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跪くべきか、跪かざるべきか

2001年5月
Adoremus Bulletin の編集者
「信者席での反乱」があるべきか? これは復活祭の翌日のUSAトゥディのフロントページの記事のタイトルです。記事はリック・ハンプソンによって跪きの問題について短くまとめられます。
カトリック教徒は──ハンプトンは書きます──次の問題において二つに分けられます:「ある人達は彼らが信じているもののために立つことに決め、他の人達は跪くことが謙遜な信心を表わすと結論づけます」。彼は、ちょうど一部のカトリック信者達が跪くことを諦め、一部のカトリック教会が跪き台を「撤去させられた」時、一部のプロテスタントのグループ(大部分は福音主義者)がその実践を〔訳注: 皮肉なことに、跪きの実践を〕始めた、と述べます。
記事は、オハイオ州ウェストチェスターのカトリック教徒の女性、その教区の教区会長である女性の言葉を引用しています。彼女は言います、彼女は跪くことが「決して好きではない」、そして立つことが「より快適」であると。彼女の小教区では1980年代から跪き台がなくなり、教区民は聖変化の祈りの時にも立っています。彼女は言います、「私達の国では、国歌斉唱の時や何か重要な局面において、人は立っています」。
跪くことは快適かですって? しかし、私達の政府を象徴している旗に対する敬意と、すべてのカトリック教会のすべてのカトリック・ミサにおける神聖な秘蹟の中に真実に(象徴的にでなく)まします主御自身の現存に対して私達が払うべき敬意とは、イコールでしょうか?(何年も前、ある典礼学者は真面目な顔をして、カトリックの典礼は大統領就任式のような真に今日的意味のある儀式でなければならない、と言いました!)
USAトゥディはルーテル教徒であるゴードン・ラスロップを引用しています。彼は「彼らは未だにレイク・ウォビゴン [1] で跪いているのさ」と揶揄しています。ラスロップは──彼はフィラデルフィアのルーテル神学校で教えていますが──カトリック典礼ジャーナルがミネソタ州カレッジビル(Collegeville)郡の聖ヨハネ管区から発行している「礼拝」のための編集顧問であり、その頻繁な投稿者です。
跪きに関するUSAトゥディの歴史はいくつかの一般的な神話から成り立っています。
  1. 「初期のキリスト教徒」は跪かなかった。
  2. 礼拝のために跪くことは中世から始まった。
  3. 跪くことは悔い改め(「不面目、罪深さ」)だけを意味する。
  4. ヨーロッパのカトリック信者達は、彼らがユニバーサルな教会のルールに従うので、跪かない。そして、大部分のヨーロッパの教会は、堅い床以外、跪く場所を持たない。
(これらの古い神話に対する論駁は、別に機会に譲ります。)
ハンプトン氏が、跪くことがローマ・カトリック教徒にとって「同一性の象徴だった」と言う時、彼は正しいです。これは正確に、カトリック教徒が御聖体について信じていることを表現しているからです。
教会の外の人々にとって、どんなカトリック教徒でもその表現か信念を喜んで捨てるなどということは、当惑させられることです。
管理人注
レイク・ウォビゴン
ギャリソン・キーラーの小説「レイク・ウォビゴンの人々」の舞台になっている架空の町。その町に住む人々は、矛盾したことに、「誰もが平均以上」の能力を持っている。転じて、意識調査などで対象者のほぼ全員が「自分が平均以上」という意識を持つというような、事実と矛盾するような状況をさして「レイク・ウォビゴン効果」と言う。大雑把に言えば、自分のことを過大に評価しがちな傾向のことを言う。
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