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本当のモンティーニさん、お立ち頂けますか?

WILL THE REAL MONTINI PLEASE STAND UP? [1]
Posted by Robert Kumpel [2]
以下に掲げるのは、私が数日前に受け取った魅力的なEメールの完全なテキストである。私はこの情報の含む如何なるものも確かめることはできなかったし、またこの情報の基となるウェブページも、更にそれを書いたのが誰であるかも突き止めることができなかった。私はこの情報が確かだと請け合うわけにはいかない。しかしあらゆる陰謀説と同様に、この中の幾つかには意味がある筈である。もしこの中の「全て」が真実なのだとしたら(それは非常に大きな「もし」であるが)、その時私達は実際、巨大な仕方で騙されていたということになるだろう。
教皇パウロ六世は新ミサの起草者ではない
教皇パウロ六世は、おそらく、自身の臣下によって好き放題に私的制裁を加えられ、また彼らのデザインを推し進める上で彼の名が利用された、史上最も裏切られた教皇であろう。
伝統主義者達の間においてさえ持たれている一般的な間違いは、教皇パウロ六世は実質的にはそれに何ら関わっていなかったにかかわらず、「教皇パウロ六世は公会議後のミサ(ノヴス・オルド)の立案者だ」としていることである。しかし彼は第二バチカン公会議の最後の二年間において実際は新ミサの持つどのような概念にも抵抗したのであって、1965年9月3日にはこう書いている。
どのような個人であれ、おのれ自身を権威として、聖体に関する信仰教義を提案するために、トリエント公会議が用いた公式を修正しようなどとすることは、大目に見られることはできない。
ミステリウム・フィデイ [3]
*** フリーメーソンの策謀 ***
伝統主義者達は第二バチカン公会議について必ずしも全体像をつかんでいない。フリーメーソンのエージェント達が公会議に侵入した時、彼らの目的とするところは、改革を引き起こして信仰を腐敗させることばかりではなかった。それと同時に彼らが計画したのは、教皇政治の評判を落とすために、またそうすることで彼らが何の邪魔もなしにその破壊的な計画を実行できるよう教会から善きカトリック信者達を追い出すために、教皇の上に責任を転嫁するということであった。それは私達に「パウロ六世は新ミサを立案指揮したモダニズムの罪人である」「最近の五人の教皇達は対立教皇だった」「現在のミサは有効ではない」などと考えさせるために、彼らが周到に計画したものだった。そのようにすれば、善きカトリック教徒はもはや教区の中に留まって戦う理由を感じなくなるだろうというわけであった。
60年代の初めに第二バチカン公会議が開かれた時、彼らの狙いは、新しい改革に先鞭をつけるために教皇パウロ六世を利用しようとすることであった。しかし教皇が彼らの計画に気づき(オッタビアーニ枢機卿の介入によって)、新ミサに関する彼らの提案を拒絶した時、彼らは彼に激怒し、それ以来彼を罰することをやめようとはしなかったのである。残念なことに、今日、この罰の多くは伝統主義者達から来ている。
教皇パウロは確かに完全ではなかった。例えば、彼は典礼改革に対してもっと強固に断固とした態度を取ろうとすれば取れたであろうように、1969年5月における彼の手による聖体拝領への禁止を、それにもう少し力を加えて持ち堪える〔維持する, 貫く〕こともできたであろう。しかし〔それはともかく〕新ミサは彼の手になるものではなかった。それは決して彼に起因していない。特に、彼がこれほど多くの世紀にわたって信仰を保存してきた言語 [ラテン語] の規則は「信仰深く保存されねばならない」(1965年9月3日)と宣言した後は、尚更である。
*** ノヴス・オルド ***
典礼の変化は、実際は、第二バチカン公会議の中にその司教達を侵入させた悪魔の仕業だった。聖職位階が弱かった(霊に無警戒だった)正にその時に、地獄の敵が教会に押し入り、そして後に教皇パウロ六世をして次の有名な声明を言わしめたのである。「どこかの裂け目からサタンの煙が神の教会の中に入りました」
その戦略はミサに変更を加えることであった。新世界秩序(Novus Ordo Seclorum)。悪魔は、もし彼が扉を越えて一歩中へ踏み込むことができるならば、この新秩序を推し進めるための会議場として教会を使うことができるであろう、またそうなれば、来たるべき新世界秩序への道を舗装することにもなるであろう、と知っていたのである。40年間のゆっくりとした条件付けは、正にこの計画に実現をもたらした。──改革はよく計画されていたのである。
*** 焦点ずらし ***
彼らの主要な目標は、司祭が聖櫃に背を向けて人々と対面するように、司祭の向きをくるりと反転させることだった。
このアイディアは、教会は神に対しては背を向け、そのかわりに(人々は)互いの方を向かなければならない、ということを示唆するものだった。これは私達が公会議以来目にしているものである。今日、強調が神の上にではなく共同体の上に置かれている所で、この焦点ずらしが起こっている。教皇ピオ十二世はファチマの第三の秘密を読んだ後、教会が「人間が神になったと信じるよう招かれる」日が来ようとしている、と言ったものである。
*** パウロ教皇は改革に反駁する ***
教皇パウロ六世は、60年代中頃に教会を侵蝕していた背教を前にして、カトリック信者達に、如何に天主が諸世紀を通じ聖体に関する教会のドグマを保護する目的で言語の規則[古い典礼]を確立し保護して来給うたかに関して、間違った概念──例えば「聖体は私達の一致のシンボルである」「私達が真の聖体である」「ミサは食事である」「ミサは共同体の集会である」「ミサは祝祭である」等々──を受け入れることのないように、聖体に関する彼の回勅(ミステリウム・フィディ)を発布した。彼はその中でこう述べている。
従って、教会は、何世紀にもわたる長き骨折りと聖霊の助けとをもって言語の規則[古い典礼]を確立し、それを諸公会議の権威をもって確認して来たのです。しばしば正統信仰の合い言葉であり旗印であったこの規則は、信仰の心をもって維持されなければなりません。何人と雖も、自身の愉悦のために、あるいは新しき科学の口実の下に、厚かましくもそれを変えようとしてはなりません。一体誰が、聖三位の神秘とその具体化〔受肉?〕のために全教会的な諸公会議が使って来たその教義的な公式を、もはや我々の時代の人類には不適切なものと看做し、それ故他のもの[新ミサ]に急ぎ取って変えねばならぬなどと考えることを、許容することが出来ましょうか。
*** 新ミサの起草者達 ***
次のフリーメーソンの指令は、1962年3月にイタリアのP2ロッジから流出した34箇条からなる一組のガイドラインからのものである。これは私達に、新ミサが本当はどこから来たものかをよく理解させてくれる。
11. 聖櫃の聖体の前でミサをする習慣を一掃せよ。どのような聖櫃もミサに使われることを許してはならない。祭壇を夕食机のようにせよ。それが聖なるものではなく、会議机やトランプ台のように、多目的に使えるよう、持ち運び自由なものにせよ。それから、聖体拝領後に、司祭が食休みをしていることを意味するよう、この机に椅子を最低一脚は備えるようにし、司祭をそこに座らせよ。ミサのとき、決して司祭に跪いたり、片膝をついたりさせてはならない。人間は跪いて食事をしないのだから。
上は同じガイドラインの第四項「すべてのラテン語典礼、信心、歌を止めさせよ。それは、神秘と崇敬の気持ちに導くから。それは意味不明な呪文のごときものであると言え」と密接に関係したものである。古いミサにある厳粛さを取り去ることは、1962年にメーソン達によって計画された他の多くの冒涜(例えば聖体拝領の仕方)に道を開くものだった。
30. 女性と平信徒に聖体を配らせろ。平信徒の時代なのだと言え。舌によってではなく、プロテスタントと同様、手で聖体を受けさせろ。キリストもそのようにしたのだと言え。聖体の一部を黒ミサ(サタンミサ)のためにとっておけ。
これらの地獄のガイドラインは、主に聖職者の倒れたメンバー、特にブニーニ大司教(彼は新ミサの主要な立案者であって、教会を破壊するための彼の委員会を遂行するための給料小切手を定期的に受け取るために何度もメーソンのロッジに通う姿が目撃されている)のようなフリーメーソンの入会者らによって実行された。それ故、典礼の変更は教皇パウロ六世から出たものではなかったのである。
*** 世紀の偽装 ***
それでも、多くの人は今日、「教皇パウロ六世の無実を受け入れることは難しい」と思う。しかし、そうなるのは、1975年以降、一人の詐称者がローマに居て、教皇パウロ六世の評判を落とすために活発に働いていたからである。このことは外交団の間では常識であって、ドイツ人の著述家 Theodore Kolberg の『詐称者教皇 The Impostor Pope』によってもよく裏づけられている。その中で彼は、二人の教皇の多くの写真によって、また1975年の復活祭においてバチカンのバルコニーから姿を現わした男と同年クリスマスにおいて同所から姿を現わした別の男が同じ言葉[教皇の祝福]を発した時のそれぞれの声紋を提出することによって、自身の主張を立証している(声紋は法廷において証拠採用されるものである)。その詐称者は P. A. R. というイニシャルを持つイタリア人の俳優であって、1972年にバチカンを掌中に収めた者達、すなわちヴィロ枢機卿、ベネリ枢機卿、カザロリ枢機卿ら(この者らは、1999年、『ワンダラー』が「KGBの協力者だった」とさえ特定した者らである [4] )のコントロール下で “操り人形” として働いていた人物である。彼らは一方では本物の教皇に薬物を投与し、他方では最高水準の形成外科医を使い [5] 、この詐称者教皇を作った。結果、その時点から、真の教皇の露出は極めて少なくなったものである。
ここに通常の報道記事に掲載された二人の男の写真がある。どちらも報道において教皇パウロ六世として見られ、またそう知られたものである。鼻の違いに注意して欲しい。教皇パウロ六世(左)は、長く、真っ直ぐで、より尖った鼻を持っている。それに対して詐称者(右)は、短く、丸みを持った鼻を持っている。
この二枚の写真は撮られた時期が僅か4年しか隔たっていない。左が1973年、右が1977年である。どちらの写真も、撮影と修正において、どのような手も加えられていない。どちらの写真も自らを語り、当時バチカン内部で暗黒の力が働いていた事を証明している。この二枚の写真を隔てている4年という時間経過は、この二枚の写真の間にある外観上のこのような甚だしい相違の理由にはならない。
詐称者の存在は、教皇パウロ六世に関し信者を混乱させたところの多くの矛盾、例えば、なぜ彼はカリスマ運動に対して、1969年には非難を加え、しかし1975年には抱擁を与えたか、なぜ彼は手による聖体拝領に関して、1969年5月にはそれを禁じ、しかしその後1975年からは認可し始めたか、などを説明するものである。ローマに詐称者を持つことは、モダニスト達にとって、それまでは教皇の抵抗に遭っていた彼らの改革を実行することを容易にするものであった。
*** 公会議の精神 ***
教皇パウロ自身、1977年10月13日の表明の中で、第二バチカン公会議の荒れ狂う後遺症を嘆き、その背後にあった源泉の力について次のように言っている。
悪魔の尾が、カトリック世界の崩壊において機能しています。サタンの暗闇が、カトリック教会全体の中に、その最高会議の中にさえ、入り込み、広がっています。背教、信仰の喪失は、世界中に、そして教会の最高位階の中にさえ、広がっています。
質問: この言葉は、教会に甚だしき破壊を加えるに至った聖儀典の変更、それに同意を与えた教皇のものに思えますか? 彼は1965年に、トレント公会議のミサに対して忠実を保つべき義務に関し、教会位階に警告を発したのではなかったですか?
典礼の冒涜はミサを無効にしない
典礼に加えられた変化にも拘らず、ミサは今日でも有効なままである。それはどのような改革によってでもなく、新しい儀式においてもなお損なわれていない伝統の必要不可欠な諸要素によって、有効である。モダニスト達の革新は、今日のミサを不法な [6] ものにはしているが、無効なものにはしていない。司祭は、もし彼が合法的に叙階されている者ならば、そして聖変化のために必要不可欠な諸要素がその〔彼の〕ミサに存在するならば、有効な秘跡を生成する力を持っている。(彼がまだそうであるならば)司祭の不法な振る舞いや手順は、それらが彼に必要不可欠な諸要素をすっかり台無しにさせるか省略させるかしない限り、ミサの有効性に影響しない。トレント公会議に従えば、有効なミサを生起させるために必要な聖変化のための必要不可欠な要素とは、次の言葉である。「これは私の体である」「これは私の血である」。聖変化に先行する言葉あるいは後続する言葉(例えば「これは、あなたがたと多くの人のために流される」など)は、必要不可欠な言葉の一部を構成せず、従って、これらの非本質的な部分での変化は、その変化が確実な異端を促進する種類のものでない限り、ミサを無効にしない。そして勿論、今日のミサはこれに該当しない。[7]
管理人注
アメリカの古いテレビ番組 The Twilight Zone の一話に Will the Real Martian Please Stand Up?(本当の火星人さん、お立ち頂けますか? 邦題『火星人は誰だ』)というのがある。バスの乗客がいつの間にか6人から7人に増えていて、その中から人間に化けているらしい火星人を皆で突き止めようとする話である。
私の記憶が確かならば、アメリカのフリーの「カトリック・ジャーナリスト」ということである。彼はこの記事の中で、彼のもとに届いた一通のEメールの全文を公開する。
MYSTERIUM FIDEI 聖体の教義と崇敬について(1965年9月3日)。日本では、とうの昔に絶版。が. . . 参照
そしてベイサイドの預言も、ピタリ、同じ事を言っている。
最高水準の医学のためであれ何のためであれ、資金なら潤沢にあったと考えるべきである。フリーメーソンとはロックフェラーでありロスチャイルドなのだから。
illicit:勿論、この筆者の信仰観から来る言葉だろう。人はこの表明を簡単に笑うことはできない。何故なら、信仰の心にとっては、確かに、可視的な教会の法の上に天国の法があるからである。
ここでの言い回しは、私には、少し不足のように思えます。やはり聖ピオ十世会のように、特に司祭の「意向」について、一応はきっちりと言っておくべきだろうと思います。
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