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ミサ・ポリス

2005年8月15日
Thomas Rutkoski
バチカンが『あがないの秘跡』と題された文書を公布したのは昨年の夏のことでした。この文書の目的は、カトリック教会の至る所で荒れ狂いながら広がり続ける冒涜と典礼上の濫用を止めることでした。それらの絶え間ない濫用に不満を表明してきたのは、司祭でも、司教でも、また枢機卿でもなく、一般信徒達でした。遂に教会当局を動かし、それをして極めて必要とされた修正によって応えさせたのは、バチカンをいっぱいにした一般信徒達からの何万もの苦情でした。
司教達がバチカンによって採用された新しい戦略、即ちこの文書を司教達に向けて発行してその普及と実施を期待するというよりも、これを公衆に向けて発表するという戦略によってどれほど動揺したかについての報告が、インターネットを満たしました。過去においてはシナリオは非常にしばしば失敗しました。今日では、バチカンが救済の船をまっすぐに保とうとするのと同じくらい激しく、信仰を難破させる結果を引き起こす彼ら自身のアイディアを要求し実行しようとする人達がいるようです。バチカンはそれ自身、修正措置が取られるようにと命じられたあまりに多くの場合に、それらの修正が決して日の目を見なかったことを今まで見てきました。
多くの教皇達が存在する歴史の中で、私達は今、一つの特別の地点にいます。今迄、幾らかの司教達は「教皇はローマの司教であるだけである」と言ってきました。それは、彼らにとって「教皇は彼らの司教区の司教ではない 」ということを意味します。要するに、彼らは教皇に、彼らの仕事に口を出すなと警告しているわけです。それで、彼らは教皇に、彼ら自身のために当然と思われる権利を要求します。
『あがないの秘跡』が公布された時、この52ページの文書に対して、幾らかの司教達による本気でない試みがありました。また幾らかの司教達はこの文書を完全に無視しました。また、この文書を一ページごとに説明するために、全ての司祭と臨時聖体奉仕者と関係者達を召集して司教区会議を持ったもう少し敏感な司教区もありました。私は、私達の司教区がそれをしたので感銘を受けました。しかしとても残念なことに、それへの出席者数が極めて少なかったことを私は見ました。私は出席しなかった幾人かの司祭達を個人的に知っていました。後に私は、その司教区会議の後にそれに出席しなかった彼らにその会議の情報を提供したのが私一人であったことを知ってショックを受けました。そしてもちろん、一人の一般信徒から何かを受け取ることは、全くもって実行への奨励にはなりません。
司教区会議の中で、私はただ一人の利害の関わる側の人間でした。しかし私は注意して聞きました。司教区のための信仰の責任者による一つの要求は、教会に通う全ての人達への要求です。この要求は、私達一般信徒は私達自身のことを司教区に入り込みこれらの決して新しいものではないガイドラインに対する厳守を要求する「ミサ・ポリス」とみなすべきではない、ということでした。私は、司教区に反抗することを望まず、「ミサ・ポリスマン」であることを避けようとして、何度となく舌を押さえました。私は私の司祭がその会合に出席していなかったのを知って、司祭室のドアノブの下にその文書のコピーを滑り込ませました。私は、以前この小教区に極端な典礼上の濫用があったので、ドアノブの下に文書を滑り込ませることを選びました。新しい現在の司祭はそれらの多くの問題を解決しましたが、しかし彼は、小教区を『あがないの秘跡』のガイドラインの下に置かないことを選びました。
今日まで、聖体授与の臨時(extraordinary)奉仕者は(それはどこでもほとんど「臨時」ではありませんが)、御聖体が奉挙され、司祭が「キリストによって、キリストとともに、キリストのうちに」と言い、全ての人がイエズス・キリストを礼拝するために跪いていなければならないミサの時に、彼の任務を果たすために立って歩き回っています。新しい文書は、聖体授与の臨時奉仕者は司祭が聖体を拝領するまでは祭壇にあがらないことになっていると言っています。[1]
バチカンが一般信徒の奉仕者が司祭が聖体を拝領する前は祭壇にあがらないことになっていると強調する一つの理由は、濫用がとても酷くなっており、自分自身がご聖体を拝領する前に 臨時奉仕者に聖体を与えてしまう司祭が、今までいたし、今もまだいるということです。これは臨時奉仕者達に、司祭が「キリストによって、キリストとともに、キリストのうちに... 」と宣言する時、彼らが司祭と一緒に(あたかも彼ら自身が司祭であるかのように)彼らのホスティアを上に掲げることを許します。両方のシナリオ──ミサのこのような重大な瞬間に人々が祭壇に向かって立って歩くこと、また、聖体授与の臨時奉仕者が司祭と一緒になってホスティアを上に掲げること──は冒涜的なことです。ミサで犯されるこのような冒涜を償うために初土曜日の犠牲を行なっている敬虔な信者達が世界中にいます。
根本の問題は二つの要素から成っています。一つは、聖体授与の臨時奉仕者達の、彼ら自身の任務が含むものに対する、彼らが従うことになっているルールに対する、そして彼らが導くことになっている敬虔な人達に対する、法外な無知です。二つ目は、聖職者達の心に起こった法外な量の、不従順、プライド、そして傲慢です。聖職者達についてのこの言葉は私のものではありません。『あがないの秘跡』の中で言われたものです。
私達は確かに、教会に関する無知が最高記録に達し、そしてそのため私達が私達の神と救世主に対して冒涜的なまでに振る舞う時代に生きています。聖書は、私達が羊の衣を着た狼達──群れを貪る貪欲な狼達──によって教えられる日が来るであろうことを私達に警告しています。そして私は、私達が今この聖書の言葉の成就の中にいると信じています。
私は聖体授与の臨時奉仕者達に、この「臨時(extraordinary)」という言葉が何を意味しているかをまず最初に学ぶべきであると言いたいと思います。そして私は、彼らが彼ら自身のことを「聖体奉仕者(Eucharistic minister)」であると考えることを止めるべきであることを、そしてバチカンによって指示された語を使うべきであると言いたいと思います。更に私は、もし司祭が彼らに神を侮辱するか冒涜することを命じるならば、その時は聖体授与の臨時奉仕者であることをやめるべきであると言いたいと思います。あなたが神を冒涜している間中、自分が神への奉仕を働いているのだと信じているのだとすれば、それは恥かしいことです。
私達がミサ・ポリスにはなるべきではないという司教区の示唆に関しては、私の最近のブラジルへの旅行が、私達が何かをどれほど必要としているかを正に示しました。そこで私が目撃したのは、聖体授与の臨時奉仕者が上述した聖体奉挙の真似事をしたことだけでなく、セルフ・インティンクションをしたことでした。そして、私が自分はご聖体に対する濫用の全てを見たと思った正にその時、一組の司祭達が、実際、ホスティアを聖なる御血の中に浸し、それを「手の中に与える両形態」での聖体の授与を始めました! もっと他にも例があります。しかし、少しも良くなりません。
不満をバチカンに送ることによってこの文書(あがないの秘跡)を引き出すことを助けたのは、何万人かの敬虔なカトリック信者達でした。そして、この文書を実際に実行して欲しいと言って不満をもらすのは、何千万人かのカトリック信者達かも知れません。
極端なくらいの楽天的な態度のための時は終わっています。今や立ち上がって信仰を護るべき時です。私達は真理から遥かに遠く外れています。私達は、教皇ベネディクト16世が本物の伝統に戻るのは不可能だったろうと言い、また絶望を正当化させただろうとてつもない離教に言及しているように、私達の伝統から遥かに遠く逸れてしまっています。一なる、聖なる、普遍の、そして使徒継承の教会にとって悲しむべき時代です。
この混乱の多くは、カトリック教会は個人的な意見が重要とされる一種の民主主義的なものであるという間違った印象によって引き起こされ、また、「ピエタ」の祈りの本で普及された「カトリック信者は司祭の誤りを決して指摘してはならない」[2] と教える間違った教育によって引き起こされています。カトリック教徒は、実際、教皇その人の間違いをも──もし彼が誤りに陥っているなら──指摘する責任を負っており、それ故どのような形においてか、私達は皆ミサ・ポリスであり得ると考えられます。しかし私達は、ミサを監視する前に私達自身の生き方を監視しなければなりません。そうすれば、それによってもたらされた神聖さが、実際、ミサ・ポリスを不必要なものにするでしょう。福音の聖句が言うように、兄弟の目にあるおかくずを取ってやろうとする前に、あなた自身の目にある丸太を取り除くことを忘れないようにしましょう。
管理人注
「新しい文書は、聖体授与の臨時奉仕者は司祭が聖体を拝領するまでは祭壇にあがらないことになっていると言っています(The new document says that no extraordinary ministers of Holy Communion are to be on the altar until after the priest receives Communion.)」
訳が間違っているのでしょうか? 私は『あがないの秘跡』の中にこのような内容を確認することができません。
しかし「ローマ・ミサ典礼書の総則(GIRM)」には次のような記述があります。
162. […] これらの奉仕者は、司祭が拝領する前に祭壇に近づくことはできない。そして、信者に配るために両方の形態の聖体を入れた祭器を司式司祭の手から渡される。
第三版暫定版より
ここで筆者が言及している「ピエタ」の祈りの本のその箇所とは、『司祭に対する非難について ─ われらの主からムッター・フォーゲルへの啓示 ─ 』のことだと思います。
そこにはこんな言葉があります。
誰でも、司祭への非難を述べる者はそれを私に向かって述べたことになるのである。子よ、決して司祭が攻撃されることを許すな。彼を擁護せよ。
もし司祭がふさわしくない状態で聖なるミサを捧げているのを見たら、彼について何も言わず、ただ私にだけそれを告げよ! 私は祭壇上で彼のかたわらに立っている!
私は、これらの言葉は本当にイエズス様の御言葉である可能性があると思います。でも、少し疑問でもあります。
「司祭がふさわしくない状態で聖なるミサを捧げている」のを見ても何も言うなとは。ここで言う「ふさわしくない状態」の「状態」とはどういうものを指しているのか。もし客観的に確かに「不敬」と言えることをしていたら?
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