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司教「跪く信者の誰も聖体拝領を拒否されるべきではない」

Les Femmes, The Women of Truth
『THE TRUTH』2002年秋/2003年冬号
ポスト・オフィスから
管理人
以下は、2002年夏号で言及されていた司教様の投稿です。
私は、全体としては、この司教様に反対です。全く反対。勿論です。
しかしながら、この司教様は、ご自分の管轄下の司祭達にはっきりと「跪く信者の誰も聖体拝領を拒否されるべきではない」と言ったそうです。そこを、私は少し見ます。
親愛なる読者の皆さん。
「立って御聖体を受ける時、拝領者は敬意を表わすために秘跡の前に頭を下げてから、司祭から主の御体を受けます。神聖なホスチアは拝領者各自の選択により、舌の上に、あるいは手の上に置かれます。両形態における聖体拝領の場合には、聖なる御血を受ける前にも敬意を表わさなければなりません。」
アメリカ合衆国の司教区において、聖体拝領の際の規準は立つことです。このテキストが、第43項における「聖体拝領後の聖なる沈黙の時には信者は座るか跪くかすることができる」のようにはオプションを与えていないことに注意して下さい。たとえサンクトゥスを歌うか唱えるかした後から奉献の最後のアーメンまで信者が跪くことになっている場合でも、アメリカ合衆国の司教区では、聖体拝領の際には信者は立つことになっていることは明確です。(参照:ローマ・ミサ典礼書総則第43項)
拝領者が聖体拝領の時に跪いた時にはどうなるでしょう? 再び指示は明確です、「信者が跪いたからといって聖体拝領を拒否されるべきではありません。むしろこのような場合は、この規準の理由についての適切な説明をもって、信者は司牧的な指導を与えられなければなりません」。この理由の一つには、ミサ聖祭においては参加者達の姿勢が一致しているべきであるという教会の望みがあります。「すべての参加者が共通の姿勢を守ることは、典礼のために集まったキリスト者共同体の成員の一致のしるしである。」(ローマ・ミサ典礼書総則第42項)
私がアーリントンに来て以来、私は幾度となく、跪く信者の誰も聖体拝領を拒否されるべきではないと、司祭達に指示してきました。主イエズスとの親密な交わりの聖なる瞬間を、闘いと分裂の瞬間にすべきではないからです。ですから信者は誰も、跪くからといって聖体拝領を拒否されることはないでしょう。しかしながら跪く人は、聖座によってアメリカの司教区に認められたこの明確な指導を無視する理由について、各自調べなければなりません。聖なる典礼は教会──キリストにより、キリストの御体と結ばれた教会──の共同体的な礼拝です。個人的な傾向や任意の選択は、典礼の総則によって決められたことに場を譲らなければなりません(ローマ・ミサ典礼書総則第42項)。従順は、しばしば本質的に犠牲の精神に結ばれています。立つことが決められている時に跪きたいという自分の個人的な好みを犠牲にすることは、私の考えでは、従順の真の行為であり、また聖なる御方に対する──私達が毎回のミサで思い起こす正に彼の御死去と、そして御復活に対する──敬意と尊敬のより偉大な表明なのです。更に、私達は頭を下げるという動作によって、また聖体拝領には跪いていたという事実によって、崇拝と敬意の動作を表わしています。(参照;アメリカ合衆国の司教区のための更なる適応に関する、ローマ・典礼書総則第43項)
跪くことと立つことは共に敬意と尊敬のサインですが、アメリカ合衆国の司教区においては、聖体拝領の方法は立つことです。したがって、跪くからといって誰も聖体拝領を拒否されることはないとしても、私は、この司教区の信徒の皆さんが、聖体拝領の方法に関する規定を含んだ典礼書総則の指示に従って下さることを期待します。
説明を求めるあなたのご要望に対する返答は、詳述されなければ問う者にとっても答える者にとっても適当でないので、必然的に長くなりました。
キリストにおいて。
Paul S. Loverde
バージニア州、アーリントンの司教
管理人
「拝領前には跪いていた」という言い方には、私はヘナヘナとなります。
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