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マルコム・ランジス大司教「決めるのは教皇様です」

インサイド・ザ・バチカン 2007年2月号
典礼ニュース
教会の典礼に関心を持つすべての人は、教皇様が間もなく「古いミサ」を許可するモツ・プロプリオ(自発教令)を公布なさるであろうかと、また(もし教皇様がそうなされば)それはどのような性質のものであろうかと、思いを巡らせている。バチカンの典礼学者の一人が教皇様のプランに光を当てる。
アンソニー・ヴェイル: 大司教様、あなたは典礼秘跡省の局長となられてから、典礼問題に関して今まで数度のインタビューを国際的なプレスに与えることにおいて寛大であられました。しかしあなたの言葉のいくつかは誤解され、意図された明快さを提供するよりもむしろ論争を呼び起こしました。ここで何かを明らかにして下さいますか?
マルコム・ランジス大司教(Archbishop Malcolm Ranjith): 私がそれらのインタビューで言いたかったのは、第二バチカン公会議後の典礼改革は今日私達がそれを見て心から喜ぶ筈であったところの教会における霊的及び宣教的刷新の期待されたゴールを達成できなかったということです。
疑いもなく、そこには肯定すべき実りもありました。しかし否定的な影響の方が大きかったようであり、私達の階級における多くの方向感覚の喪失を惹き起こしました。
教会は空になり、典礼の自由奔放さは今日の規則になり、そしてミサを捧げることの真の意味と重大性は暗まされました。
そこで、人は、改革のプロセスは実際のところ正しく導かれていたのだろうか? と考え始めなければなりません。それで、私達は何が起こったのかをよく見、祈り、その原因について熟考し、神の助けによって、必要な修正を行なうために前進する必要があります。
アンソニー・ヴェイル: ベネディクト16世教皇様は伝統的ミサあるいはトリエント・ミサの使用を自由化するモツ・プロプリオを公布するかのように見えます。ある人々は、教皇様のモツ・プロプリオが、司祭達が伝統的なミサを立てることを可能とする法的組織を設立することを──不当に攻撃されることも執拗に妨害されることもなしに、しかも皮肉にも、他宗教の人々によってでも世俗の権力によってでもなく彼ら自身の同僚や司教達によってそのようにされることなしにそれを可能とする法的組織を設立することを──望んでいます。このような新しい法的仕組みに対する期待は現実的でしょうか? そのような仕組みは必要でしょうか?
ランジス: そうです、トリエント・ミサの復活を求める声があがっています。エリート階級の指導的立場にある人達でさえ、最近幾つかの新聞紙上でこのミサを求める公然のアピールをしました。
教皇様は──私は確信しますが──このことをお心に留めるでしょうし、教会にとって何が最善かをお決めになるでしょう。
あなたは教皇様のそのような決定を実施する新しい法的組織の可能性について触れました。しかし私はこのことがそれほど大きなことだとは思いません。むしろこの全てにおいてより大切なのは司牧における姿勢です。
司教達また司祭達はトリエント・ミサに対する求めを拒絶するでしょうか? 彼らはそうすることによって、教皇様の決定が実施されることを確実にするための法的組織の必要性を作り出すでしょうか? そんなことになる筈でしょうか?
私は、心から、そのようなことを望みません。
司牧者達が自らに問うべき適切な質問は、「私は如何にして、司教としてまた司祭として、ただ一人の人であろうともキリストに近づけ得、またキリストの教会に近づけ得るか」です。
トリエント・ミサであるかノヴス・オルド・ミサであるかは、それほど大きな問題ではありません。大事なのはただ司牧上の責任と敏感さです。
従って、もしトリエント・ミサが信者達にとって霊的豊かさのより良いレベルを達成する道であるなら、司牧者達はそれを許すべきです。
重要な点は、「何が」ということよりもむしろ「如何にして」ということです。教会は常に、信者達が神にもっと近づき、主のメッセージに聞くことによって変えられたと感じ、そして主の呼びかけに寛大に応えることができるように、彼らを助けようと努めるべきです。そしてもし、このことがノヴス・オルド・ミサを通して、あるいはピオ五世のミサを通して達成できるのであれば、その時スペースはその最も良いものに提供されるべきであって、必要もない、不和を産み出す、重箱の隅をつつくような神学論争に提供されるべきではありません。このようなことはハートを通して決められるべきであって、それほど頭を通して決められるべきことではありません。
結局、ヨハネ・パウロ2世教皇様は1988年の Ecclesia Dei Adflicta において司教達に向けて自発的なアピールをし、彼らにトリエント・ミサを祝ったりそれに参加したりすることを望む人々のこの問題に対して寛大であるようにと求めました。更に、私達はトリエント・ミサがルフェーブル大司教の追随者達にだけ属しているものではないということを覚えておかなければなりません。それはカトリック教会のメンバーとしての私達自身の財産の一部です。
第二バチカン公会議は、ベネディクト16世教皇様が2005年12月にバチカン組織のメンバー達に向けて極めて明確に語られたように、全面的に新しい始まりを意図したものではなく、刷新された熱意と時代に応じた宣教上の必要により良く応えるための新しい外見を伴った一つの連続性を意図したのです。
更にまた私達は、西欧世界における幾つかの教会における信者数の減少という深刻な問題を持っています。私達は、これらの教会で何が起こったのかについて自問しなければなりませんし、これを修正するために必要とされる方策を探さねばなりません。私はこの状況は単に世俗化に帰せられるだけのものであるとは思いません。無意味な典礼の実験と新奇さに対する衝動と結びついた信仰の深い危機が、この問題においてそれ自身としての影響力を持っていました。しかしそこには時折多くの形骸化と陳腐化が見られます。
従って、私達は礼拝における神聖さと神秘に対する真のセンスを取り戻さなければなりません。
そして、もし信徒達が、トリエント・ミサが他の何よりも彼らにその神聖さと神秘の感覚を提供すると感じるのであれば、その時私達は彼らのこの要求を受け入れる勇気を持たなければなりません。
モツ・プロプリオがいつ公布されるのか、またそれがどんな性質ものになるのかについては、まだ何も知らされていません。それを決めるのは教皇様です。
そして彼がそうする時、私達は全くの従順さをもって彼が私達に示したことを受け入れなければなりませんし、また教会に対する真実の愛をもって、彼を助けることに骨折らねばなりません。どのような抵抗的態度も、教会の霊的使命を害し、天主御自身の御意志を妨げるだけでしょう。
古いミサを捧げる典礼秘跡省局長ランジス大司教 聖体奉挙の瞬間
アンソニー・ヴェイル: 多くのカトリック信者と同様、私の妻と私は、自分達が霊的に活気付けられるよりも苛立ち、また当惑して、日曜日のノヴス・オルド・ミサから離れたことを見出します。何故でしょうか?
ランジス: ノヴス・オルドの祭儀において、私達は、私達が祭壇の上で何を行なっているかについて非常に真剣でなければなりません。私は眠りの中で翌日のミサで自分が何を行なうか──祭壇に歩いて行き、あらゆる種類の自作された典礼の規則と動作でもってミサを始める──ことを夢見るような司祭であることはできません。
ミサ聖祭は教会に属しています。それ故、それは一人の司式者の個人的特質に委ねられることのできないそれ自身の意味を持っています。
教会の典礼の中のすべての要素が、それ自身の発展と意味の長い歴史を持っています。それは確かに個人的な「諸伝統」の問題などではなく、それ故、誰もかれもによる操作の対象ではあり得ません。
事実、典礼憲章は、使徒座及び合法的にこれを認められた司教団以外は、「全く何人も、たとえ司祭であれ、いかなるものをもそれ自身の権威によって付け加え、除去し、変更してはならない」(第22項)と言っています。それでもなお、私達は今日、教会の幾つかのエリアにおける、基本的に典礼神学の不正確な理解によってもたらされているところの、典礼の事柄における多くの自由奔放さに気付きます。
たとえば、ミサ聖祭の神秘がしばしば誤解され、また部分的にしか理解されないために、あらゆる種類の典礼の濫用に対してドアが開放されています。
ミサ聖祭において、いくつかの場所ではあまりにも司祭の主役的な役割が強調されています。しかし私達は、司祭は祭壇上で起っていることのメインの行為者ではないことを知っています。
メインの行為者はイエズス様御自身です。
更に、あらゆる典礼祭儀は、「私達がそれに向って巡礼者として旅する聖なる都エルサレムで祝われる」(第8項)という天上的な次元をも持っています。
他の人達はミサ聖祭を「交わり」ということと結びつけつつ、宴会/食事という次元にアクセントを置きながら説明します。これもまた重要な考え方です。しかし私達は、ミサ聖祭というものはそれに参加する人々によって作られる交わりであるというよりも、天主御自身によって作られる交わりであるということを覚えておかなければなりません。
ミサ聖祭を通して、主は私達を、主御自身に似たものとして装わせて下さいます。そして主の中で、私達は、各々自身を主と一致させた他の人々と交わります。それ故、これは社会的な経験というより神秘的な経験なのです。従って、「交わり」としてでさえ、ミサ聖祭は天上的な経験なのです。
更に重要なことは、ミサ聖祭の犠牲的次元です。ミサ聖祭を捧げる度に、私達は自分達の救いの瞬間としてそれを祝いつつ、カルワリオの犠牲を再び生きるのです。
そして正にこのことが、司祭のユニークな尊厳性とアイデンティティの源を構成するのでもあります。彼は、この朽ち易いパンの一片を正に栄光化されたキリストの御体に変え、この少量のワインをキリストの御血に変え、世界の救いのためにカルワリオの犠牲を行なうという素晴しい神秘を執行するために、キリストによって立てられたのです。そしてこのことは、彼がミサを祝う度に、彼によって生きられ、理解され、そして信じられなければなりません。
全く、典礼憲章は、ミサの犠牲的なものとしての、また救済的なものとしての有効性を強調しています。司祭はそれ故、いわばもう一人のキリストになります。何と偉大な使命でしょうか! そして、そのように、もし私達がミサ聖祭を信心深く捧げるなら、その時信徒は計り知れない霊的利益を得、そして繰り返し繰り返しその天国的な滋養を求めに返って来るでしょう。
アンソニー・ヴェイル: ある人々はこう主張しています。他の人々は私達が本当に必要とする全ては「リフォームのリフォーム」である、言い換えればノヴス・オルドをリフォームすることであると言っているけれども、今日カトリック教会を苦しめている典礼の危機──それは根本的には信仰の危機ですが──に対する解決法は、トリエント・ミサの排他的な使用を実施することでなければならない、と。あなたはどう思われますか?
ランジス: 愛と司牧の心がモチベーションの要素でなければならない時に、「二者択一」の姿勢は教会を不必要に分極化します。
もし、教皇様がそう望めば、その両方が共存し得るでしょう。
これは私達がノヴス・オルドを諦めなければならないということを意味しません。しかし、二つのローマの伝統の間の相互作用において、結局は一方のものが他方のものに影響を与えるということはあり得ることです。
私達は、すべてが完成されている、終っている、新しいことは何も起こり得ない、と言うことはできません。しかし実のところ、第二バチカンは決して性急な典礼の変化を主張しませんでした。むしろそれは、「既に存在している形態から有機的に成長する」(第23項)変化を好みました。しかし公会議後の典礼改革を引き受けたコンシリウム(典礼改革のための専門委員会)の極めて尊敬すべきメンバーであったアントネッリ枢機卿様がその日記の中で書いているように、公会議後の幾つかの典礼の変化は、大した熟考もなしに、でたらめに導入され、後になって許可された実践とされたものでした。
たとえば手による聖体拝領は、聖座によって許可される前にまず適切に研究され熟考された何かではありませんでした。それは幾つかの北ヨーロッパの国々においてでたらめに導入され、後に許可された実践となり、遂には多くの他の場所に広がったものです。それは避けられなければならなかった状況です。第二バチカン公会議は決して典礼改革へのこのようなアプローチを擁護しませんでした。
アンソニー・ヴェイル: Lex orandi, lex credendi, lex vivendi(祈りの法(が)、信仰の法(であり)、生き方の法(である))。私達が如何に礼拝し祈るかが、私達が何を信ずるかに影響を与え、また私達が何を信ずるかが、私達が如何に生きるかに影響を与える、ということは真実でしょうか? 別の言い方をすれば、典礼は最終的に私達の人生の道徳に影響するということです。そうではないでしょうか?
ランジス: そうです。もし信徒達がまず始めに神の恵みに深く触れ、心を動かされることがないのなら、私達はどのようにして彼らを倫理上の、また道徳上の選択において、犠牲をするようにと納得させることができるでしょうか? そのようなことは特に礼拝で、人間の霊魂が神の救いの恵みを最も親しく経験するようにされた時に、起こるのです。礼拝において、信仰は内面化され、インスピレーションと力強さに満たされ、人をしてその信仰と調和した道徳的な選択肢を取ることを可能にします。典礼においては、私達は自分達がやがて熱心に信じ始めるように、また正しく行動するよう導かれるように、私達のハートに神の近しさを経験しなければなりません。
アンソニー・ヴェイル: 修正が必要とされる現在の典礼の流行あるいは問題を、幾つかあげて頂けますか?
ランジス: その一つは、幾つかの国々での、日曜のミサを置き換えてエキュメニカル典礼へと向かおうとする流行です。そこではカトリックの平信徒のリーダー達とプロテスタントの牧師達が共にミサを祝い、後者は説教をするように招かれます。聖体拝領を伴う日曜のみことばの祭儀は──それは司祭が不在の場所で、場合によって許可されるものですが──もしそれがエキュメニカルな行事へと変化した場合、信者に対して間違ったシグナルを与えるものとなります。彼らはミサ聖祭なしの日曜日というアイディアに慣れてしまうかも知れません。
ミサ聖祭は、あなたもご存知のように教会を作るものであり(Ed E. 21)、私達カトリック信者にとって中心的なものです。もしそれがあまりに簡単にみことばの祭儀に取って代わられれば、あるいはもっと悪くしていわゆるエキュメニカル礼拝式に取って代わられれば、カトリック教会のアイデンティティそのものが危うくなるでしょう。不幸なことに、私達はミサ聖祭そのものがプロテスタントの牧師と共に様々な外観のもとに祝われているということも聞いています。これは全く受け入れられないものであり、グラヴィオラ・デリクタ(より重大な罪)(RM 172)を構成するものです。
エキュメニズムは個人的な司祭のその場限りの選択に任されている何かではありません。真のエキュメニズム、第二バチカンによって支持されるそれは、教会の心から来ます。たとえば、真のエキュメニズムへの道は、キリスト教一致のための評議会や教皇様御自身のような、この種の熟考に従事するに申し分のないと見なされている種類の人々の真剣な熟考と共に始まりました。一致へのこのデリケートな探求がどのように理解されるべきかについて、全ての人達が有能なわけではありません。それは多くの熟考と祈りを必要とします。それ故、エキュメニズムの名の下における典礼の目新しさは、個人的に実験されるべきではありません。
第二の不穏な流行は、司祭によって挙行されるミサを、平信徒によって指揮される疑似典礼的な礼拝式に漸次的に取って換えることです。これは勿論、司祭が不在で日曜の義務を果すことが難しい場合には合法的に認められていることです。しかしながら、これは例外的なことであって、標準的なものではありません。危険なのは、司祭が居る時にでさえ司祭を脇に追いやり、幾人かの平信徒のリーダーのチームが本来司祭に任されている仕事を勝手にわがものとすることです。私はこれによって、平信徒のリーダーが司祭が居るにもかかわらず司祭に代わって説教したり、あるいは司祭を祭壇近くにただ坐らせたまま自分が聖体を配布したりすることを意味しています。
私達がここで強調しなければならないのは、第二バチカン公会議が言及しているように、信徒の共通司祭職と職位的司祭職とは「ただ程度において違うばかりでなく、本質からして異なる」(教会憲章 第10項)ということです。ですから、司祭に任せられた聖なる義務を平信徒に委譲することは大変な濫用です。
不幸なことは、司祭を還俗させ、平信徒を聖職につけるという、世界中で増大しつつある傾向です。これもまた、公会議の contra mentem(「心に反して」あるいは「意図に反して」)です。
そこにはまた、日曜のミサを土曜に移すことをほとんど「通常の」習慣とする流行があります。日曜を真の主の日とするよりも、心と体の休息の日とするよりも、その重要性を減らし、世俗的な気晴らしの日となす動きがあります。Dies Domini(主の日)において、教皇ヨハネ・パウロ2世はこの妨害的な流行に対して警鐘を鳴らしました。
私がここで指摘したい最後のポイントは、宣教地において導入された幾つかの実践について、たとえばアジアで、改革という名前で呼ばれている、その国の伝統には合致していない実践についてです。
幾つかのアジアの国で、私達は、信徒が立って手で受ける聖体拝領を導入するという流行を見ます。これはアジアの文化に全く一致していません。仏教徒達は、彼らの額が地面につくように、ひれ伏して礼拝します。モスリム達は靴を脱ぎ、礼拝のためにモスクに入る前に彼らの足を洗います。ヒンドゥー教徒達は服従の印として胸をはだけて寺院に入ります。人々がタイの国王に、あるいは日本の天皇に近づく時、彼らは尊敬の印として跪きます。しかし、多くのアジアの国で、教会は跪く代わりに御聖体にただ単純にお辞儀をし、御聖体を拝領する時には立っており、そして手でそれを受けるという実践を導入しました。そして私達は、これらはアジアの文化と一致した実践だとは考えられ得ないことを知っています。
更に言えば、今日教会におけるその役割が誇張されているところの平信徒が、このような決定に際して、相談さえされることがあってはならないのです。
これら全ての状況が教会のために良い兆候であるとは言えませんし、私達は、もし私達が祝うミサ聖祭がアンティオキアの聖イグナティウスが断言したように「不死の薬、また死に対する解毒剤」(アンティオキアの聖イグナティウス『エフェソ人への書簡』20)となるべきであるなら、これらの流行を修正しなければなりません。
アンソニー・ヴェイル(Anthony Valle)は神学者であり、ローマに住むライターである。
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