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ある司教の最後の意志

ある司教の最後の意志
A BISHOP'S LAST WILL
J.P. Oostveen
2006年7月26日
聖アグネス教会
多年に渡る欠乏の後に、遂に、伝統的な、あるいは古典的なローマ典礼が、アムステルダムのアムステルフェーンセウェフ(Amstelveenseweg)の聖アグネス教会に帰って来ます。私達は、伝統的ミサの定期的な挙行に許可を与えて下さったハーレム司教区の司教、モンシニョール・プント(Punt)に心から感謝します。聖ペテロ会(FSSP)の司祭達が典礼を司式することになるでしょう。2006年9月17日以降、しばらくの間は試験的に、毎日曜の正午に、1962年版のローマ・ミサ典礼書に従い、荘厳ミサが挙行されることになります。
最初の聖なるミサは、1998年9月12日に急死された故モンシニョール・ボーマス(Bomers)を偲ぶ8回目の記念のために捧げられます。このミサによって私達はまた、司教様の最後の意志が叶えられるように働いた、死の8年後における司教様ご自身の奇跡的な介入に感謝を表したいと思います。
私達は、エクレジア・デイ協会デルフト(Delft)支部の善き勧めを受入れてくれたモンシニョール・プントにも心から感謝します。
この問題における可能性を探す長いプロセスの後、私達は遂に、古典的なローマ典礼に従って捧げられる私達の初めてのミサを、多年の欠乏の後に、ここアムステルダムの地で手にするに至りました。
何年もひたすらに続けられ、モンシニョール・ボーマスがハーレムの司教様であった時に始まったプロセス。ウナ・ヴォチェ(Una Voce)国際連盟オランダ支局を通して私達が彼と初めてのミーティングを持って以来、彼は、私達が古典的ローマ儀式に従った荘厳ミサに与ることのできるために、アムステルダム近郊に住む私達のための礼拝の場所に関して、常に尽力して下さいました。しかしそれでも、多くの教区司祭達と教区会の態度のために、彼はそれを実現することができませんでした。そこで彼は私達に、私達自身で教区に直接働きかけるようにと促しました。残念なことに、多くの教区は協力を拒否しました。この間に私達は、アムステルダムのシリア正教の共同体との間に、カイゼルスグラハト(Keizersgracht)にある以前のレデンプトール修道会の聖マリア教会を定期的に使わせてもらうという全く先進的な協定を結びましたが、しかしこれも、そこの共同ユーザーであったローマ・カトリックの一人の信者の拒否権によって駄目になりました。
モンシニョール・ボーマスが古典的な典礼に好意的だった例として、彼は1998年6月に Wigratzbad〔訳注: FSSPの神学校がある。ドイツ〕で6人の神学生を叙階して欲しいという聖ペトロ司祭兄弟会の依頼を受け入れました。しかし残念なことに、彼の司教区の教区民達はこのシグナルの意味を理解しませんでした。
私達は今、1998年9月のその当時にいます。9月9日水曜日に、ボーマス司教様は講義をするために、たまたまブリュッセルにいました。講義が終わった後の慌ただしさの中で、彼はFSSPのDuroism神父様との短い邂逅の時を持ちました。その会話の中で司教様は、彼が今兄弟会のためにアムステルダムに一つの教会堂を提供する立場にあることを神父様に告げます。講義の後に残された時間はその問題について突っ込んだ話をするのに不十分でしたので、司教様は神父様に、後で二、三のことについて兄弟会に確認を入れることを約束します。
しかし全く不運なことに…! 次の土曜日、9月12日、ボーマス司教様は彼の “最後の手紙” を郵便局に出しに行っている間に、心臓発作で突然この世を去るのです。彼を離れては誰一人、どの教会建設が聖ペトロ兄弟会のためのものとして予定されているのか分かりませんでした。
一方、アムステルダムの南部に、前世紀の90年代が始まって以来の老朽化に対する戦いを戦っている聖アグネス教会がありました。モンシニョール・ボーマスは既にこの教会を一般の礼拝には使わせない命令に署名をしていました。その時、教区会は、この教会の管理を引き継ぎ、その命令の施行が延期されるようにと、ローマの決定に対して上訴通知しました。更に彼らは、その教会を維持する予定計画を何とか組むことができました。1998年8月15日、教区は、ボーマス司教様も招かれていた聖母に敬意を捧げるための聖体降福式を執り行いました。アムステルダム中から集まってきた数百人の信者達がこの聖体降福式に出席しました。ボーマス司教様はこの出来事によって、目に見えて心を動かされたようでした。
そして続く9月14日、すなわちモンシニョール・ボーマスがお亡くなりになった後の月曜日、教区会長は司教様からの遅れて来た手紙を受け取ります。その9月10日付の手紙は、消印の日付から見て、彼の “最後の手紙” であり得ました。そのように思えました。教区会に宛てたその手紙の中には、司教様が売りに出されている土地の中に教会建設のための目的地として目星を付けているものがあると書かれていました。そのため、教区会はアムステルダムの参事会長(dean)にコンタクトを取らなければなりませんでした。
ああ、しかし9月12日土曜日、ボーマス司教様は突然命を召し上げられ、そのため明らかに、教会建設の目的地についてアムステルダムのthe deanに知らせる機会がなかったのです。司教様が教会建設のためにどこを目的地と考えていたのか、誰一人知る者はありませんでした。
このようにして、モンシニョール・ボーマスは、二つの期待のかかった望みを、それらについて誰も知る者のないままに、彼自身と一緒に彼のお墓の中に持って行ってしまったのです。
一方、プント司教様は、聖ペトロ兄弟会に、彼が彼の前任者であるモンシニョール・ボーマスと同じ道を取ることを優先させたいと望んでいることを知らせました。司祭兄弟会が彼らを受入れる用意のある教区を見つけ次第、彼は、教会規定に沿った言い方をすれば、許可を与えるのでした。しかしながら、これは正しく、干し草の山の中に無くしてしまった針を探すようなものであることが分かりました。
でも、モンシニョール・プントは、聖アグネス教会を一般の礼拝には使わないように、という命令を発動することは決してありませんでした。
2005年12月、私達の協会は聖ペトロ兄弟会によって、彼らのフライベルグ(Fryeburg、スイス)にある本部から、直接にアプローチを受け始めるようになります。彼らはその本部で、たまたま、アムステルダムに住む一人の人からのEメールを受け取りました。そのEメールの中でその送信者は、聖アグネス教会がトリエント典礼を挙行するのには適当な場所かも知れない、と示唆しました。この人の世話を通して、エクレジア・デイ協会は、アムステルダムの南部のアムステルフェーンセウェフにあるこの教会の教区会に接触しました。
全く思いもよらない形で、まるでボーマス司教様によって起こされた奇跡であるかのように、置き去りにされていた二本の線がここで一つになろうとしていました。モンシニョール・ボーマスのご逝去の後の約8年間と次に来る9月によって、彼の最後の願いが遂に実現されることになるでしょう。
明らかに、聖なるご神意は、今、時が熟したと判断されています。それは教区会メンバーの何人かの姿を見た時に、確かであると確認されます。彼らは単に熱心をもって反応するというだけに留まらず、これらのプランを実現するための更なるイニシアティブに関わってさえいます。
それ故、いわゆる兄弟会の司祭に対するモンシニョール・プントの認可によって、荘厳ミサは1962年版のミサ典礼書を用いた古典的なローマ典礼に従って、9月17日以降、毎日曜の正午に、執り行われてゆくことになるでしょう。
更に、一般の礼拝には使われるべきではないとされた聖アグネス教会が、今まで一度も修繕の手を入れられなかったことは興味深いことと言えるでしょう。何故なら、それ故に、この教会は実際、古典的な儀式を執り行うに相応しく、その神聖さを保たれたのですから。
聖アグネスとモンシニョール・ボーマスの執り成しにより、聖ペトロ司祭兄弟会の活動の、アムステルダムにおける、またオランダにおける成功をお祈り致しましょう。
2006年7月26日 デルフト
エクレジア・デイ協会(デルフト支部)
J.P. Oostveen 委員長
現在の聖アグネス教会
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