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ミサにおける聖体拝領の際の跪きと舌による聖体拝領についてランジス大司教は語る

2008年1月27日
Shawn Tribe
Libreria Editrice Vaticana は一冊の本、アタナシウス・シュナイダー(Athanasius Schneider)司教の『Dominus Est(それは主である)』を刊行した。その中で司教は、跪いての聖体拝領と舌での聖体拝領について分析している。
マルコム・ランジス大司教がこの本の序文を書いており、私達 New Liturgical Movement はその非公式の翻訳をここに置くことを喜びとする。(これに関する情報を与えてくれた New Liturgical Movement にとっての友人──それは当初 Associazione Luci sull'Est を通じてもたらされた──に心から感謝する。)
ではさっそく、以下、典礼秘跡省局長ランジス大司教の序文。
黙示録において聖ヨハネは、彼がどのように啓示されたものを見、且つ聞いたか、そしてどのように[彼自身]主の天使の足もとにひれ伏して拝んだかを語っています(黙示録22:8)。謙遜な崇拝において天主の存在の威厳の前にひれ伏すこと、あるいは跪くことは、イスラエルの民が天主の存在の前に常に持っていた崇敬の習慣でした。列王の書上にはこうあります、「さて、サロモンは、主にたいする、この祈りと願いとをおえてのち、主の祭壇のまえに立ちあがった。それまで、かれは手を天にさしのべて、ひざまずいていたからである。そして、立ちあがると、大声で、イスラエルの全会衆を祝福した」(列王の書上 8:54-55)。
新約聖書においても聖ペトロがイエズスの前に跪いた箇所で(ルカ 5:8)、またヤイロがその娘を癒して下さるように主に頼んだ箇所で(ルカ 8:41)、あるいはサマリア人が主に感謝するために戻って来た箇所で、そしてラザロの妹であるマリアが兄の命のために主に求めた箇所で(ヨハネ 11:32)、私達は同じ習慣を見ることができます。天主の存在を示す啓示の前における同じひれ伏す態度は、通常、ヨハネの黙示録で知られています(黙示録 5:8, 5:14, 19:4)。
この伝統は「エルサレムの神殿は神の住まいであり、それ故人は神殿内においては自分の心を天主の御前で深い謙遜と崇敬の思いへと準備するために体の表現を使わなければならない」という信念と密接に結びついているものでした。
カトリック教会においても、「主は聖変化されたパンとぶどう酒の中に真にまた実体的におられる」という深い信念が、御聖体を御聖櫃の中に保存するという習慣の発達に伴いつつ、御聖体におられる主への謙遜な崇敬の態度としての跪きという習慣をもたらしました。
[…]
...聖変化されたパンとぶどう酒の中にキリストがまことに現存されるという信仰は、既にカトリック教会の信仰の本質に属するものであったのであり、それはカトリシズムに固有なものの一部をなすものでした。もしこの真理が僅かしか命を与えられないなら教会を建てることはできない、ということは明白なことでした。
従って、御聖体、私達と共におられるようになった天主、全実体変化されてキリストの御体になったパンとキリストの御血になったぶどう酒は、驚嘆と、崇敬と、大きな謙遜な崇拝の態度で迎えられなければなりません。ベネディクト16世教皇様は「御聖体を受けることは、私達が受ける主を崇拝することを意味します。[…] 崇拝の心を持ってのみ、深い真実の聖体拝領が完成されるのです」(2004年3月13日発布、使徒的勧告『愛の秘跡 Sacramentum Caritatis』66)と指摘しておられます。
この伝統に従いながら、私達が沈黙と黙想に入ることを容易にするところの、また御聖体において私達と出会うために来られる天主の無限の偉大さと神聖さとに対面して私達がおのれの貧しさを謙遜に認めることを容易にするところの体と霊魂における動作と態度を取ることが、筋の通ったこと、また不可欠のものになっていったことは明らかです。私達がミサにおいて天主に崇敬を示す最良の方法は、福音書が語っているように、聖ペトロが主の前にひれ伏し「主よ、私から離れてください。私は罪人です」(ルカ 5:8)と言った例に倣うことです。
私達が現在幾つかの教会で目にするように、この習慣は減少しつつあり、責任のある人達は信者は御聖体を立って拝領するべきであると要求するばかりでなく、[聖なる]御聖体の奉挙と崇拝の時にも信者達に座ることあるいは立つことを強制して、全ての跪く人達を排除してさえいます。このような処置が[幾つかの]司教区において典礼に責任のある人達によって、また小教区において司祭達によって、現在教会の中でますます民主主義が望まれているという状況があるにしては信者達との最小の協議さえ持たれずに取られるというのは、皮肉なことです。
同時に手による聖体拝領について言えば、それは公会議直後に幾つかの地域において不適切且つ拙速に導入されたものであり、それは長年の習慣を変え、やがて全教会の通常の実践になってしまった、ということが認識されなければなりません。彼らはこの変化を「それは福音の精神を、あるいは古代の習慣をよりよく反映するものだ」と言って正当化しました... ある人はこの実践を正当化するためにイエズスの言葉、「取って食べよ」(マルコ 14:22, マタイ 26:26)を引き合いに出したりしました。
しかしこの実践のための理由がどうであれ、私達はこの実践が行なわれている世界中で起こっていることを無視することはできません。以前の習慣が聖なる御聖体に対する崇敬をよく護ってきたことに比べ、この実践はそれを徐々に弱らせることに貢献してきました。それはその代わりに、驚くほどの黙想の欠如、及び常態となってしまった不注意な精神をもたらしました。私達は拝領者達がしばしばあたかも何も特別なことは起こらなかったかのように自席に戻るのを見ます。多くの場合、そこには霊魂に主の現存を頂いたことを示すシグナルとしての厳粛な感覚や内なる沈黙を見出すことはできません。
更に、御聖体を記念品として取っておくために持ち去る人達がおり、またそれを売る人達がおり、もっと悪いことには、それを悪魔儀式の中で冒涜するために持ち去る人達がいます。大きな共同司式ミサにおいてさえ、ローマでも、何度か御聖体が地面に投げ捨てられているのが発見されました。
この状況は私達を信仰の深刻な欠如について考えさせるばかりではなく、極めて重大な罪についても考えさせるものです...
教皇様はミサ聖祭の真理とその深い意味を頭で理解する必要についてばかりでなく、その尊厳を思い、それへの崇敬をもって祝う必要についてもお語りになっておられます。教皇様は、私達は「奉献の祈りの主要部分において跪くことのような、動作と姿勢について」(『愛の秘跡』65)知っていなければならない、とおっしゃっておられます。また聖体拝領について、「このシンプルな行為が秘跡におけるイエズス・キリストとの個人的な出会いとしてその重要性を確かに保ち続けられるよう、あらゆる努力をすること」を全ての人に呼びかけておられます(『愛の秘跡』50)。
この文脈において、カザフスタンのカラガンダの補佐司教であるアタナシウス・シュナイダー司教によって書かれた本『Dominus Est』は重要であり、評価すべきものです。彼は奉献されたパンとぶどう酒におけるキリストの真であり実体的である現存についての最近の議論において貢献をしたいと望んでいます。彼は私達に、御聖体の主への深い信仰と驚きと熱愛を彼の中に引き起こした彼の経験から、跪いて舌によって御聖体を受ける習慣がどのように長年の間教会の中で受入れられまた実践されてきたのかを、彼の歴史神学的な[考察]と共に明らかにしています。
私は、現在このような善き習慣が概観され再評価されるべき時が来ていると思います。そして必要とあらば、『愛の秘跡』によっても過去の教皇様達によっても求められず、ただ幾つかの国における不法な導入の後に受入れられたに過ぎない最近の習慣を廃止すべき時に来ていると思います。私達は現在、教会の生命を強めるため、また現在の状況が尚引き起こし続けている信仰の危険な歪曲の渦中において教会の生命を護るために、御聖体におけるキリストのまことの現存に対する深い信仰を新たにするように信者達を助けなければなりません。
この運動の依って立つところはアカデミックであるより司牧的なものでなければなりません。典礼的であると同様に霊的でなければなりません。要するに、より良き信仰を打ち立てる(build)ものでなければなりません。この意味でシュナイダー司教は賞賛すべき勇気を示しています。何故なら、彼は聖パウロの次の言葉の真の意味を掴むことができたからです。「しかし、どんなことも造り上げる(build up)ために行なうべきです。」(コリント人への第一の手紙 14:26)
マルコム・ランジス
典礼秘跡省局長
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