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司教オムステッドは奉献における跪きの必要性を訴える

2005年3月4日
Catholic News Agency
フェニックス、2005年3月4日(CNA)─ トーマス・J・オムステッド司教は、ミサで跪くことは礼拝において中心的な役割を持つものであり、それはカトリックの小教区で励まされなければならない、と語った。Catholic Sun 誌における彼の最近のコラムにおいて、フェニックスの司教は、アリゾナ州の多くの小教区や他の地区で失われている習慣であるミサの奉献における跪きを支持する力強い根拠を示した。「跪きの習慣は、礼拝において私達が天主により集中して心を向けるために、天主の御意志に自己を明け渡すために、私達の霊魂と心の声を天主に高く上げるために、私達の人間全体を助けるものです」とオムステッド司教は語った。
人間の身体というものは「聖なる典礼への、完全な、意識的な、そして活発な参加のために」不可欠な役割を持つものだ、と彼は言う。
彼は『ローマ・ミサ典礼書の一般総則』を引用する。礼拝者は「健康上の理由、スペースが足りない時、あまりに信徒数が多い時、あるいは他の然るべき理由がない限り、サンクトゥス(感謝の賛歌)を歌うか唱えるかしてから奉献文の結びのアーメンまで、跪いていなければならない。司祭が奉献の後で片膝をつく時、跪かない人々は深く一礼すべきである。アニュス・デイ(神の小羊の祈り)の後は、教区司教が別のやり方を定めていない限り、信徒は跪くものとする」。
彼は、跪きがどのように聖書時代に実践された崇拝と謙遜のしるしであったか、また聖書はどのように主イエズスと使徒達が祈るために跪いた事実を示しているかを指摘する。
「天主の御前に跪くことは[聖書時代において]礼拝の深い行為でした。それははっきりと、しかし単純に、天主はあらゆる力の源であること、また、跪く人は自分の生命と全エネルギーを天主に仕えるために捧げる用意のあることを語るものでした。」
彼はまた聖パウロのフィリピ人への手紙を「跪きのための最も力強い神学的基礎」として引用する。「イエズスの御名の前に、天にあるものも、地にあるものも、地の下にあるものも、みな膝を屈めなければならない。」(フィリピ 2:6-11)
「跪きは過度に敬虔な人達の動作などではありません」と彼は書く。「それは信仰の基礎的な行為であり、人間の人生の中心には誰が立っているか、また、全ての創造の中心には誰が立っているかについての力強い表明です。」
彼は続ける。「膝を主イエズスの御名の前に屈めることは、闘士的な霊魂と謙遜な心とを持った人達が取る決定的な行為です。謙遜と崇拝において跪きには受動的なものは何もありません。」「膝がキリストを愛する心と呼応して働く時、地表を変えることができるほどの力強い力が放たれます。『恩寵』とは私達がこの力に与える名称です。」
彼は加えて言う。およそ1700年前に生きた砂漠の師父である修道院長アポロによれば、「悪魔は膝を持っておらず、それ故跪くことができず、崇めることができず、祈ることができません。彼ができるのは、侮蔑しながら自分の鼻のあたりに視線を落とすことだけです」。
「イエズスの御名の前に膝を屈める気がないというのは悪の本質を表わしています」と彼はイザヤ書とローマ人への手紙を引用しながら言う。「しかしイエズスの御名の前に跪く時、誰かに仕えて身を屈める時、また礼拝の時に膝を屈める時、私達は聖人達の先例に倣うのです。」
訳出 2008/01/25
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