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救われる人の数の少なさ

The Little Number of Those Who Are Saved by St. Leonard of Port Maurice
ポルト・マウリチオの聖レオナルドの説教
『救われる人の数の少なさ』
管理人
この説教の中に出てくる極端とも思われる数字については「教育的警告」として受け取ればいいのではないかと思います。
編者の言葉
ポルト・マウリチオの聖レオナルド(1676-1751)は、ローマの聖ボナヴェントゥラ修道院に生きた最も清いフランシスコ会修道士でした。そして教会の歴史の中でも最も偉大な宣教者達の中の一人でした。彼は、彼の聴衆を収容することのできる大きな教会堂を持たない市や町ではどこででも、数千もの人々に向かって屋外の広場で説教しました。彼の雄弁は非常に素晴らしく且つ神聖だったので、一度などは、彼がローマでの二週間のミッションにあった時、教皇と枢機卿会が彼を聴きに来たほどです。福いなる童貞の無原罪懐胎説、ご聖体への崇敬、そしてイエズスの至聖なる聖心への礼拝が彼の運動でした。彼の帰天後100年を少し越えた時に成立した無原罪懐胎の教義は、かなりの程度彼に負っています。彼はまた聖体降福式の最後で唱えられる讃美(Divine Praises)[] を私達に与えました。しかし聖レオナルドの最も有名な仕事は、十字架の道行きの祈りへの献身です。24年間の絶え間ない説教活動の後、75歳で、彼は最も聖なる死を遂げました。
ポルト・マウリチオの聖レオナルドの最も有名な説教の一つは『救われる人の数の少なさ』と題されたものです。これは彼が大きな罪の状態にある人々の回心を願ってしたものです。この説教は、彼の他の著作と同様、彼の列聖調査の時、教会の審査に付されました。その中で彼は、クリスチャン [] 達の生き方の様々な状態を改めて吟味して、最後に、人類の総数の中で救われる人の数は少ない、と結びます。
この注目すべきテキストを黙想する読者は、このテキストに教会の認可を運んだところの論証の確かさを見ることでしょう。この偉大な宣教者の力強く感動的な説教がここにあります。
ポルト・マウリチオの聖レオナルド
説教
『救われる人の数の少なさ』
導 入
救世主の弟子達の数が律法学者とパリサイ派が彼らに打ち勝つことのできるほど少なくはないことを、神に感謝します。彼らは太陽の上にさえ小さな斑点を探すかのようにして潔白を中傷し、教義と私達の主の御性質の評判を落すことによって、彼らの危険な詭弁をもって群衆を惑わそうとしましたが、それでも多くの人々はイエズスを真のメシアであると信じ、懲罰にも脅迫にも屈することなく天主の運動に加わりました。しかし、キリストに従った全ての人が、栄光に至るまで彼に従ったでしょうか? ああ、私はこのように重大な事柄において軽率な判断をするよりも、むしろ深い神秘に対する尊敬をもって神の審判の測りがたさを黙して礼拝したいと思います。今日私が取り上げようとする主題は極めて重大なもので、それは教会の柱をも震わせ、偉大な聖人達をも恐れで満たし、隠遁者達を砂漠に送ったところのものです。今日の説教の目的は、救われるクリスチャンの数は滅ぼされるクリスチャンの数より多いか少ないかを見定めようとするものです。私はこれがあなたの心に神の審判に対する有益な恐れをもたらすことを望みます。
兄弟の皆さん、私はあなた方を愛するが故に、あなた方おのおのに「あなたが天国に行くのは確実です。クリスチャンのより多くの人達が救われています。それ故あなたも救われるでしょう」と言って、永遠の幸福の見込みをもってあなた方を安心させることができたらと思います。しかし、もしあなたがあなた自身にとって最悪の敵であるかのようにして神のご命令に背いているなら、私はどのようにしてあなたにこの甘い保証を与えることができるでしょうか? 私は神の中にあなたを救いたいという真実の願望があるのを見ますが、しかし同時にあなたの中に咎められるべき明確な罪の傾向があるのを見ます。ですから、今日、私がはっきりと話す時、私は何をしようとするのでしょうか? 私はあなたにとって不愉快な者となるでしょう。しかしもし私が話さなければ、その時私は神にとって不愉快な者となるでしょう。
それ故に、私はこの主題を二つの要点に分けようと思います。第一の要点において、私はあなたを恐れで満たすために、この問題について神学者達と教会教父達に決めさせ、そしてクリスチャンのより多くの人達が地獄に値すると断言させようと思います。そしてこの恐ろしい神秘に対する黙した礼拝において、私は私自身の考えは伏せておこうと思います。第二の要点において、私は、滅ぼされる人々は彼ら自身が滅ぼされることを望むが故に彼ら自身の悪意によって滅ぼされるのであるということを証明することによって、神を信じない者達から神の善き御性質を擁護しようと思います。それ故、ここに二つの非常に重要な真理があります。もし、第一の真理があなたを恐れさせても、まるで私があなたの天国への道を狭くしているかのように思って、私に対して恐れを持たないで下さい。何故なら私はこの問題において中立でいたいからです。むしろ根拠をあげることによってこの真理をあなたの心に刻み付ける神学者達と教会教父達にそれを向けて下さい。そして、もしあなたが第二の真理によって幻から解かれるなら、どうかそのことを神に感謝して下さい。何故なら、このことは、神はあなたが彼にあなたの心を完全に差し出すことだけをお望みである、ということを意味しているからです。最後に、もしあなたが私に、私自身はどのように考えているかをはっきりと語れと強いるならば、その時私はあなたの慰めのためにそれを語りましょう。
教会教父達の教え
常に神の御憐れみばかりについて語り、回心することは如何に簡単かなどと語り、様々な罪の中に急降下するような生き方をして、地獄への道の上でぐっすりと眠りこけている放蕩者達に向けて、その怠惰を牽制するために非常に役立つ確かな真理について説教壇の上から宣言することは、人のことを無益に詮索することではなく、有益な予防措置です。彼らをその迷いから覚まさせ、その麻痺状態から覚まさせるために、今日はこの重大な問題について調べましょう。すなわち、「救われるクリスチャンの数は呪われるクリスチャンの数より多いだろうか?」
信心深い人達はここにいなくてもいいかも知れません。この説教はその人達のためのものではありません。この説教の唯一の目的は、神に対する聖なる恐れを心の外に放り投げ、エウセビオス [] の考えを使って霊魂達を安心させることによってそれを滅ぼそうとする悪魔と手を結ぶ放蕩者達の傲慢を挫くことです。この疑問を解決するために、一方に教会教父達を、ギリシアとラテン両方の教会教父達を置き、他方に最も博識な神学者達と博学な歴史家達を置きましょう。そして全ての眺望の真ん中に聖書を置きましょう。さて、これから述べることを、私から出たものだと思わないで頂きたい。何故なら、既にお話した通り、私は私自身として語ることも、私としてこの問題に結論を下すことも、望まぬからです。あなた方に語らねばならぬ偉大な精神達が語っていることとして聞いて頂きたい。彼らは、人々が天国への道を誤らぬようにと他の人々に光を与える神の教会のかがり火です。このように、信仰、権威、そして論証からなる三倍の光に導かれることで、私達はこの重大な問題について確実な答えを手にすることができると思います。
この質問が人類全体に向けられているものでも無差別に全カトリック教徒に向けられているものでもないことをよく覚えておいて下さい。これはただカトリックの大人の信者達、選択の自由を持った、それ故彼ら自身の救われという重大な問題のために協力することのできる人達に向けられています。最初に、その教えにおいて最も注意深く調べておりまた誇張がないと認められている神学者達の教えに耳を傾けてみましょう。それは二人の博識な枢機卿達、カエタノ [] とベラルミーノ [] です。彼らはクリスチャンの大人の信者のより多くの者達が滅ぼされると教えています。そして、もし私に、彼らが何を根拠としてそのように言うのか、その理由をあげる時間があれば、あなたはあなた自身でそれに確信を持つでしょう。しかし、私はここでスアレス [] の言葉だけをあげることにしようと思います。あらゆる神学者達を参照し、問題を念入りに研究した後で、彼はこう書いています、「最も一般的な意見は、クリスチャンにおいて選ばれる霊魂より滅ぼされる霊魂の方が多いであろうということである」。
これら神学者達にギリシアとラテンの教父達を加えれば、あなたは彼らのほとんどが同じことを言っていることに気づくでしょう。これは聖テオドール、聖バジル、聖エフライム、そして聖ヨハネ・クリゾストモス達の意見です。更にバロニウスによると、この真理は聖シメオンにはっきりと示され、そしてその啓示の後彼は自分の救われを確実なものとするために40年間というもの風雨に晒されながら柱の上で生き、それは全ての人にとって償いと聖性の模範となった、というのがギリシア教父達に共通の考えだといいます。さて、ラテン教父達に耳を傾けてみましょう。聖グレゴリオははっきりと言っています、「多くの者が信仰に達する。しかし天の王国に達する者はほとんどいない」。聖アウグスチヌスは更にはっきり言っています、「それ故、滅ぼされる者に比較して救われる者は僅かである」。しかしながら最も恐ろしいのは聖ジェロームの言葉です。彼の生涯の終わりに、弟子達を前にして、彼はこれらの恐ろしい言葉を口にしました、「常にその生き方が悪かった10万人の人々の中から、あなた方はかろうじて、許されるに値する一人の人を見出す」。
聖書の言葉
しかし、もし聖書が疑問をとてもはっきり解決してくれるなら、その時私達は何故教父達や神学者達の意見を探すでしょうか? 旧約聖書と新約聖書をひもとけば、あなたはこの「ごく僅かしか救われない」という真理をはっきりと示す多くの数字、シンボル、そして言葉を見つけることでしょう。
ノアの時代には全人類が大洪水に呑まれ、僅か8人のみが箱船の中で救われました。聖ペトロは「この箱船は教会の型取りである」と言っています。一方、聖アウグスチヌスは加えて、「そしてこれら救われた8人の人達は、ごく僅かのクリスチャンしか救われないことを示している。何故なら、本当の意味で世を捨てる人はごく僅かだからである。言葉だけでそれを捨てる人は箱船によって象徴される神秘には属していない」と言っています。そして聖書も私達に、エジプトから出たヘブライ人の中で約束の地に辿り着いたのは200万人のうちのたった2人だけであった、そして、ソドムとソドムと共に燃えて滅びた他の町々の火の中から逃れたのは僅か4人の人達だけであった、と言っています。これら全てが、わらのように炎の中に投げ込まれて滅ぼされるであろう人々の数が、ある日天の御父がその納屋の中に貴重な小麦のように集められるであろう救われる人々の数よりも遥かに多いことを意味しています。
この真理を確証する聖書の中の全ての数字をあげなければならないなら、私はいつまでも話を終えることはできないでしょう。受肉した知恵の啓示そのものを聞くことで満足しましょう。福音書の中で好奇心の強い人が「主よ、救われる人は少ないのでしょうか」と訊いた時、私達の主は何とお答えになったでしょうか? 主は躊躇いながらお答えになりましたか? 群衆を怖がらせることを恐れて、お考えをお隠しになりましたか? いいえ、主はたった一人の人に問われましたが、そこにいた全員の人々にお答えになりました。主は彼らにおっしゃいました、「救われる者は少ないかと訊くのか。(私の答えはこうである。)狭い門から入るように努めなさい。何故なら──あなた方に言っておく──入ろうとしても入れない人が多いからである」[ルカ13:23-24] 。これを言っているのは誰でしょうか? 神の御子です。永遠の真理です。彼はまた、別の時にもっとはっきりと言っています、「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」[マタイ22:14] 。主は「全ての人が招かれている。そして全ての人の中から選ばれる人は僅かである」と言ったのではありません。彼は「多くの人が招かれている」と言ったのです。このことは、聖グレゴリオが説明しているように「全ての人の中から多くの人が真の信仰に招かれており、しかしその中から救われるのは僅かである」ということを意味しています。兄弟の皆さん、これらの言葉は私達の主イエズス・キリストのものです。これらの言葉の意味をはっきりとわかりますか? それらは真理です。さて、あなたが震えることなしに心に信仰を持つことができるかどうか、私に話して下さい。
人生の様々な状態における救済
しかし、ああ、私は全てをこの方法で一般的に語ることによって私の言いたいことの要点を逃していることに気づきます。ですから、この真理を人々のいろいろな状態に適用しましょう。そうすれば、あなたは、信仰に関する理由付け、経験、そして一般常識となっているところのものをも捨てなければならないことを、あるいはカトリック教徒のより多くの人達が滅びに至るだろうことを認めざるを得ないことを、理解するようになるでしょう。この世界に、神の大尉である司祭の地位ほど、より高い考えと共にあり、救われることにより近く、魂の清さにおいてより有利だと思われる地位は他にあるでしょうか? 誰か、最初の一瞥において司祭達のほとんどが善いばかりではなく完璧でさえあると思わない人はいるでしょうか? しかし私は、聖ジェロームが「たとえ世界が司祭で満ちていたとしても、100人の内でかろうじて1人だけが、その地位に相応しい生き方をしているに過ぎない」と言うのを聞く時、あるいは神のしもべが啓示を受けて、毎日地獄に落ちる司祭の数が非常に多いので、彼には地上に誰かが残されることなど不可能に思えた、などと証言するのを聞く時、あるいは聖クリゾストムが泣き叫びながら「私には、多くの司祭達が救われるとは思えない。それどころか、滅ぼされる司祭の数の方が多いとしか思えない」と言うのを聞く時、ゾッとしないではいられません。
更に高い所を見ましょう。聖なる教会の高位聖職者達、霊魂達を世話する責任のある司牧者達を見ましょう。彼らの中で、滅ぼされる人達の数より救われる人達の数の方が多いでしょうか? カンタンプレに聞いて下さい。彼はあなたに一つの出来事を話します。そしてあなたはそこから結論を導くことができます。ある時、パリでシノドスが開かれ、そこに霊魂達を世話する責任のある多くの高位聖職者達と司祭達が参加していました。王や王子もその集会に色を添えるために来ていました。そしてそこには有名な宣教者が説教をするために招かれていましたが、彼が説教の準備をしている時、恐ろしい悪魔が彼に現われて言いました、「お前の本を横に置いておけ。もしお前がこれら王子や高位聖職者どもにためになる説教をしたいのだとしても、お前は彼らにわれわれの陣営のことを語ることで満足しなければならない。『われわれ暗黒の王子達は、王子、高位聖職者、霊魂の牧者、お前達に感謝する。お前達の怠慢によって多くの信者達が地獄に落ちているからだ。またわれわれは、お前達のこの貢献の故に、お前達に渡す報酬を用意している。お前達が地獄でわれわれに会う時のために』」。
人を指導する立場にあるあなたは災い! もしこれほど多くの人達があなたの誤りによって滅びるなら、あなた自身には何が起こるでしょうか? もし神の教会の中の一番良い霊魂の人達の中からほんの少数しか救われないなら、あなた自身には何が起こるでしょうか? 全ての階層の人々のことを考えて下さい、男と女、あらゆる状況を。夫、妻、未亡人、若い女性、若い男性、兵士、商人、職人、富める者と貧しき者、貴族と庶民。これら全ての中のとても悪い生き方をしている人達のことで、私達は何を言うべきでしょうか? 聖ヴィンセント・フェラーが語る次の物語は、あなたがそれについてどう考えられるかを示しています。彼はこう書いています。リヨンの助祭長であった人が、その任務を断念し、償いを果すために砂漠に退いた。そして聖ベルナルドが死んだのと同日同時刻に彼も死んだ。その死後、彼は彼の司教に現われ、そして言った、「モンシニョール、どうか知ってください。私が死んだ正にその時に、33000人の人達が死にました。この数の中から、ベルナルドと私が直ぐに天国に行きました。3人が煉獄に行きました。そして他の者は皆地獄に落ちました。」
私達の年代記は更に恐ろしい出来事に言及しています。その学識の高さと聖性でよく知られた私達の兄弟の一人が、ドイツで説教をしていました。彼は肉欲の罪の忌まわしさについてあまりに力強く話したので、ある一人の婦人が悲しみのあまり皆の前で倒れて死んだようになりました。そしてやがて意識の返った彼女は言いました、「私が神の法廷の前に立った時、地上の世界各地から6万人の人達が到着しました。その数の中から3人の人達が煉獄に行くことによって救われ、残りの全ての人達は滅ぼされました」。
おお、神の裁きの深淵! 3万人の中から僅か5人が救われました! 6万人の中から僅か3人が天国に行きました! 私の話を聴いている罪人であるあなた方よ、あなた方はご自分がどのカテゴリーの中に数えられると思いますか?... どうですか?... どう思いますか?...
私はあなた方のほとんどが頭を垂れ、驚きと恐れに満たされているのを見ます。しかし、茫然自失するのはやめて、そして自惚れる代わりに、私達の恐れから幾らかの利益を引き出しましょう。天国に至る道には無垢と悔恨の二つの道がある、というのは真理ではないでしょうか? さて、もし私が皆さんに、これら二つの道の内のどちらかを選ぶ人がごく少数であることを証明すれば、合理的な人としてあなたは、救われる人はごく僅かであると結論するでしょう。では、証明します。人は何歳の時に、どんな職業の中で、あるいはどんな状況の中で、悪人の数が善人の数の百倍どころではないということに気づき、そしてまた一般に「善人は非常に稀で、悪人は非常に多い」と言えることに気づくのでしょうか? 私達は私達の時代についてサルヴィアヌスが彼の時代について言ったと同様に「あらゆる種類の悪行に没頭している無数の罪人達を探すのは、数少ない善人を見つけることより簡単である」と言うことができます。果してどれだけの召使いが、完全に正直者で、彼らの義務に忠実でしょうか? 果してどれだけの商人が、彼の商売において公平で公正でしょうか? 果してどれだけの職人が、誠実な仕事をし、信頼が置けますか? 果してどれだけの店員が、公平で、真面目でしょうか? 果してどれだけの法律家が、公明正大さを手放しませんか? 果してどれだけの兵士が、無実を踏みつけにしませんか? 果してどれだけの主人が、彼らに仕える人達の報酬を不当に保留しませんか? あるいは目下の者を抑圧しようとしませんか? 至る所で、善人は稀であり、悪人はずっと多いのです。一体誰が、この時代において、成人男性達の中にこれほどの自由主義思想があることを、若い女性達の中にこれほどの放縦があることを、婦人達の中にこれほどの高慢があることを、貴族達の中にこれほどの放蕩があることを、中産階級にこれほどの腐敗があることを、国民の中にこれほどの得手勝手さがあることを、貧しい人達の中にもこれほどの厚かましさがあることを、知らないでしょうか? 一体誰が、ダヴィドが彼の時代について言ったと同じように「あらゆる者がみな道を踏み外した... 善をなすものは一人もいない。ただの一人もいない」[詩篇14:3] と言えないと思うでしょうか?
通りと広場に行って下さい。宮殿と家に行って下さい。都市と田園地方に行って下さい。裁判所とその他の裁決機関に行って下さい。そして神の神殿にさえ行って下さい。あなたはどこに美徳を見つけますか?「ああ!」とサルヴィアヌスは叫びます、「悪を避けるごく僅かな人達を除けば、悪の巣窟ではないとしても、クリスチャンの集会は何であろうか?」至る所で私達が見るのは、これ総て、自己本位、野心、貪欲、そして贅沢です。男達の大部分はみだらな悪癖で汚れていませんか? 聖ヨハネがこう言う時、彼は正しくありませんか?「全世界──もしこれほど汚れた何かがそう呼ばれ得るならば──は邪悪さの中に据え付けられている」。あなたに語りかけているのは私ではありません。証拠が、あなたに、これほど悪い生き方をしている人々の中からごく僅かな人達しか救われないということを信じるしかないようにさせるのです。
しかし、あなたは言うでしょう、「償いは有益に無垢の損失を修復することができませんか?」と。私は、それは真実であると認めます。しかし私はまた、償いは実際にはあまりに困難なものであり、私達はその習慣をあまりに完全に失っており、そしてまたそれが罪人達にあまりに酷く濫用されているので、それだけでその道を通して救われる人はごく僅かであることをあなたに信じさせるには十分なほどであることを知っています。ああ、なんと急で、狭く、棘だらけで、見るだに恐ろしく、登るに険しい道でしょう! 私達が見る至る所に、血の轍が見え、悲痛な記憶を呼び起こすあれこれが見えます。多くの人は正にその光景だけで弱ります。多くの人は正にその出発点で退きます。多くの人は道半ばにして疲労によって落ちます。そして多くの人は哀れにもとうとう諦めます。その中に死ぬまで踏みとどまる人はどんなに少ないことか! 聖アンブロシウスは、目的に適った償いをやりおおせた人を見つけるより、無垢を保った人を見つける方が容易い、と言っています。
あなたが悔悛の秘跡を考えるなら、そこにはとても多くの歪められた告白、とても多くの周到な弁解、とても多くの欺瞞的な悔悟、とても多くの間違った約束、とても多くの無益な裁決、とても多くの無効な赦免があります! あなたは、誰かが不純な罪を犯したことで自分自身を訴える告白をし、しかもまだその同じ罪を誘引する機会に執着しているのを見る時、その告白を有効なものだと見なしますか? あるいは、誰かが明らかな不正の罪を犯したことで自分自身を訴える告白をし、しかもその罪を償うために何の補償もする気がない時は? あるいは、誰かが告白に行った直後に再び同じ罪に落ちた時は? おお、これほど偉大な秘跡に対する何と恐ろしい濫用であることか! ある人は破門制裁を回避するために告白をし、別の人は悔悛者としての評判を取るために告白をします。ある人は罪悪感から逃れるために自分から罪を取り除こうとし、別の人は羞恥心から罪を隠します。ある人は悪意によって不完全な告白をし、別の人は習慣的に自分の罪をあらわにします。ある人は秘跡の本当の存在目的をわかっていませんし、別の人は必要とされる悲しみを欠いていますし、また別の人は確かな目的感を持っていません。哀れな告白聴聞者達、あなたは数多いる告白者達に、冒涜的な告白を含まぬところの、根拠のない赦免を含まぬところの、幻想的な苦行を含まぬところの正しい決意と行為を運ぶために、どんな努力を傾けていますか?
今や、救われるクリスチャンの数は滅ぼされるクリスチャンの数より多いと信ずる人々はどこにいるでしょうか? 彼らは彼らのその意見を根拠付けようとしてこのように言うでしょうか?「大人のカトリック教徒の大部分は、教会の秘跡を受けて彼らのベッドの中で死にます。それ故、ほとんどの大人のカトリック教徒達は救われます。」おお、なんと素晴らしい推理でしょうか! しかし、あなたはこれとは全く正反対のことを言わなければなりません。大部分の大人のカトリック教徒達は死の床にあって良い告白をしないので、彼らのほとんどは滅ぼされます。私はそれが「一層確かなこと」だと申し上げます。何故ならば、元気に生きている時に良い告白をしなかった人というのは、瀕死の床にある時、重苦しい胸、不安定な頭、混乱する精神を抱えて、良い告白をするには更に一層厳しい時を過ごさねばならないからです。その時、彼は様々なものによって邪魔されます。まだ残っている執着によって、まざまざと浮かんでくる情景によって、染み付いた習慣によって、そして結局のところ彼を地獄に投げ込むためにあらゆる手段を探している悪魔達によって、邪魔されます。さて、もしあなたがこれら全ての間違った悔悛者達に予期外に罪の中に死んで行く罪人達を加えるなら──医師の無知のために、あるいは身内の人達の間違いのために、あるいは中毒のために、地震に埋められて、脳卒中のために、転落して、戦場で闘いに負けるか罠にかかるかして、雷に打たれて、焼死して、溺死して──これらの人達を加えるなら、あなたはほとんどの大人のクリスチャン達が滅ぼされると結論せざるを得ないのではないでしょうか? それは聖クリゾストムの推理です。この聖人は、ほとんどのクリスチャンはその生涯を通じて地獄への道を辿っている、と言っています。それでは何故、あなたは、地獄に行く人達がそれほど多いことを聞いてそんなに驚くのですか? ドアを開けるためには、そのドアに通じた道を通って行かなければなりません。あなたはこのように力強い推理に対して何と答えなければならないでしょうか?
あなたが私に与えようとする答えは、神の御憐れみは偉大である、というものです。そうです、神を恐れる人達にとってはその通りです。しかし預言書は言っています、「しかし、神を恐れぬ人達には神の裁きは過酷である。それは全ての頑なな罪人達を有罪と定める」。
そこで、あなたは私に言うでしょう、「それでは、天国は、もしそれがクリスチャンのためのものでないとしたら、誰のためのものですか?」と。それはクリスチャンのためのものです、もちろんです。でも、それは人格を汚さずにクリスチャンとして生きた人達のためのものです。更に、もしあなたが、神の恩寵の中に死を遂げた大人のカトリック教徒達の数の中に洗礼を受けた後に死んだり物心つく前に死んだりした無数の子供達を加えるなら、使徒聖ヨハネが救われた人々について「私は、誰も数えられぬほどの無数の人々を見た」[黙示録7:9] と証言するのを聞いても驚かないことでしょう。
そしてこれは、カトリック教徒の中で救われる人々は滅ぼされる人々より多いのだと思いたがる人々を錯覚させているところのものです。もしその数に、無垢の衣を保った大人達、またそれを汚してしまった後で償いの涙でそれを洗った大人達の数を加えれば、救われる人達の数は確かに多いのです。それは聖ヨハネの「私は無数の人々を見た」という言葉を説明するものです。また、他の私達の主の御言葉「多くの人々が東からも西からも来て、天の御国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に祝宴の席につくであろう」[マタイ8:11] を説明し、また、この考えに賛成して普通引き合いに出される他の数字をも説明するものです。しかしながら、もしカトリックの大人達のことを言うなら、経験、推理、権威者達の言葉、妥当さ、そして聖書の言葉など全てが、滅ぼされる人々の数は非常に多いということを証明することに同意しています。もちろん、これらのために天国は空っぽであると信じてはなりません。それどころか、それはとても人口の多い王国です。もし滅ぼされた人達が「海の砂のように無数」であるとするなら、救われた人達は「空の星のように無数」なのです。つまり、両方とも、その規模は非常に違いますが、数え切れないほど多数であるのです。
ある日、聖ヨハネ・クリゾストムは、コンスタンチノープルの大聖堂で説教をしていて、この規模のことを考えた時、恐怖によって震えざるを得なくなり、聴衆に問いかけました、「あなた方は、この多くの人々の中からどれだけの人達が救われると思いますか?」。そして彼は答えを待たずに続けました、「このように多い何千人もの人々の中に、私達は救われる人を百人見つけられるかどうかでしょう。しかし、私は百という数さえ疑っています」。なんと恐ろしいことでしょうか! この偉大な聖人は、それほど多くの人達の中から救われる人の数はかろうじて百であろうと信じました。そして尚、彼はその百という数に確信がありませんでした。私の話を聞いているあなたに何が起こりますか? 偉大なる神よ、私はこのことを震えることなしには考えることができません! 兄弟の皆さん、救霊の問題は極めて困難なのです。何故なら、神学者達の格言に従えば、終わりの時が大きな努力を要求する時、その要求に応えられるのはごく僅かの人だからです。
このような理由から、天使的博士である聖トマスも、彼の巨大な博識の中であらゆる賛否両論を検討した後に、非常に多くのカトリック信者達が滅ぼされるであろうと最終的に結論しています。彼は言います、「永遠の至福は自然的状態を超えるものなので(特に最初の聖寵が奪われてからは)、救われる人の数は少数である」。
さて、それで、自己愛と一緒になってあなたを盲目にしている目隠しを、あなたの目から取り除いて下さい。それは神の正義に関する非常に間違った考えをあなたに与えることによって、あなたをこれほど明かな真理から遠ざけてきました。私達の主イエズス・キリストは「正しき父よ、この世はあなたを知りません」[ヨハネ17:25] と言いました。彼は「全能の父、最も善く、憐れみ深い父」とは言いませんでした。彼は「正しき父」と言ったのです。しかし、天主の全ての御性質の中で、この正義というものほどよく認識されていないものはありません。何故なら、人々は自分が経験することを恐れているものを信ずることを拒否するものだからです。しかし、あなたの目から覆いを外し、涙と共に言って下さい、「ああ! カトリック教徒の多くの人達が、今生きている人達の中から、おそらくこの集会の中にいる人達の中からさえも、多くの人々が滅ぼされるだろう!」と。他のどんな主題が、これよりもあなたの涙に相応しいでしょうか?
クセルクセス王は、丘の上から戦闘隊形を取っている彼の10万の兵士を見て、彼ら全ての中で100年の人生を生きる者は1人もないだろうことを思って涙を抑えることができませんでした [] 。しかし、これほど多くのカトリック信者達の中からとても多くの人達が滅ぼされることを考える時、私達は彼以上に泣く理由を持っているのではないでしょうか? この考えは私達の目を涙で溢れさせる筈ではないでしょうか? あるいは少なくともその考えは、アウグスチヌス修道会士である聖ドミニコの尊者マルセルス [] によって感じられた同情の思いを、私達の心にも運ぶ筈ではありませんか? ある日彼が永遠の苦しみについて黙想している時、天主は彼に如何に多くの霊魂がその瞬間にも地獄に落ちているかをお見せになりました。そして、2万2千の神に見捨てられた者達が非常に広い道を互いにぶつかり合いながら深い裂け目に向かって走っている光景をお見せになりました。神のしもべはその光景に麻痺したようになって叫びました、「ああ、なんという数だろう! なんという数だろう! そしてまだ続いている! ああ、イエズス! ああ、イエズス! なんという狂気だろう!」私にエレミアの言葉を繰り返させて下さい、「だれが、私の頭を、水の泉に、私の目を、涙の池に、かえるだろうか? そうなれば、ひるも、よるも、私は、泣くだろう! 民の娘の、殺されたもののために」[エレミアの書 8:23]
哀れな霊魂達! どのようにしてあなた方は地獄に向かってそれほど急いで走ることができるのでしょうか? どうぞお願いですから立ち止まって、私の話をほんのしばらくの間聞いて下さい! 全永遠に向かって救われるということと滅ぼされるということがどういうことかを、あなたが理解するにせよ、またそうでないにせよ。もし、あなたがそれを理解し、それにも拘らず、今日生き方を変え、良い告白をしてこの世を踏みつけにし、一言で言えば救われる数少ない人々の中に数えられるためにあらゆる努力をしようと決心しないならば、私は言います、あなたは信仰を持っていない人です。もしあなたが理解しないならば、あなたまだ少しは許されます。何故なら、その時、あなたはどうにかしているのでしょうから。全永遠に向かって救われるということと、全永遠に向かって滅ぼされてしまうことという、取り返しのつかない重大な二つのことがある時に、一方を避け他方を確実なものにするためにあらゆる努力をすることをしないなどということは、全くもって考えられないことです。
天主の善性
おそらくあなたは、今私があなたに教えたことをまだ信じてはいません。しかし、今迄私を通して話してきたのは最も尊敬されている神学者達であり、最も傑出した教父達なのです。ですからあなたは、これほど多くの事例と聖書の言葉によって支持されている根拠にどのようにして抵抗することができるのでしょうか? もしあなたがこれらにも拘らずまだ躊躇うならば、そしてもしあなたの心がこれとは正反対の意見に傾くならば、この真実の考察もあなたを震えさせるには十分ではないということでしょうか? ああ、それはあなたがあなた自身の救いに大して用心しないということを意味しています! 分別のある人は、霊魂に関係のない他の事柄における完全な破滅のはっきりとした徴候によってよりも、このような霊魂に関わる重大な事柄における僅かな危険の可能性によって、より一層強く打たれるものです。私達の兄弟の一人である福者ジルは、もし地獄に行くことになっている人がたった一人だったとしても、自分がその一人にならないことを確かなものにするために出来得る限りのあらゆることをするつもりである、と言うのを常としていました。
ですから、非常に多くの人達が地獄に落ち、しかもそれはカトリック教徒からばかりではないと知っている私達は、何をしなければなりませんか? 何をしなければならないでしょうか? 自分は救われる少数の人々の中に必ず入るのだという決意をして下さい。あなたは言うかも知れません、「もしキリストが私を滅ぼすことをお望みなのであれば、彼は何故私を作ったのですか?」と。軽卒な舌よ、どうか黙って下さい。神は滅ぼすためには誰も作りませんでした。滅ぼされる人は、彼自身がそれを望むが故にこそ滅ぼされるのです。それ故、私は今、神の善性を擁護し、それを全ての非難から護りたいと思います。それが第二の要点の主題です。
続ける前に、私達は、一つの側にルターとカルヴィンの全ての書物と異端の主張を集め、もう一つの側にペラギウス主義者と半ペラギウス主義者の書物と異端の主張を集め、それらを燃やしてしまいましょう。それらの内の幾つかは神の恩寵を破壊します。別のものは自由を破壊します。そしてそれら全てが誤謬に満ちています。ですから私達はそれら全てを火の中に投げ入れましょう。滅ぼされる人々の全てが、彼ら自身の額の上に預言者ホセアの言葉を運びます、「私はあなたを滅ぼす」[ホセア書 13:9] 。ですから彼らは、滅ぼされる人は誰でもその人自身の悪意によって滅ぼされるのであり、その人自身が滅ぼされることを望んだからこそ滅ぼされるのである、ということを知らなければならないのです。
最初に、基礎的なこととして、二つの否定できない真理を取り上げましょう。「神は全ての人間の救いをお望みである」「全ての人は神の恩寵を必要とする」この二つです。さて、もし私があなたに、神は全ての人間の救いをお望みになり、そのため全ての人に恩寵と他の崇高な死を迎えるために必要な全ての手段をお与えになっている、ということを示せば、あなたは、誰であれ滅ぼされる人はそうなった原因をその人自身の悪意に帰さなければならず、もしクリスチャンの非常に多くの人達が滅ぼされているのだとしても、それは彼ら自身がそう望んだからだ、ということに同意せざるを得ないでしょう。「私はあなたを滅ぼす。私以外に誰があなたを救えようか?」[ホセア書 13:9]
神は全ての人間が救われることをお望みである
聖書の中のあらゆるところで、神は私達に、彼の全人類を救いたいとのお望みが真実のものであることを語っておられます。「私が、悪人の死をよろこぶだろうか? むしろ、かれが、その生き方をかえて生きることをこそよろこぶ... 私は、自分のいのちにかけていう──主のおつげ──私は、悪人の死をのぞまない。道を改め、生きよ」[エゼキエル書 18:23 及び 33:11] 。人が何かを非常に望む時、彼は欲望と共に死のうとしている、と言われます。それは誇張です。しかし主は、望みの故に死なれたほどに、私達にいのちを与えるために御自身を死に渡されたほどに、私達の救霊を非常に望まれましたし、また今もお望みです。それ故、全人類を救いたいとのこの神の御意志は、感情的な、表面だけの、見かけだけのものではありません。それは真実であり、実際に働きかけるものであり、私達に利益をお与えになる神の御意志なのです。何故なら、神は私達に、私達が救われるために最も適当な手段をお与えになるからです。主はそれらの手段を、何の効果も持たないような形では、私達にお与えになることはありません。主は、まことの御意志をもって、それらが効果を持つようにと、それらを私達にお与えになります。そして、もしそれらが効果を発揮することがなければ、主はそのことをお悩みになり、ご不快になられます。主は、本来なら地獄行きのような人々にさえ、救われるためにそれを使いなさいとお命じになります。主は彼らにそれらを使うようにと勧告なさいます。主は彼らにそれを強います。そしてもし彼らがそれに従わなければ、彼らは罪を犯すことになります。それ故、もし彼らがそれに従えば、彼らは救われるのです。
そればかりでなく、主は、私達が主の御助力を得ることなしには主の御恩寵を利用することさえできないのをご覧になり、私達に他の援助もお与えになります。それ故、もしそれらが時に効果がないままである時、それは私達自身の過ちのせいです。何故なら、これらの同じ援助を頂いているにも拘らず、ある人はそれを濫用し、それにおいて呪われ、しかし別の人はそれを正しく使い、救われるからです。後者のような人は、もっと少ない援助によっても救われるかも知れません。そうです、ある人がより少ない恩寵に協力して救われる一方で、私達はより多い恩寵を受け、しかしそれを濫用し、そして滅びることがあり得ます []
聖アウグスチヌスは強い調子で断言します、「それ故、もし誰かが正義の道から外れてしまうなら、彼は自分の自由意志によって運ばれ、情欲に導かれ、彼自身の説得によって欺かれます」。しかし、神学を知らない人達のために私はこう言わなければなりません。神はとても善いお方なので、もし堕落した生き方に駆け寄ろうとしている罪人を見た時、主はその罪人の後を追い、それに呼びかけ、懇願し、その罪人が地獄の門の前に来る時までもそれに付き添います。罪人を回心させるために、何か主がしないことがあるでしょうか? 主は罪人に善い閃きと清い考えを送ります。そして、もし罪人がそれらから利益を得ないならば、主は怒り、憤慨したようになられます。主は罪人につきまといます。主は罪人を叩きますか? いいえ、主は空中を蹴って罪人を赦します。しかし罪人はまだ生き方を変えません。神は彼に大病を送ります。確かにこれで彼の生涯は終わったも同然です。いいえ、兄弟の皆さん、神は彼を癒します。罪人は悪に凝り固まるようになります。そして主はその御憐れみによって他の方法を探します。主は、その罪人にもう一年を与えることにします。そして、その一年が終わった時、更にもう一年を与えます。
しかし、もしその罪人がこれら全てにも拘らず彼自身を地獄に放り込むことをまだ望んだなら、その時神はどうされるでしょうか? 彼を見捨てるでしょうか? いいえ、主はその罪人を手に取られます。そして彼が地獄とその周辺に足をかけている時も、主は彼に語りかけ、主の御慈悲を無駄にしないようにと懇願なさいます。さて、私はあなたに質問します。もし、その罪人が滅ぼされたなら、彼は神の意志に反して滅んだのであり、そしてそれは彼自身がそうなることを望んだからだ、というのが本当ではないでしょうか? さあ、私に尋ねて下さい、「もし、神が私を滅ぼすなら、それでは何故彼は私を作りましたか?」と。
恩知らずな罪人よ、どうか今日、もしあなたが滅びるなら、それは神の責任ではなく、あなたとあなたの頑なさのためであると知りなさい。このことをあなた自身に納得させるために、深い穴の底にさえ降りて行きなさい。そうすれば、そこで私はあなたに、地獄で焼かれる哀れな滅んだ霊魂の一人に会わせましょう。そうすればその者は、今まで述べられてきたことが本当のことであるとあなたに説明するかも知れません。今、ここに一人の人がいます [10] 。「話して下さい。あなたはどなたですか?」「私は知られていない土地で生まれた哀れな偶像崇拝者です。私は天国のことも地獄のことも、私が今苦しんでいるこの状態のことも聞いたことがありませんでした。」「哀れな不幸な人よ! 行って下さい。あなたは私が探している人ではありません。」彼はそこにいます。「あなたはどなたですか?」「私はタタール地方の最北端出身の離教徒です。私はいつも未開の地に生き、かろうじて神の存在を知っていました。」「あなたは私が探している人ではありません。地獄にお戻り下さい。」別の人が来ています。「さて、あなたはどなたですか?」「私は北部出身の哀れな異教徒です。私は北極地方に生まれ、太陽の光も信仰の光も見たことがありません。」「私が探しているのはあなたでもありません。地獄にお帰り下さい。」兄弟の皆さん、私は、呪われた人々の中に生きて真の信仰を知ることさえもなかったこれらの哀れな人々を見ると、胸が張り裂けそうになります。しかし、それでも、彼らは有罪の判決を言い渡され、「私はあなたを滅ぼす」と言われたのだと知って下さい。彼らはそう望んだからこそ滅ぼされたのです。彼らは救われるためのとても多くの御助力を神から頂いていたのです! 私はその御助力がどういうものであったかを知りません。しかし彼ら自身はそれをよく知っています。そして彼らは今、こう叫びます、「主よ、あなたは正しく、あなたの裁きは公平」[詩編 119(118):137]
兄弟の皆さん、あなた方は、最も古い信仰は神の法であること、及び、私達全てがその神の法を胸に刻まなければならないということを知らなければなりません。また、それを学ぶために特に教師は要らないということ、神の法の全ての指針を知るための判断の光は既に十分に与えられているということを知らなければなりません。それが未開の人達でも彼らが罪を犯した時に隠れる理由です。彼らは自分が悪いことをしたとわかるからです。そして彼らは彼らの心の中に書かれた自然法を守らなかったが故に滅ぼされるのです。何故なら、もし彼らがそれを守っていたなら、神は彼らを滅ぼすよりも奇跡を起こしただろうからです。主は、彼らが彼ら自身の良心の閃きと一致して生きることをしないために彼ら自身を無価値な者にしていることに関して、彼らがすべき善きことと彼らが避けるべき悪しきことについて彼らに警告することにおいて決して間違うことのない彼らに教える誰かを、彼らに送られたことでしょうし、また他の御助力をもお与えになったことでしょう。ですから、神の法廷で彼らを裁くのは彼ら自身の良心なのです。そしてこのことは、地獄で、彼らに常にこう告げているのです、「私はあなたを滅ぼす」。彼は何と答えていいのかわからず、自分達がその運命に値することを認めなければならないのです。さて、もしこれらの異教徒達が自己弁護をしないならば、個々の自由裁量によってこれほど多くの秘跡に与ることができ、これほど多くの説教を聴くことができ、これほど多くの御助力を受けることができるカトリック信者の私達には、何が残されているでしょうか? どのようにして敢えてこう言うのでしょうか?「もし、神が私を滅ぼすなら、それでは何故彼は私を作りましたか?」と。神があなたを救おうとしてこれほど多くの御助力を与えておられる時に、どのようにして敢えてそう言うのでしょうか? ですから、神に反発する気持ちはもう捨てましょう。
深い穴の中で苦しんでいるあなた、私に答えて下さい! あなた方の中にカトリック教徒はいますか?「確かにそこには彼らがいます。」どれくらいいますか? 彼らの内の一人をここに連れて来て下さい!「彼らはあまりに下にいるので、それは不可能です。もし彼らを上に来させれば、全地獄の上下がひっくり返ることになるでしょう。しかし、地獄に落ちようとしている人を止めることは、それよりは容易です。」ですから、道徳的な罪の習慣に生きているあなた、憎しみの中にいるあなた、不純な悪癖のぬかるみの中にいるあなた、そして日々地獄に近づいているあなたに、私は言います。止まりなさい、そして生き方を改めなさい。あなたにこのように呼びかけているのはイエズスです。彼は、彼の御傷と共に、とても多くの雄弁と共に、あなたに叫んでおられます、「わが息子よ、もしあなたが滅ぶなら、その責任はただあなた自身にある」。
「私は、もしそうしようと思えば、あなたが初めて道徳上の罪を犯した時に、あなたを地獄に投げ込むこともできた。二回目の罪を待たずにそうすることができた。私は非常に多くの者にそうしたが、しかしあなたに対しては我慢した。私はとても長い間あなたを持った。私は今日もまだあなたの償いを待っている。これら全てに拘らずあなたが滅んだとしても、それは誰の過ちであろうか? あなた自身の過ちである、わが息子よ、あなた自身の過ちである。『私はあなたを滅ぼす。』あなたは、あなたの正に眼前で、今まで何人の人達が死んでゆき、そして滅ぼされたかを知っている。それはあなたへの警告であったのだ。またあなたは、私が今まで何人の人達を正しい道に連れ戻したかを知っている。それはあなたに良い例を与えるためであったのだ。あなたは、優れた聴罪司祭があなたに何を言ったかを覚えているだろうか? 彼にそれを言わせたのは私である。彼はあなたに、生き方を変えて良い告白をしなさいと命令しなかったか? 彼に霊感を与えたのは私である。あなたの心を動かした説教を覚えているか? あなたをそこに導いたのは私である。そして、あなたの心の隠されたところであなたと私の間に起こったこと... あなたはそれを決して忘れてはならない。」
「それらの内的な霊感、はっきりとした気づき、引き続く良心の咎め、それらをあなたは敢えて否定するのか? これらの全て、これらとても多くのものは、私があなたの救いを望んであなたに送った私の恩寵の助力である。私は他の多くの者にはそれらを送ることを拒んだが、あなたには送った。何故なら、私はあなたを優しく愛するからである。わが息子よ、わが息子よ、もし私が彼らに、今私があなたに話しているように優しく話したなら、どれほど多くの霊魂達が正しい道に立ち返ったことだろう! そして、あなた... あなたは私に背を向ける。私があなたに語りかけて来たことを聞きなさい。何故なら、これは私の最後の言葉だからである。あなたはあなたの救いを私の血の代価によって手にしたのだ。それ故、もしあなたが、あなたのために流された私の血にも拘らず滅ぶことを望むなら、責められるべきは私ではなくただあなたである。そしてもしあなたが私にも拘らず滅びたなら、それはあなた自身がそれを望んだからこそであるということを、全永遠において忘れてはならない。『私はあなたを滅ぼす。』」
おお、私の善い方、イエズス。かくも甘美な御言葉を聞いて、かくも優しき御言葉を聞いて、石でさえ割れずにいられましょうか。これほど多くの御恩寵と御助力を頂いて、滅びたいと願う人がここに誰かいるでしょうか? もしいたなら、その人に私の言うことを聞かせなさい。そしてもしその人にそれができるなら、私の言うことに抵抗させなさい。
バロニウスは書いています。背教者ユリアヌスは、その悪名高い棄教の後、昼も夜もその心に聖なる洗礼に対する大きな憎悪を抱き、彼自身を消しかねないような方法を探し求めました。その目的のために彼は、山羊の血を満たした槽を準備し、その中に彼自身を浸しました。そのいけにえの汚れた血を、彼の霊魂から洗礼の聖なる印を消すためにヴィーナスに捧げたのです。このような振る舞いはあなたには忌まわしいものでしょう。しかし、もしユリアヌスの計画がうまく行って、彼の霊魂から聖なる洗礼の印を取り除くことに成功したならば、彼の地獄での苦しみはずっと少なかったに違いありません。
罪人達、私がこれからあなたに与えようとする忠告は、疑いなくあなたには奇妙なものに思えるでしょう。しかし、もしあなたがそれをよく理解するなら、それとは反対に、あなたはあなたへ向けられた優しい同情によって霊魂の照らしを受けることでしょう。私は、キリストの血により、また聖母の御心により、跪いてあなたに懇願します。あなたの生き方を変えなさい。天国に通じた道に立ち返りなさい。そして救われる人々の数に加わるために、あなたのできる全てのことをしなさい。もしそうではなく、あなたが地獄へとつながる道を歩き続けたいなら、少なくとも洗礼の印を消す方法を見つけなさい。もしあなたが、主イエズス・キリストの聖なる御名とあなたの霊魂に刻み込まれたクリスチャンとしての聖なる性質を地獄に投げ捨てるなら、あなたは災い! あなたへの懲罰は極めて大きなものとなるでしょう。ですから、私が忠告することを実行しなさい。もし、あなたが回心したくないなら、今直ぐ司祭のもとに行って、あなたが今までクリスチャンであった記録が何も残らないように、あなたの名前を受洗者名簿から削除してくれるように頼みなさい。そして、あなたの守護の天使に、彼の恵みの書から、彼が天主の御命令によってあなたに与えて来た霊感と助力の記録を全て消してくれるように頼みなさい。何故なら、彼がそれらを思い出すことはあなたには災いだからです! 私達の神に、その信仰を、その洗礼を、その秘跡を、あなたから取り除くように言いなさい。
あなたはそのようなことを考えるとゾッとするのでしょうか? よろしい、それではあなた自身をイエズス・キリストの御足の許に投げて、涙に濡れた目と悔悛した心をもって主にこう申し上げて下さい、「主よ、私は、自分が今までクリスチャンとして相応しく生きてこなかったことを認めます。私はあなたの選びの中に数えられるに値しない者です。私は自分が滅ぼされるに値すると認めます。しかし、あなたの御憐れみは偉大です。それで、私はあなたの恵みに全く信頼して、あなたにこう申し上げます。私は、私の霊魂が救われる限り、たとえ富、名誉、そして肉体の生命そのものさえも犠牲にしなければならないとしても、私の霊魂を救いたいのです。もし、私が今まで忠実でなかったとしても、私は後悔し、悲しみ、自分の不義を心から憎み、あなたに私を赦して下さるよう、伏してお願い申し上げます。善きお方、イエズス、私をお赦し下さい。そして、私が救われるよう、私を強めて下さい。私はあなたに、富も、名誉も、繁栄も求めません。私はあなたにただ一つのことだけ、私の霊魂が救われることだけを求めます」。
そして、あなた、おお、イエズス! あなたは何とおっしゃいますか? おお、善き牧者よ、迷っていた羊があなたのもとに戻るのをご覧下さい。この後悔している罪人を抱きしめ、彼の吐息と涙を祝福して下さい。あるいはむしろ、とても良い心構えを持った、霊魂の救済だけを望むこれらの人達を祝福して下さい。兄弟の皆さん、主の御足の許で、私達は是非とも私達の霊魂を救いたいのだとはっきりと申し上げましょう。私達全員で、主に、涙と共に申し上げましょう、「善きお方、イエズス、私は私の霊魂を救いたいのです」と。おお、幸いなる涙、幸いなる吐息よ!
兄弟の皆さん、私は今日、あなた方を慰められた状態にした上で帰したいと思います。それ故、もしあなたが、救われる人の数に関する私自身の考えを尋ねるなら、私はこう答えます。救われる人が多いか少ないかに関わりなく、私は、救われたいと望む人は誰でも救われるだろう、また、滅ぼされることを自ら望まぬ限り誰一人滅ぼされることはできない、と言います。そして、もし救われる人は少ないというのが本当だったとしても、それは良い生き方をする人が少ないからです。もう少し言うとすれば、次の二つの意見を比較してください。第一の意見は、とても多くのカトリック教徒が滅ぼされる、というものです。第二の意見は、それとは反対に、多くのカトリック教徒は救われる、と見せかけようとするものです。次のように想像して下さい。第一の意見の正しさを保証するために一位の天使が神によってあなたのところに送られて来て、あなたに「カトリック教徒のほとんどが滅ぼされるとは限りません。しかしこの集会に参加している全員の中からは、たった一人が救われるだけでしょう」と言ったと。しかし、たとえそうであったとしても、もしあなたが神の掟に従うならば、もしあなたがこの世の腐敗を心から軽蔑するならば、もしあなたが償いの気持ちをもってイエズス・キリストの十字架を抱きしめるならば、あなたはここで救われるたった一人の人になることでしょう。
さて、今度は次のように想像して下さい。その同じ天使があなたのところに戻って来て、第二の意見の正しさを保証するために、あなたに「カトリック教徒の多くの人が救われるとは限りません。しかしこの集会に参加している全員の中からはたった一人が滅ぼされるだけであり、他の人達は全て救われるでしょう」と言ったと。しかし、たとえそうであったとしても、もしこれを聞いた後で、あなたが不法な高利貸し、復讐、犯罪行為、不純な行為などを続けるなら、あなたはこの集会で滅ぼされるたった一人の人になることでしょう。
それでは、救われる人の数が多いか少ないかを見定めようとすることの有益性とは何でしょうか? 聖ペトロは私達に言っています、「あなたの選ばれを確かなものにするために、善い行ないをするよう努力しなさい」[ペトロの第二の手紙 1:10] 。聖トマス・アクィナスの姉妹が彼に、彼女はどうしたら天国に行けるのか、と尋ねた時、彼は言いました、「あなたが救われることを望めば、あなたは救われます」と。私は同じことをあなたに言います。そして私のこの断言の立証はこうです。誰も大罪を犯さない限り滅ぼされることはありません。これは信仰箇条です。そして、誰も自分からそれを望まない限り、大罪を犯しません。これは否定できない神学の定理です。それ故、誰もそれを望まない限り、地獄に行くことはありません。結論はこのように明らかです。これはあなたを慰めるために十分なことではありませんか? どうか過去の罪を泣いて、そして良い告白をして、将来これ以上罪を犯さないで下さい。そうすれば、あなた方全員が救われます。何故そのようにひどく悩んでいるのですか? あなたが地獄に行くためには大罪を犯さなければならない、というのは確かなのです。そして、大罪を犯すためにはあなたがそうすることを望まなければならない、というのも確かなのです。ですから、必然的に、自分でそう望むことなしには地獄に行くことはできない、というのは確かなことなのです。これは一つの意見であるというだけではありません。否定することのできない非常に慰めとなる真理なのです。神がこのことをあなたに理解させて下さいますように。主があなたを祝福されますように。アーメン。
霊魂の識別についての第一の規則として、聖イグナチウスは、罪人を安心させようとするのが悪魔に特有のことである、と言っています [11] 。従って、私達は常に説教をしなければならず、神の無限の赦しと御憐れみに対する信頼と望みの義務を人々の中に起こさなければなりません。何故なら、回心は容易であり、主の御恩寵は全能を有しているからです。しかし私達はまた、「神を侮ってはならない」[ガラツィア人への手紙 6:7] ということ、及び、大罪の状態の中に習慣的に生きている人は永遠の滅びへの途上にいる、ということをも思い出さなければなりません。
土壇場で奇跡が起こることもないとは言えません。しかし、私達が奇跡が物事の一般的な進行形態であると主張するのでない限り、私達は、大罪の状態にある大多数の人々のために、人が最後の土壇場で悔い改めに至ることは最も可能性の低いことである、ということに同意しなければならないのです。
編者の言葉
ポルト・マウリチオの聖レオナルドのあげる論拠は私達ににとって説得力のあるものです。それは聞くに値します。それは1948年12月4日においてカリアリで持たれたイタリア共産党のリーダーであるベリオ・スパーノとの公開討論におけるロンバルディ神父の考察を、雄弁且つ明快に説明するものです。「あなたがそのように続けるならばあなたは地獄に落とされる他はないと考えて、私はゾッとします」と、ロンバルディ神父はマルクス主義者スパーノに言いました。スパーノは答えました、「私は地獄など信じません」。するとロンバルディ神父は答えました、「正確に言って、あなたがそのように続けるならば、あなたは有罪を宣告されるでしょう」。何故ならば、人は有罪宣告を避けるためには地獄の存在を信じなければならないからです。
私達はロンバルディ神父の答えを一般化することができるでしょう。おそらくそれは、正確に言えば、ポルト・マウリチオの聖レオナルドのようなやり方でなされる説教というものは私達の現代生活に適応された時にもどれほど大きな司牧的卓越性を持つものであるか、ということを人々に深く理解させるところの超自然的な信仰が失われているということです。とにかくそれは私達の時代がこの有名な説教者の時代よりも道徳的に優れているという証拠ではありません。ピー枢機卿の次のような非難が当てはまるような状況が私達にとってより良いものであるなどということは全くもってありません。「私は、至る所で思慮分別を見ます。間もなく私達はどこにも勇気を見ることができなくなるでしょう。しかし、どうぞご安心を。もし私達がこのまま続けるなら、私達は知恵の攻撃によって死ぬでしょう」。しかし、そのようなものは確かに神の知恵ではありません。何故なら、世俗的で世間的な思慮分別だけが無益な知識を立ち上げるのであり、それはポルト・マウリチオの聖レオナルドの説教を侮るからです。
ポルト・マウリチオの聖レオナルドの教えは、今まで無数の霊魂達を救って来ましたし、また時の終わりに向けてこれからも救い続けるでしょう。聖務日課の6時課の祈りの中に、聖レオナルドの天国的な雄弁について教会が語っている言葉があります。「彼の説教を聞くと直ぐに、鉄と真鍮でできた心でさえも強力に己が罪を償うことを望み始めるのだった。それはその説教の驚くべき効果と説教者の燃える熱意のためである。」そして、私達が神を求める典礼の祈りの中には「説教の仕事によって頑なな罪人達の心を屈めさせる力をお与え下さい」とあります。
ポルト・マウリチオの聖レオナルドのこの説教は、その宣教者を心から愛した教皇ベネディクト14世の在位中に行なわれました。
管理人注
Divine Praises『聖体降福式の時の讃美』
天主は、讃美せられさせ給え。
天主の御名は、讃美せられさせ給え。
まことの天主、まことの人なるイエズス・キリストは、讃美せられさせ給え。
イエズスの御名は、讃美せられさせ給え。
イエズスの至聖なる聖心は、讃美せられさせ給え。
イエズスのいと尊き御血は、讃美せられさせ給え。
いと尊き聖体の秘蹟にましまし給うイエズスは、讃美せられさせ給え。
慰め主なる聖霊は讃美せられさせ給え。
天主の御母聖マリアは讃美せられさせ給え。
聖マリアの原罪の汚れなき御宿りは、讃美せられさせ給え。
聖マリアの栄(は)えある被昇天は、讃美せられさせ給え。
童貞にして母なる聖マリアの御名は、讃美せられさせ給え。
聖マリアの浄配なる聖ヨゼフは、讃美せられさせ給え。
すべての天使と聖人とにおいて、天主は、讃美せられさせ給え。
編集者の文章でも説教の本文でもこの「クリスチャン」という語が使われていますが、これは本文を読めばわかりますが「カトリック信者」のことを意味しています。
Eusebios(エウセビオス): この名前で知られているのは「ニコメディア司教エウセビオス」と「カイサリアの司教エウセビオス」の二人ぐらいのようですが、聖レオナルドが言っているのは「ニコメディア」の方のエウセビオスのことではないでしょうか。何故なら、その人ははっきりとしたアリウス派だったらしいから。
でも、アリウス主義については私達はよっぽど頑張って調べないと「聖父と聖子の同一性を否定した」などといったかなり外郭的なものしか知ることができません。ポルト・マウリチオの聖レオナルドは「エウセビオスの考えを使って霊魂達を安心させることによってそれを滅ぼそうとする悪魔」と言っていますが、アリウス主義はどのようなかたちで信者達に「間違った安心」を運んだのでしょうか? 主イエズスを人間に近づけることで、どのようにして信者に「霊魂を危険にさらす安心」を運んだのでしょうか?
ネットではそこまでのことはわからないし、また私はこのことを書物を漁ってまで調べることはないかも知れないけれども、「みこころネット」にこれ(アリウス派)に関連したちょっと興味深い記事を見つけました。ニコラス・グルーナー神父の言っていることです。
信徒たちを彼らの異端に協力させるために彼らはミサの中へ手による聖体拝領のような新しい実践を導入した。このことの目的はイエズスが御父なる神に等しい方ではないという新しい教説への信仰を強化し、その結果ホスチアを使徒たちによって教えられたように舌で受ける代わりに、彼らは聖なるホスチアをそれがそれほど重要でないかのように取り扱ったのである。このようにして彼らはホスチアを彼ら自身で手に取るように平信徒や修道者たちに奨励した。
聖なるホスチアに対するカトリック的な崇敬と礼拝は、イエズスを神として礼拝しないように、そしてイエズスを相応しい深い崇敬をもって取り扱うことがないように、彼らの追随者たちと混乱したカトリック教徒たちに教えたアリウス派の人々によって破壊された。
Cajetan(カエタノ、カイェタノ、カエタヌス): プロテスタント宗教改革期に生きてルター問題の処理において教皇からある種の直接的な権限を受けていた人にこの名前の人がいたらしいが、その人のことか。また聖ピオ十世会は同じくその時期に生きた「教会の最高の神学」としてこの名(カエタヌス)をあげているが、聖レオナルドが言っているのはその人のことか。
http://fsspxjapan.fc2web.com/pro_fsspx/nonsum.html
Bellarmine(ベラルミーノ、ベラルミン): 17世紀のイタリアに生きた人に聖ロベルト・ベラルミーノ(St. Robert Bellarmine)という人がいるらしいが、その人のことか。ある記事には「イエズス会士」「教会博士」「枢機卿にして稀代の論客」「ガリレオ裁判の担当判事」などとある。また、ファチマ・クルセイダーのクリストファー・A. フェララ氏も「聖ロベルト・ベラルミン」の言葉を引いているが、聖レオナルドが言っているのはこの人のことか。
http://www.d-b.ne.jp/mikami/fc8008.htm
Suarez(スアレス): この名前で聖ピオ十世会は一人の「著名な神学者(1617年没)」をあげているが、その人のことか。
http://blog.goo.ne.jp/thomasonoda/e/fd765c886012be88a582aae25596e3f6
また、ファチマ・クルセイダーのニコラウス・グルーナー神父の文章で次のようなものがある。
同様に、16世紀の優れた神学者であるフランシスコ・スアレス(教皇パウロ五世は彼をDoctor Eximius et Piusすなわち、「例外的で敬虔な博士」として称賛した)は次のように教えた:
「そしてこの第二の仕方で教皇は、もし彼が教会の全体との正常な一致の状態にあることを望まなかったならば--それは彼が教会全体を破門しようとする場合に起こるであろうように、あるいは、カエタヌスやトルケメダが述べているように、教皇が使徒的伝統に基づいた教会の典礼を越えようと望んだならば起こるであろうように--教会分離主義者であり得るであろう...もし[教皇が]正しい慣習(道徳)に反する命令を与えるならば、彼に従うべきではない。もし彼が正義や共通善に明らかに反する何かをなそうとするならば、彼に抵抗することは合法的であろう。もし彼が力によって攻撃するならば、正当防衛に適切な節度をもって力によって彼を退けることができる。」
クセルクセス王 : アケメネス朝ペルシアの王(在位:紀元前486-465年)
「100年の人生を生きる者は1人もないだろうことを思って涙を抑えることができなかった」って? でも、私達の平均寿命は現代日本では男女とも80歳代であるので、それがそんなに涙を流すほど悲しいこととは思えない。訳が間違っているのか? King Xerxes, standing on a hill looking at his army of one hundred thousand soldiers in battle array, and considering that out of all of them there would be not one man alive in a hundred years, was unable to hold back his tears.
それとも、このクセルクセス王という人の時代には平均寿命はもっと長かったのか?
聖ドミニコの尊者マルセルス(Ven. Marcellus of St. Dominic): つまり「聖ドミニコ」は修道名だと思われます。
だから、管理人は思います、私達が何年も、十何年も、あるいは何十年も、毎主日ごとにきちんとミサに出席し、そして御聖体拝領をしても、「清くもならず、徳に進むこともない」ということも大いにあり得る、と。
最近の教会の風潮で気になるのは、まず、もちろん、人々が聖体拝領の時に「立って、手で」それを受けることです。
私は恐れなく言います、「それはそれ自体汚聖かも知れない」と。「これに関しては教会の認可と指導が大いに間違っているかも知れない」と。そして、万が一そうでなかったとしても、それ自体として軽い姿勢・動作に知らず知らず導かれて、主の至聖なる秘蹟に対して私達がその心においてまで軽くなっている可能性が十分にある、と。あるいは、今の教会において私達は、そもそも敬虔なる姿勢・動作によって導かれる経験がほとんどないので──今や多くの教会では聖変化の時にさえ跪くことをしないので、それ故信徒は「跪く」という姿勢・動作を取る習慣と経験が、実際、ほとんどないと言えます──私達は「敬虔とは何か」を感受するための貴重なる機会を始めから失している可能性がある、と。(体の姿勢・動作として一度も「頭を下げる」ことを言いつけられることのなかった子供は、おそらく「礼儀とは何か」を感受するための貴重なる機会を失していると言えるでしょう。)
そして聖レオナルドは、彼が悔悛の秘蹟に関して述べたところで、もし私達が故意でなくても、無知によって、あるいは気づきや洞察や学習の不足によってであっても、不適切な姿勢で秘蹟に与った時、それは「濫用」であると言っています。(もちろん故意の悪意による不適切さよりも罪は重くないだろうけれども。)そして、ある一人の兄弟の言葉を紹介しています──「もし地獄に行くことになっている人がたった一人だったとしても、自分がその一人にならないことを確かなものにするために出来得る限りのあらゆることをするつもりである」。そして、私達は天主に対して常に「最上」のものを捧げなければならず、もし「良さ」において二つの段階のものがある時、必ず「より良いもの」の方を選ばなければならない、というのは真です。であるならば、私達は何故、私達の前に「立つこと」と「跪くこと」、「手で受けること」と「手で受けないこと(舌で受けること)」がある時、迷わず後者を選ばないのでしょうか? それは inconceivableな(全くもって考えられない、想像も及ばない、信じられない、あり得ない)ことです。こんなことを言う人もいます──「もしそれらの実践が間違っていたとしても、あるいは “より良く” なかったとしても、それを実践した信徒には責任はありません。故に罪もありません。何故なら、それらの実践を、事実、教会の教導職が認めているからです。だから、もし仮にこのことで神によって責任を問われる人があったとしても、それはあくまで教導職の彼らです。信徒はそれ以上のことを考える必要はありません」。しかしそれは本当でしょうか? 私は思います、少なくとも「より良い」と思われるものを選べる時にそうしなかったなら、それは信徒自身の責任かも知れません。神にその責任を問われるかも知れません。私はそのようなことを言う人のことを、聖レオナルドと共に「自身の救いに大して用心しない人」と言いたい気がします。
ここから聖レオナルドはあたかも目の前に霊魂達の訪問を受けているかのように話し始めます。これは、何なんだろう?
霊動弁別の規則・第一規則「大罪に大罪を重ねる人に対して、敵である悪魔は悪徳と罪のうちにその人をつなぎとめ、益々深く引き入れようとして、官能的な喜びと楽しみとを想像させ、彼らの目の前に表面的な快楽を示すのが常である。このような人に対して、善い霊は理性の判断力をもって、良心を刺し、呵責を起こさせ、悪霊とは反対の方法をとるのである。」(聖イグナチオ・デ・ロヨラ著『霊操』エンデルレ書店)
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