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シスター・ルチア詐称者

警告
以下は教皇座空位論者の文章です。私は教皇座空位論に同意しません。しかし、それにも拘わらず、ここには見るべきものが多いと思います。
一部、質の悪い写真を質の良いものに差し替えました。
THE IMPOSTOR SISTER LUCY
問: 1960年以降のシスター・ルチアの声明について、私達はどう考えればいいのでしょうか? 引用された彼女の言葉は錯綜した様相を呈しているのではないでしょうか? ある引用では、彼女は「ヨハネ・パウロ二世はロシアを確かに奉献しました」と言ったことになっており、別の引用では、それと正反対のことを言ったことになっています。ある引用では、「第三の秘密は決して公開を目的とされたものではありません」、あるいは「誰も地獄には行きません」などと言ったことになっており、別の引用では、彼女は「教会の悪魔的方向感覚の喪失」について語ったことになっています。
答: 1960年以降、私達は疑いもなく、大規模な陰謀、そして偽シスター・ルチアに向き合っている。私達は今、ファチマ・メッセージの敵がフリーメイソンであったヨハネ23世 [1] が統治していた時代から事を起こし、そして実際、本物のシスター・ルチアを不正に装い行動する偽シスター・ルチアを導入したことを確定する、明確な証拠を捉えるであろう。1960年以降のシスター・ルチアから出たものには、何一つ信用の置けるものはないのである。
まず第一に、私達は、1959年に始まるシスター・ルチアが関係した一つの陰謀があったことを知っている。1957年、シスター・ルチアはヤシンタとフランシスコの列福請願の発起人であるアウグスチン・フエンテス(Augustin Fuentes)神父に、彼女の有名なインタビュー [2] を与えた。そのインタビューの中でシスター・ルチアは、私達が終わりの時代に居ること、また、世界のために懲罰が待ち受けていることを確言した。彼女はまた、私達は償いをすることへの勧めが教会の指導層から来るのを待つべきではないとも言った。しかし、そのインタビュー後の1959年、コインブラ司教区は一つの文書を発表し、その中で、フエンテス神父はそのインタビューの中でヤシンタとフランシスコの事には特には関係もない話をルチアと交わし、それらの内容を彼女自身の口から聞いたのであると主張しているが、実のところそれら全ては彼の捏造によるものである、と宣言した。その文書にはシスター・ルチアのものとされる声明文も載せられており、シスター・ルチアはフエンテス神父の主張は事実に即していないと言った、とされている。その文書の一部がここにある。
フエンテス神父のインタビューに関するコインブラ司教区の声明(1959年7月2日)
ファチマの幻視者の列福請願の発起人であるアウグスチン・フエンテス神父は(…)コインブラのシスター・ルチアを訪れ、もっぱら当該列福過程に関してのみシスター・ルチアと語ったものである。しかし、彼はメキシコに帰って後(…)センセーショナル且つ黙示録的且つ終末論的な宣言をすることを自らに許した。そして、それが正にシスター・ルチア自身の口から出たものである、と明言したのである。このような声明の重大さに鑑みてコインブラ司教区は、この情報の信頼性に関する厳重な調査を命ずることが自らの義務であると看做した。(…)そしてまたコインブラ司教区は、シスター・ルチアによって言われたとされている同内容に関して、彼女自身の回答をここに掲載する。これは、そうする権限のある者によってシスター・ルチアから聴取されたものである。
シスター・ルチア:「フエンテス神父様は、神の僕であるヤシンタとフランシスコの列福請願の発起人としてのお立場において私とお話しになりました。私と神父様はこの主題に関することだけを話しました。ですから、何であれ彼が他の事で言及していることは正確でもありませんし真実でもありません。私はこのことを残念に思います。何故なら私は、真理である方、即ち天主様に基づいていない事がどのようにして霊魂に利益をもたらすことができるのか、分からないからです。私はそのような懲罰については何も知りません。従って、それについて何かを言い得る筈もありません。それが私の口から出たとされていることは、不正なことです。」
コインブラ司教区の立場として次のように宣言する。即ち、シスター・ルチアは現在迄、ファチマについて自分が語るべきと考える全てを語ったのであり、それ故、彼女は現在、それについて言うべき新しいことは何一つ持っておらず、従って、彼女は少なくとも1955年以降、ファチマに関するどのような新しいことであれ、それが彼女の口から述べられたとして公表する権限を誰に対してであれ与えてはいないのである。[3]
WTAF, Vol. 3, pp. 550-551
“司祭” グルーナーの使徒職でさえ、フエンテスのインタビューは真正のものであり、シスター・ルチアがそのインタビューの内容の大部分を否定しているとするコインブラ司教区の声明は嘘である、と判断している。このように私達は、1959年という早い時期から存在したシスター・ルチアをめぐる陰謀に向き合っているのである。即ち、その時司教区は、世界のために与えられた重要な警告を否定するために、シスター・ルチアの名を使って嘘の声明をデッチ上げ、公表したのである。そして同時に司教区は、都合良くも「シスター・ルチアは、自分がファチマに関して言うべき義務があると信ずる事を既に全て言ってしまったのだ」と結論している。言い換えれば、シスター・ルチアにはファチマに関して言うべきことはこれ以上何もない、ということである。そして、フレール・ミッシェル(Frere Michel)はこう書いている──フエンテスのインタビューの後、シスター・ルチアに接触するのはますます難しくなった。彼女は「見えなく(invisible)」なった──と。
その時以来[フエンテスのインタビューとそれに対する司教区の否定があった後]、彼女は、ファチマに関する全てのことに関して沈黙を守るよう、また特に、秘密の重大なテーマに関して沈黙を守るよう、極めて厳しい拘束を受けた。(…)既に見たように、コインブラの司教区は1959年7月2日、「シスター・ルチアはファチマに関してこれ以上何も言うことはない!」と高圧的に宣言した。そして、それからというもの、彼女に会うことはますます難しくなっていった。そして何年もの間、彼女の書き物は何一つ公表されなくなった。彼女に証言させることは厄介事になりつつあったのである。1962年、マリア・デ・フレイタス(Maria de Freitas)は、「ますますシスター・ルチアに会うことは禁じられるようになりつつある。ますます彼女は見えなくなりつつある」と述べている。[4]
聖三位一体のフレール・ミッシェル著『ファチマについての全真理 』
Vol. 3, pp. 748-749
さて、私達は、(他の証拠に加えて)次の写真が、何故フエンテスのインタビュー後、シスター・ルチアは厳しい沈黙を課せられたのか、また「見えなく」なったのかの理由を明らかにするものであると信じている。それは、その時点を境として、シスター・ルチアは全くシスター・ルチアではなくなったからである。シスター・ルチアを装う詐称者に取って代わられた、ということである。ここに、1945年、本物のシスター・ルチアが38歳の時の写真がある。
そして、次の写真は、1967年、彼女が60歳の時のものである!
あなたは自分で判断できると思うが、この写真の女性は上の写真の女性と同一人物ではあり得ない。第一、この写真は1967年のものである。つまり、上の写真から22年後、60歳になっている筈のいわゆる「シスター・ルチア」を撮ったものである! それにも拘わらず、この女性は38歳の時の彼女と同じぐらい若いか、下手をすればそれよりも若く見える!
第二に、シスター・ルチア(最初の写真)は、この「シスター・ルチア」とは違った鼻の構造を持っている。この「シスター・ルチア」の鼻は、より幅広いものである。従って、これは別の女性である。勿論、人というものは中年前期から後期にかけて急速に老けることがあるものだが、しかしそのような場合でも、彼あるいは彼女は、それと気づくほどには同じ人物のままである。しかし、このシスター・ルチアのケースにおいてはそうではない。
第三に、バーバラ・コステロという私達の読者の一人が指摘したことだが、シスター・ルチアはその顎と頬に特徴的な窪みを持っている。私達はこのことを、次に掲げる1945年の、彼女が38歳の時の写真の中に(一番上の、同じ年に取られた右側の写真と同様に)見ることができる。
彼女の頬と顎の真ん中にある特徴的な窪みに注意して下さい。
しかし、下の「シスター・ルチア」には、その頬にも顎の中央にも、そのような特徴的な窪みは見られない。この「シスター・ルチア」には、前方に突き出した顎という顕著な特徴がある。しかし、それは本物のシスター・ルチアが持っていなかったものである。(これは鼻の構造の違いと併せて着目されるべきものである。)
この女性はシスター・ルチアではなく、フエンテスのインタビュー以来世界に押し付けられてきた偽のファチマ構想と第二バチカン宗教の目的に仕えるために導入された、特別に選ばれた偽シスター・ルチアである。これらの写真証拠に加えて、第二バチカン公会議後の「シスター・ルチア」が本物のシスター・ルチアではないということを示す事実が、そこら中至る所で叫び声を上げている。
1990年10月11日、シスター・ルチアの実の姉カロリーナ(Carolina)は、グルーナー神父に、自分はコインブラのカルメル会に40年間以上にもわたってシスター・ルチアを訪ねてきたが、しかしその間、シスター・ルチアと一つ部屋で二人だけで語り合えたことは唯の一度もなかった、と語った。彼女ら二人は常に格子によって隔てられ、且つ、彼女の全ての訪問において、その場には他の多くの修道女達が同席したのである。
フランシス・アルバン(Francis Alban)著『ファチマの司祭』
(Good Counsel Publications, Pound Ridge, NY, 1997)序文
40年以上もの間、「シスター・ルチア」は、彼女の姉にとってさえ、格子越しでなければ、また、他の修道女達の立ち会いのもとでなければ、会うことのできない存在だったのである! このことが、何故、彼女の姉がこの詐欺に気づくことがなかったのかの説明となり得る。彼女は、格子越しでなければ決して「シスター・ルチア」を見ることができなかった。そして「シスター・ルチア」は、修道服を完全に着込んでいた。そして彼女らは、他の「多くの」修道女達の常時の同席のために、決して親しく語り合うことができなかった! この奇妙な「シスター・ルチア」の隔離の理由は、“司祭” グルーナーが示唆しているような「彼女が世界に向かってファチマについての真実を言ってしまう危険性があったから」などというものではない。それは、バチカンに居る共謀者達が、彼女が詐称者であること、つまり偽の「シスター・ルチア」であることが発覚することを望まなかったからである。そのようなことは、もし彼女が何らかの厳しい検査、あるいは精密な調査を課せられたならば、起こり得ることであった。(そしてこのことは、私達が下で見るであろうように、カルロス・エバリストによる有名な「二時間」のような、バチカンが彼女に許したインタビューの僅かなケースにおいて、実際に起こったのである。)
それ故にこそ、「シスター・ルチア」は彼女の家族とさえ、格子越しにしか決して話すことを許されなかった。しかし、彼らが第二バチカン・セクト、その対立教皇達、そして第三の秘密の公開における彼らの不履行を公的に肯定してみせるために「シスター・ルチア」を必要とした時は、別であった。彼女は1967年のファチマで、世界の前に整えられて置かれた。それは、彼女がその共謀者、対立教皇パウロ六世と親しく懇談している姿を、世界に見せることができるためであった。
彼女は1967年のファチマで、彼女の共謀者である対立教皇パウロ六世と一緒に居るところを世界によって見られるために、格子の向こう側から出された。それは、その新しい宗教、彼の伝統からの逸脱、彼の第二バチカンの宣伝、そして彼の第三の秘密の公開不履行をなどを肯定してみせるためのものであった。
これも同じことである: 偽のシスター・ルチアは対立教皇ヨハネ・パウロ二世と親しく懇談しているのを見られるために、このような形で世界の前に置かれた。
これらの写真を見て次に思い浮かぶ質問は、「彼女はいつ歯を治してもらったのか?」ということである。ここに一枚の本物のシスター・ルチアの写真がある。しかし、彼女の前歯は極めて並びの悪いものである。
ルチアに永久歯が生え始めた時 … それらは大きく、前に突き出ており、並びが悪かった。それは上唇を突き出させ、下唇を垂れ下がらせた。
ウィリアム・トマス・ウォルシュ(William Thomas Walsh)著
『ファチマの聖母』p11
しかし、偽シスター・ルチアの写真を見る時、私達は、その歯が整った真っ直ぐなものであり、大きくもなく、突き出してもおらず、並びも悪くないことを見る。確かに、シスター・ルチアが大掛かりな歯の治療を受けたか、あるいは歯を偽シスター・ルチアのもののような整った真っ直ぐのものに入れ替えた、という可能性はあるだろう。しかし、そのように考えるよりも、単純に「これは上の写真の女性が本物のシスター・ルチアではないことを示すもう一つの証拠である」とした方が、ずっと順当なことのように思える。
このことを受け入れ難いと思う人達に、私は次の二つのことに焦点を当てるよう促したいと思う。1)私達の主は、終わりの時代には偽装はあまりにも深くなり、もし可能であれば、選ばれた人々をさえ惑わすものとなるであろう(マタイ24:24)、とおおせになった。それ故、ファチマに関して世界を騙すという悪魔の計画において、偽シスター・ルチアの存在は極めて重要なものだったのである。2)ファチマの第三の秘密のバチカン・ヴァージョン(2000年)を受け入れない全ての伝統主義者達は、そこに一人のシスター・ルチア詐称者が居たであろうと既に信じてはいるが、しかしそのことを単に外に表わさないだけであるか、あるいは真実を受け入れるためには充分に正直でないか論理的でないかするのである。バチカンの「シスター・ルチア」が第三の秘密のバチカン・ヴァージョンとヨハネ・パウロ二世に承認されたその付随的な解釈を完全に支持していたということは、否定できないことである。この事実は、捏造され得る一通の手紙からそうと知られるのではなく、2000年におけるヤシンタとフランシスコの “列福式” を写したビデオ・テープによる否定できぬ証拠によって、そうと知られるのである。[5]
その列福式で “枢機卿” ソダーノは、(「シスター・ルチア」の居るところで )「バチカンはファチマの第三の秘密を公開するであろう。そしてそれは教皇ヨハネ・パウロ二世に対する暗殺未遂事件に言及しているものである」と声明した。その光景を見ていた全ての人々は(私達もその中に含まれるが)「シスター・ルチア」の反応を見ることができた。 それ故、「この問題についての真実が語られないように、彼女は全く隠されていたのだ」(グルーナー支持者達はそう主張している)などということは、全くあり得ないことである。何故なら、その時「シスター・ルチア」は、“枢機卿” ソダーノに対して、即ち、第三の秘密はヨハネ・パウロ二世に対する暗殺未遂事件について言及したものであるという主張に対して、完全に支持し同意するジェスチャーをはっきりと表わしたからである! 正直であると同時に論理的である全ての人々にとってこの事は、彼女が本物のシスター・ルチアではあり得ず、第二バチカン・セクトの工作員であることを示す完全な証拠である。
以下の引用によって、或る一人のグルーナー支持者でさえこのようなことに疑問を感じている、ということに気づいて欲しい。彼は、「シスター・ルチア」が “枢機卿” ソダーノの解釈を支持するのを見ることは如何に「私達をほとんど狼狽させる」ものであるかと認めている。そう、私もそう言うであろう! しかしながら彼はその後、ここから正しい結論を導くことに失敗している。
実際、2000年のファチマにおける彼女[シスター・ルチア]の快活さは、私達をほとんど狼狽させるものだった。確かに、彼女のその輝きとヨハネ・パウロ二世に対する新たな愛想の良さは、二人のいとこの列福を喜ぶ彼女の幸福にその理由を見ることができるだろう。しかし彼女は、第三の秘密に関するソダーノ枢機卿の解釈に直面してさえ快活であり続け、更に、群衆に対し大きく不器用なジェスチャーさえ見せたのである。
マーク・フェロウズ(Mark Fellows)著『薄明の中のファチマ』p327
ここにおいて、あなたは結論を得るのである。即ち、偽の「シスター・ルチア」がファチマの第三の秘密のバチカン・ヴァージョンとその解釈に完全な同意を与えたのである、と。もし、この上それが本物のシスター・ルチアであると考えることができる人があるとすれば、それはその人自らが第三の秘密のバチカン・ヴァージョンを受け入れ、それはヨハネ・パウロ二世に対する暗殺未遂事件に言及したものであると受け入れる人であった場合だけである。しかし、ほとんど全てと言っていい伝統主義者達は、第三の秘密のバチカン・ヴァージョン(とその解釈)は本物ではなく、多くの嘘の中の一つの嘘であり、多くの陰謀の中の一つの陰謀である、ということに同意している。「シスター・ルチア」詐称者の陰謀は、他の陰謀と同様、一つの同じ指令の内にあるものである。これが、このことを理解していないグルーナー支持者達が、シスター・ルチア詐称者の口から彼らの立場を否定する声明が発せられる度に、それを必死になって説明せざるを得なくなる理由である。
1992年に、インドのエルナークラムの “枢機卿” パディヤラ、同じくインドのマイソールの “司教” ミカエラッパ、そしてブラジルのセアラ州フォルタレザの “司祭” パチェコらによって設定された、かの有名な、シスター・ルチアへのインタビューの「二時間」があった。ジャーナリストのカルロス・エヴァリスト氏もそのインタビューに同席し、そこで公的な翻訳者を務めた。インタビューの中で「シスター・ルチア」は、話の一部として、「第三の秘密は決して1960年迄に公開されることを目的とされたものではない」と言い、更に、「それは公開されるべきではない」とさえ言った。このことは、第二バチカン公会議以前のシスター・ルチアがこの点について語っていたと私達が知っている内容を完全に否定するものである。そしてまた、その「シスター・ルチア」は、「ヨハネ・パウロ二世の奉献はロシアの奉献として天国に受け入れられた」とも言った。ここにそのインタビューの一部がある。
管理人挿入
左から右へ: パチェコ神父、パディヤラ枢機卿、シスター・ルチア、ミカエラッパ司教、修道院長。
枢機卿パディヤラ: そして、それ(奉献)は、1984年3月25日にヨハネ・パウロ二世教皇様が行なったことで達成されたのですか?
シスター・ルチア: はい、そうです、そうです。(まるでこの質問を予期していたかのように、低い肯定の声で。)
カルロス・エヴァリスト: つまり、その奉献は聖母によって受け入れられたということですか?
シスター・ルチア: はい。
カルロス: 聖母はそれに満足され、それを受け入れられたと?
シスター・ルチア: そうです。...
枢機卿パディヤラ: 天主と聖母は今でも教会が第三の秘密を公開することを望んでおられますか?
シスター・ルチア: 第三の秘密は公開されることを目的とされたものではありません。それは教皇様と現在の教会指導者達に委ねられたものです。
カルロス: しかし聖母は、遅くとも1960年迄には世界に向けて第三の秘密を公開すべきであるとおっしゃったのでは?
シスター・ルチア: 聖母は一度もそんなことはおっしゃいませんでした。聖母は、それは教皇のためのものである、とおっしゃったのです。
司祭パチェコ: 第三の秘密は第二バチカン公会議と関係がありますか?
シスター・ルチア: それに関しては申し上げられません。
カルロス: 教皇様が第三の秘密を公開することはあり得るでしょうか?
シスター・ルチア: 教皇様がそうすることを選択されれば、それを公開するということはあり得るでしょう。でも私は、教皇様に、そうなさらないようにとアドバイス申し上げます。もし教皇様が公開することを選択されても、私は彼に大きなご思慮を払うようにとアドバイス申し上げます。教皇様は慎重でいらっしゃらなければなりません。
グルーナー支持者達は、この内容が彼らの立場を否定するものであるが故に、懸命になって、このインタビューそれ自体の信憑性を崩そうとしている。しかし、兄弟マイケル・ダイモンド(Most Holy Family Monastery の総長)は、“司祭” パチェコがかつて1990年代に会議のために私達の修道会を訪れた時、彼と話す機会を持った。“司祭” パチェコは兄弟マイケルに、「シスター・ルチアには何か非常に奇妙なところがある。彼女は自分の人生についての単純な質問にさえ答えられないようだ」と言ったのである。そのインタビュアー達が、その詐称者がよく知らない領域に関して深く探りを入れていただけであったことは、全く明らかなことである。
グルーナー支持者達は、シスター・ルチアは常に格子の向こう側に居たのだとして、この1992年のインタビューの信頼性を疑おうとしている。しかし、このインタビューにおいて、シスター・ルチアはおそらくは開かれたスペースの中に身を置いて話しており、そこに居た人々の手を取ったりさえしている。しかし、これには意味がある。つまり、バチカンは一つの限定的なインタビューを、格子の向こう側ではなく広いスペースの中に身を置いたシスター・ルチアとのインタビューを、一つの独立的なグループに許可した。それは、その独立的なグループが記録して持ち帰ることができるように、彼女に、彼らに向かって(また、それによって世界にも届くように)、ヨハネ・パウロ二世は成功裡にロシアを奉献した、ということを言わせるためのものであった。しかし、「シスター・ルチア」が彼女の姉(その人はそれが一人の詐称者であることをもっと容易に見破る危険性のある人だった)に会わなければならなかった時には、彼女は常に格子の向こう側に置かれ、そしてそこには他の大勢の修道女達が配置されたのである。
1992年のこのシスター・ルチアとの「二時間」のインタビューの他にも、ルチア詐称者が第二バチカン・セクトのファチマ構想に対して完全な同意を与えた他の多くの声明がある。それは彼女が詐称者であったことを証明するものである。オッセルバトーレ・ロマーノの2001年の記事の中で、「シスター・ルチア」は特にロシアの奉献に関して尋ねられ、また、奉献をさせようとまだ頑張っている “司祭” グルーナーの試みについてさえ尋ねられた。このインタビューは世界中に報道された。
ファチマの秘密の第三部に関して彼女[シスター・ルチア]は、自分は教理省から出された小冊子を注意深く読み且つ熟考した、と明言すると共に、そこに書かれた全内容に確証を与えた。秘密の或る部分はまだ隠されたままであると想像している全ての人々に対して、彼女は、「これで全てが公開されました。隠されていることはもう何もありません」と答えた。新しい啓示について言ったり書いたりしている人達については、彼女はこう言った、「それは本当ではありません。もし私が新しい啓示を受け取っていたとしても、私はそれを誰にも言わず、しかし教皇様にだけ、それを直接伝えたことでしょう」。彼女はまた尋ねられた、「グルーナー神父が主張し続けていること関して、あなたは何と言いますか? 彼は、奉献が今迄決して行なわれなかったとして、教皇がマリアの汚れなきみ心にロシアを最終的に奉献するように求める署名を集めていますが」。彼女は答えた、「カルメル会の共同体はその署名を集める活動を拒絶してきました。私は既に、聖母が望まれた奉献は1984年に達成されたこと、また、それは天国に受け入れられたことを言ってきました」。
バチカン、2001年12月20日
(バチカン・インフォメーション・サービス)
勿論グルーナー支持者達は、ここでも、このインタビューはデッチ上げだと、あるいは歪められたのだと主張するであろう。しかしそうであれば、彼らもそこに陰謀があることは認めたわけである! そして、もしバチカンが陰謀においてそれ以上に歩を進めたとすれば、バチカンが詐称者を導入したということは充分に考えられることである! そして、私達が見て来たように、偽の第三の秘密に同意を与える「シスター・ルチア」の全声明がデッチ上げに過ぎないという主張は、2000年のファチマにおける彼女が第三の秘密のバチカン・ヴァージョンに同意を与える様を写した、誰にでも閲覧可能なビデオ証拠を見れば、たちどころに吹き飛ぶものである。
“聖体拝領” の直後にヨハネ・パウロ二世の手に接吻する「シスター・ルチア」の奇妙な写真
語るに値するもう一つのことは、前述した2000年にファチマで行なわれた “列福” 式典で、ヨハネ・パウロ二世から “聖体拝領” をした時の「シスター・ルチア」の奇妙な振る舞いのことである(この式典は、彼女がそこで第三の秘密のバチカン・ヴァージョンに明らかな同意を与えたのと同じ式典である)。「シスター・ルチア」はまず最初に、あたかも “聖体” を手で受けたいかのように、ヨハネ・パウロ二世に向かって手を伸ばした。しかしヨハネ・パウロ二世は充分に賢く、これによって全計画が台無しになりかねないことを感じ取り、それに応ずることに躊躇して、結局、“聖体” を持った自らの手を彼女の舌に向けて伸ばした。しかしながら「シスター・ルチア」は、“聖体” を受けたその直後、ヨハネ・パウロ二世の手を掴み、それに接吻したのである(上の写真)。これは全く奇妙なことである。何故なら、「シスター・ルチア」はその時以外にも、この対立教皇に敬意を表わすあらゆる機会を持っていたからである。しかし彼女は明らかに、彼に敬意を表わすために、“聖体拝領” のための感謝の祈りが済むことも、また “ミサ” が終わることも、決して待てなかったというわけである! 本物のシスター・ルチアなら決してこのようなこと──自分の聖体拝領とそのための感謝の祈りにとって邪魔になるであろうようなこと──はしなかったであろう [6] これは明らかに、シスター・ルチア詐称者が対立教皇に対するその子供として相応しい熱愛を演ずる自分の役割においてあまりに熱心であったがために、“聖体拝領” の直後に彼の手を掴んでしまうというフライングをしてしまった、というだけのことである。
問: では、あなたは、本物のシスター・ルチアには何が起こったと考えるのか?
答: 彼らは明らかに、ある時点において彼女を排除したのである。そして、それがいつ行なわれたかの特定は別として、第二バチカン公会議以降「シスター・ルチア」の役を演じていた女性は本物のシスター・ルチアではない、という事実は疑えないことである。これから述べることを読者がどのように受け取るかは分からないが(しかしたとえそうであっても、それはいずれにせよ、シスター・ルチア詐称者が実際に存在していたということを示している上述の証拠の前では、本質的なことではない)、私達は数年前、その家族にイルミナティとフリーメイソンにおける高位階者達を持つという或る一人の女性(彼女は伝統的カトリックへ転向した人である)から非常に不穏な手紙を受け取った。私達はまた、彼女が私達にその手紙をくれた時点の前後においても、彼女と直接会い話をした。私達はその手紙、そして彼女との電話での会話から、この事柄の持つ背景について、また彼女の主張の信憑性を裏づけるものについて、非常に多くの情報を得ているが、ここではその手紙の一部を紹介することができるだけである。その内容が全く信ずべきであることと同様に、私達がその女性から以下の手紙を受け取り、彼女と共に事柄の詳細にわたって会話をしたという事実は、全く確かなことである(彼女はもっともな理由によって、私達に、彼女の名は伏せてくれるようにと要請した)。
Holy Family Monastery の親愛なる兄弟の皆さん。… 電話でもお話しましたように、私は幾人かの非常に暗い親戚達を持っております。… XXX[伏字:或る世界的に有名なフリーメイソン員]は、私の「大おば」が結婚した XXX[伏字:この女性の匿名性を確保するために]の兄弟です。私の母方の親戚に至っては、その全てがイルミナティ・フリーメイソンの第33階級です。私の祖父母は「東方の星」結社に属していました。… 私は、今の時代にこんなことを言うと、気狂いじみた変人のように思わることを知っています。しかし、私はそのような者ではありません。… 私が五歳の頃、私の母は集会を主宰していました。そのような集会では、口にするのもおぞましい、あまりにも恐ろしいことが沢山行なわれています。手短かに言えば、彼らは要するにサタンに生贄を捧げています。私は、XXX という名の新生児の男の子を知っていました。… 私の母は、その彼がその日の「儀式」の一部に組み込まれていることを、あらかじめは知りませんでした。彼らは、彼に未来を語らせるという目的のために、私の目には真鍮の中華鍋に見えるものの中に、彼を入れようと[拷問にかけようと]していました。…[有り難いことに、このイベントに邪魔が入ったので、それは起こらずに済みました。]…[しかし]その恐ろしい日に彼らが口にしたことの中に、彼らはシスター(sister)ルチアを殺したばかりだ、ということが含まれていました(私はその時、彼らが殺したと言っているのは、私の知らない女性の教団メンバーのことを指しているのだと思いました)。しかし、私が彼らに尋ねた時、彼らは「何を言っているの … それは修道女(nun)のことだよ」と答えました。その言葉が何を意味しているのかを私が理解したのは、それから何年も経ってからのことでした。この会話があったのは1959年の10月の後半のことです。[私がこの年号を覚えているのは、それがちょうど私の弟が生まれたばかりの時だったからです。]私は、こんなことを言うときっと気狂い女のように思われると知っています。でも、真実なのです。… [7]
私達はこの女性と長時間にわたって話した。彼女は伝統的カトリックへ転向した人である。そして私達は、彼女が真実を語っていると信じている。しかし、これを信ずるかどうかには関わりなく、事実は、そこにシスター・ルチア詐称者が居たということである。その事実は疑いを容れぬものである。証拠は否定できないからである。バチカンは、その便宜から、彼女を97歳になる迄生かした。それは、偽の第三の秘密が公開される迄、そして彼女が彼女の役割を終える迄であった。そしてその数年後、彼女は「死に」、彼女の修室は “枢機卿” ラッツィンガーによって封印された。
ただ単に「シスター・ルチア」がそれらを受け入れたからという理由だけをもって第二バチカンの背教と新しいミサに関する証拠を退けるに至った、あまりにも多くの霊魂達が居る。私達は常に彼らに、誰かが信じているようだからという理由でもって信仰の事実を退ける、そのようなことがあってはならない、と告げて来た。
私たち自身であるにせよ、天からの天使であるにせよ、私たちがあなたたちに伝えたのとは異なる福音を告げる者にはのろいあれ。私は前に言ったことを今また繰り返す。あなたたちが受けたのとは異なる福音を告げる者にはのろいあれ。
ガラツィア人への手紙 1: 8-9
ああ、しかし、真の信仰を欠いているが故に、彼らは天主よりも人に従うことを選び、そして実際、完全に詐称者であるところの人間に従って来たのである。
〔以下、省略〕
管理人注
[1] 「フリーメイソンであったヨハネ23世」
ただそのようにこの教皇座空位論者は考えているということである。
その他、文中、彼は、“司祭”、“司教”、“枢機卿”、“列福”、“聖体拝領” と、いちいち括弧でくくる。それは、彼が第二バチカン公会議後のそれら全てを信じていないからである。
[2] この神父様とインタビューについては以下を参照のこと。
注)みこころネットさんのページが文字化けする時にはブラウザのテキストエンコーディングで Shift JIS を選択してください。
[3] このコインブラ司教区の文書について Fatima Network は次のように言っている。
このインタビューの勇敢な公表の結果として、フエンテス神父は、シスター・ルチアが住んでいるコインブラの司教区のある匿名の当局者からのまったく相応しくない、前例のない迫害を受けた。この名無しの、顔のない、存在しない「当局者」は匿名で、その司教区の教区報に、どのようにして彼が知ったかを指摘することなしに、シスター・ルチアはフエンテス神父が報告したようなことは言わなかったと公表した。
法の諸原理と同様に、常識はわれわれに、匿名の当局者によってなされた陳述はいかなる真の権威ある価値も持たない。
まったくその通り!
[4] この「見えなくなった」ということに関して、Fatima Crusader と Fatima Network は以下のように言っている。
1960年以来、シスター・ルチアへの接近はごく少数の外部の人々に厳しく限定された。そして、彼女自身は、第三の秘密およびロシアの奉献について再び決して自由にそして公的に話すことを許されなかった。
シスター・ルチアは1960年以来バチカンから箝口令の下に置かれていた。バチカンの予めの許可なしに公表された彼女の最後のインタビューは1957年におけるものであった。
1960年以来、シスター・ルチアはバチカンの予めの許可なしにファチマ・メッセージについて話すことを禁じられてきた。
そして、確かに「1960年」は一つのキーである。何故なら、こうだから。
事実#3. ダ・シルヴァ司教が封筒を開けることを望まないことに固執していることを確証して、シスター・ルシアは、ガランバ聖堂参事会員の言葉によれば、「第三の秘密は彼女が死ぬか、あるいは1960年には、どちらが最初に起こっても、開けられて世界に対して読まれるべきであるということを司教に約束させた」。シスター・ルシアの繰り返された陳述についての一つの説明がわれわれに与える一連の証言はこの事実が絶対的な確実さで確立されることを可能にした。
事実#4. 最後に、シスター・ルシアの死後直ちに、あるいはいずれにせよ遅くとも1960年には秘密を公開するというこの約束は聖母マリア御自身による一つの要求に確実に一致している。事実、1946年にバルタス聖堂参事会員が幻視者になぜ1960年まで待つ必要があるのかと尋ねたとき、シスター・ルシアは彼にダ・シルヴァ司教がいる前で、「聖母がそう望んでおられるからです」と答えた。
ところが、1960年あるいはその前年から、シスター・ルチアの姿は「見えなくなった」。
そして、1992年には「シスター・ルチア」はこう言った。
カルロス: しかし聖母は、遅くとも1960年迄には世界に向けて第三の秘密を公開すべきであるとおっしゃったのでは?
シスター・ルチア: 聖母は一度もそんなことはおっしゃいませんでした。
そして、2000年には「シスター・ルチア」はこう言ったのである。
シスター・ルチアが「秘密」の第三部を入れて封印した封筒を、当時のレイリア - ファティマ教区の司教に渡す前に、外封筒に、「開封は一九六〇年以降に、リスボン教区の総大司教かレイリアの司教かによって」と書いたことについて、ベルトーネ大司教は、「なぜ、一九六〇年以降にと期限をつけたのですか。マリアがそうお決めになったのですか」と尋ねた。するとシスター・ルチアは、「いいえ、マリアではありません。わたしが決めました。なぜかといえば、わたしの直観で、一九六〇以前には理解されない、そのあとになれば分かってもらえると思ったからです。今では、とてもよく理解することができます。わたしは、見たことを書いたまでです。解釈するのはわたしではなく、教皇様です」と答えた。
教理省『ファチマ 第三の秘密』(カトリック中央協議会刊)p28
「自分の直観で決めた」とは信仰者らしからぬ言葉である。最初のシスター・ルチアの「聖母がそう望んでおられるからです」というのが本当である。
[5] その「ビデオ・テープ」を私達も見ることができるのかと云えば、十分なものとは言えないだろうが、一応できるのである。この筆者の属する教皇座空位論者のグループ(Most Holy Family Monastery)が YouTube に公開しているビデオがある。
ヤシンタとフランシスコの列福式での「シスター・ルチア」の様子は、二番目のビデオの最後の方から三番目のビデオの最初の方にかけて窺うことができる。
また、私も一本のビデオを作ってみた。So-called “Sister Lucia”
[6] 正にその通り。管理人にとってはこれこそが「決定的」なものである。何故ならば、私達にとって御聖体拝領とは「主イエズス」であって「人」ではないからである。もしこの単純なことを「シスター・ルチア」が理解していれば、たとえ自分の目の前に居るのが “主イエズスの代理人” として地上で最も高い位置にある尊敬すべき、また愛し慕うべき「教皇」であろうとも、その手を取って接吻しよう(したい)などという発想と願望は決して(一瞬たりとも)生まれなかったことだろう。このような最高度に「神的」な場面で人間的なものに流れてしまうなんて、「シスター・ルチア2」さん、まだまだ詐称者としての修行が足りませんなっ。
[7] 私はこの話を信じない。何故なら、1)この証言は証言者の「5歳」の時の記憶に基づく。それは確かだろうか。2)仮にその記憶自体は確かだとしても、その子にそれを話したのは悪魔主義者である。それは信用できるだろうか。彼らは「豪語する」(大ボラを吹く、ハッタリをかます)ことはないか。あるいは「妄想する」ことは。
そして、ベイサイドの聖母が1986年に次のように言っておられる。
私の子供達、私は今再びこれを繰り返します。ローマにいる教皇に手紙を書き送ること、彼に語りかけること、彼と会うことが必要です。そして彼に、ルチアを前に立たせ、私がベイサイドやフラッシング・メドウズ・パークで毎夜あなた方に語りかけているように、ルチアに第三の秘密について一語一語語らせるようにと懇願しなければなりません。
シスター・ルチアが殺されているのに聖母がこのように言うことはないだろう。
そしてファチマ・クルセイダーのジョン・ヴェナリ氏がこう言っている。
「書かれた証拠」に関しては、われわれがシスター・ルチアから観察したことにおける変化は1960年ではなくて1989年頃に始まった。
シスター・ルチアの手紙などに見られる言葉(信仰)の質が「変化」したのは1989年頃以降だというのである。
この二つを以て、私はシスター・ルチアは少なくとも1980年代の後半までは生きておられたような気がする。
人は「替え玉と取り換えられた」などと聞くと「それまで在ったものがすっかり取り払われ、新しいものと完全に入れ換えられる」ことを思うだろうけれど、そうとも限らないだろう。パウロ六世教皇様の場合がそうであったように、彼らはどのようにかして(「幽閉」や「検閲」といった手法を以て?)「本物と偽物を同時並行的に存在させておく」というやり方ができるのかも知れない。
訳出 2008/09/29 最終更新 2013/6/24
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