えられ(あるいは命じられ?)ます。何が起っているのでしょう?
私のシニシズムを許してください。しかし典礼の「専門家」達は作業中です。彼らは物事をそっとしておくことができません。彼らはなんとかミサの美しさと敬意の多くを破壊することができました。そして彼らは、彼らがまだまだ活躍中であり「必要とされている」存在であることを証明してくれる何かのために、走り続けなければなりません。
跪くことの重要性は何でしょうか? 私は、それがまるで価値のないものであるかのように、捨てられるべき、取るに足りない何か──ではない、と主張します。跪きは服従と降伏の究極の姿勢です。カトリック教会において私達は、キリストのまことの現存に対して、私達の精神と心を完全な形で表わすために、体の態度によって、片膝をつき、また両膝で跪きます。それは主の現存によって促された、敬意の外部的な表現です。しかし現在、キャンペーンはそれを取り除くことにあります。
なにかとても愚鈍な理由が与えられました。一人の「専門家」は、ある人々が跪く時、彼らがうつむく、と言って嘆きました。そのことが彼に、その見苦しい光景を取り除くための理由を与えました。しかしそれでは、立ちながらうつむく人達はどうされるというのでしょうか? 私にはまったく分かりません!
私は、教会の典礼にとても多くの無秩序を引き起こした原因に、あることが関係していると思います。即ち、「自己」の強化。我々は今やとても重要だ! とても大きくなった! とても素晴らしい! 我々はもはや屈服する必要はない! 跪くことはとても卑屈なことである! 立ち上がって誇り高くせよ! そのような態度が、おそらく原因の一部であることでしょう。公的な宣言としては、そのようなことは何も明らかには表明されていないけれども。
非常に実際的な観点からさえ、跪くことは役に立ちます。長い時間立ち続けることによる退屈、堅さと凝りは、特に高齢者において、いろいろな姿勢を取ることによって軽減されます。立つ、坐る、跪く。跪くことはしばしば、立つか座るかしている長い時間からの喜ばしい救済です。
もう一つの側面は、正確に調べることが難しくもあります。それは、カトリックの信仰を識別させるものを取り除くことを好む態度です。それは、誤ったエキュメニズムと呼ばれているものです。もしカトリック教会の中に、信仰か実践における何かユニークなものがあって、それが他派の教会との融和を難しくしているのであれば、カトリック教会はそれを修正しなければならない、と。このようなものが、カトリック信仰にとって本質的でない事柄についてばかりでなくその本質に関わる事柄についてすら絶えず変革を声高に叫び続けている人々に特徴的な態度です。我々は「違って」いてはならない、と。カトリック教会が一にして真なる教会であるという事実も、カトリック教会のあるべき姿を決める際の最優先の理由とはならないようです。
跪くことが信条やモラルの問題でないこともまた真実です。それは、私達のアメリカの司教団と同様に普遍的な教会によっても決められた、明確な決議の対象です。「ローマ・ミサ典礼書の総則」(第20、21項 [] )と「アメリカ合衆国司教区のための典礼総則の附録」(第21項)は共に、ミサにおける信者の姿勢に言及しています。普遍教会は、「場所が狭かったり、出席者の数が多かったり、他の重要な理由がないかぎり、奉献の時には跪くように」と告げられています。私達の司教団は、典礼総則の中で彼らに与えられた権限を利用して、「人々は『サンクトゥス』を歌うか唱えるかした後から奉献の祈りの最後の『アーメン』(主の祈りの手前)まで、跪くこと」と定めました。
奉献の祈りの間の跪きがもはや役に立たない何かとして破棄されることもあり得る、ということも真実です。しかし、私の精神と同じく私の心は、それは役に立つ、それを捨てることは嘆かわしい間違いである、と大声で叫びます。跪くことはカトリックの霊性にとって重要な部分なので、それが取り除かれるならば、私達はただ貧しくなるだけです。
カトリック教会に入って、片膝をついて、御聖体の前で跪き、御聖櫃の中の主の現存を認めることは、今やなんと本能的であることでしょう。私達はどれほど多く、午後の静けさの中で美しく小さなカトリック教会に入り、服従、敬意、そして祈りのために、そこで短い時間跪いたことでしょう。しかし今、私達は、パンとワインがキリストの御体と御血になる瞬間においてすら跪くことを取り除こうとするキャンペーンに直面するのです。
「専門家」達は作業中です。跪くことはターゲットとされました。典礼の「専門家」達は粘り強い生きものです。彼らは、彼らが手をつけることができる限りの教会で膝ぶとんを引き剥がさない限り、おそらく休まないことでしょう。
残念なことです。私達の霊的な遺産の他の部分も失われるかも知れません。私達が声を挙げるなら、たぶん、まだ遅過ぎはしないでしょうが。
管理人注
[] 現在の版での項目番号は「第42、43項」です。
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