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シスター・ファウスティナの神のいつくしみへの礼拝は避くべきもの...ではない

下は教皇座空位論者の文章です。
私は空位論者ではないけれども、他の事はともかく、下で私が赤太字で強調した部分がシスター・ファウスティナの日記の中に有るということなので、当初、この空位論者の最終的な結論──「避くべきものである」に同意しました。
しかし、恐らく私は間違っていました。それで、上の表題を「避くべきものではない」に変えました。理由は2007/11/21の日記に書きました。
以前の記事で心に被害を受けた人があるならば、お詫びします。
シスター・ファウスティナの神のいつくしみへの礼拝は避くべきものである
2006年8月26日
Bro. Michael Dimond, O.S.B.
長年にわたって私は神のいつくしみへの礼拝についてのいろいろな意見を聞いてきましたが、何を考えるべきかについて正確には知りませんでした。私の関心を引いた一つのことは、それがカリスマ主義的な「カトリック信者達」の間で人気があるらしいということ、そしてそれがロザリオの代わりに使われることになっているらしいということでした。先日、私はシスター・ファウスティナによって書かれた600ページを超える本『わたしの霊魂における神のいつくしみ - 日記』[1] を手早く読む決心をしました。以下は、私にこの「礼拝」は避けるべきものであると確信させるに十分な、私の気づいた疑わしい点のほんの一部です。
『シスター・ファウスティナの日記 - わたしの霊魂における神のいつくしみ』(マリアン・プレス、1987年刊)の23ページに、こう書かれています:「… そして、ホスチアはご聖櫃から出てきて、私の手の中で止まりました。そして私は喜びとともにそれをご聖櫃の中に戻しました。それはもう一度繰り返されました。そして私は同じことをしました。それにもかかわらず、三度目のそれが起こりました…」
『わたしの霊魂における神のいつくしみ』の89ページにはこう書かれています:「司祭が再び私に近づいた時、私は、彼がそれをカリスの中に戻すべくホスチアを上に掲げました。何故なら、私が主を最初に受けた時にはホスチアをまだ呑み込んでいなかったために話すことができなかったからです。けれども、私はホスチアを自分の手の中に持っている間、あまりに愛のパワーを感じたのでその日の残りの間、食べることも自分の感覚を取り戻すこともできなかったほどです。私はホスチアから次のような言葉を聞きました、「私はあなたの心の中でだけでなく、あなたの手の中でも休みたかったのだ」。
168ページにはこうあります:「私が主に命じられて自分の意志を消すために跪いた時、私は自分の魂にこの声を聞きました:今後、神の裁きを恐れてはならない。何故なら、あなたは裁かれないだろうから」(1935年2月4日)
176ページでは、「イエズス」は彼女に言います:「あなたは香り高い葡萄であり、選ばれた房である。私は他の人もあなたの内に流れている果汁の分け前にあずかることを望む
191ページでは、「イエズス」は彼女に言います:「あなた故に、私は懲罰の手を保留する;あなた故に、私は地球を祝福するであろう」(378ページも見て下さい。)
247ページでは、「イエズス」は言います:「そしてこのことも知りなさい、私の娘よ:すべての生き物は、彼らが知ろうと知るまいと、また彼らが望もうと望むまいと、常に私の意志を満たす… 私の娘よ、もしあなたが望むなら、私はこの瞬間、新しい世界を創ろう。今のものよりもっと美しいそれを。そしてあなたは人生の残りをそこで生きるだろう。」
260ページでは、「イエズス」は言います:「何故なら、多くの霊魂達が地獄の門から引き返し、私のいつくしみを礼拝するだろうからだ。」
374ページでは、「イエズス」は言います:「もし彼らが私のいつくしみを崇敬しないなら、彼らは全ての永遠を失うだろう。」
382ページでは、「イエズス」は言います:「私は私のいつくしみが崇拝されることを望む。
288ページでは、「イエズス」は言います:「それが、私が自分自身を他のどんな生き物とよりもあなたとこれほど親密に結びつける理由である。」
400ページでは、「イエズス」は言います:「私はあなたの愛がこれほど純粋なのを見る。それは天使のそれより純粋である。そしてそれはあなたが戦い続けるからいっそう純粋である。あなた故に、私は世界を祝福する。
417ページでは、「イエズス」はシスター・ファウスティナに次のように指示したそうです;「修道院長に、修道院の中で最も信心深い娘であるあなたに注目するように言いなさい。
583ページでは、私達はシスター・ファウスティナが次のように言うのを見ます:「私が『聖心のメッセンジャー』[2] を手に取り、その中の聖アンドレア・ボボラの列聖についての記事を読んだ時、私の霊魂はすぐに、私達の修道会からも聖人が出て欲しいという大きな望みでいっぱいになり、私達の会の中に聖人がいないことを思って子供のように泣きました。そして主に申し上げました、『私はあなたの寛大さを知っております。でも、私には、まだあなたが私達に十分寛大でないように感じます」。そして私は再び小さな子供のように泣き始めました。すると、主イエズスは私に言われました、「泣いてはならない。あなたがその聖人である」。
602ページでは、「イエズス」はこう言ったそうです:「私は彼らを我慢することができない。何故なら、彼らは善くもなく悪くもないからだ。
612ページでは、「イエズス」はこう言ったそうです:「私はポーランドに特別の愛情を持っている。そして、もしこの国が私の意志に従うならば、私はこの国を力と清さにおいて高めよう。やがてこの国から、私の再臨のために世界を準備する火花が出るだろう
643ページには、こうあります。シスター・ファウスティナは聖体拝領の後に言います:「イエズス、私をもう一つのホスチアに変えて下さい!… あなたは偉大な全能の神です;あなたは私にこの恩恵を与えることがおできになります。すると主はお答えになりました、『あなたは生けるホスチアである』。」
208ページでは、私達は次のように知ります。「イエズス」とされているものはシスター・ファウスティナに、新しい「神のいつくしみへの礼拝」について話し、そして彼女に、それはロザリオの珠の上でされなければならない、と指示したことになっています。「この祈り[神のいつくしみへの礼拝]は私の怒りを和らげるために役立つであろう。あなたはこれを九日間の間、次のやり方で、ロザリオの珠の上で唱えなければならない。まず初めに、あなたは一回ずつの主の祈り、聖母マリアへの祈り、そして信仰宣言を唱える。それから主の祈りの珠のところで、あなたは次のように唱える:『永遠の父よ、わたしたちと全世界のすべての罪のあがないのために、あなたの最愛の子、わたしたちの主イエズス・キリストのおん体とおん血、ご霊魂と神性をみ前にささげます。』 聖母マリアの珠のところで、あなたは次のように唱える:『イエズスの大いなる受難によって、わたしたちと全世界にいつくしみを注いでください。』 締めくくりに、あなたは次の言葉を三度唱える。『聖なる神、聖なる全能の神、聖なる永遠の神よ、わたしたちと全世界をあわれんでください。』」(1935年9月14日、土曜日)
以上の内容は幾つかの問題を提起します。第一の問題は、手による聖体拝領のプロモーションです。それは私達の主によって支持されるとされています。ホスチアは何度も彼女の手の中に飛び込みます。そして私達の主が、彼女の手の中で休むことを望む、と言ったことになっています。私は、これは第二バチカン公会議の信仰に先立って手による聖体拝領を受け入れさせようとする悪魔の罠だと信じます。
第二に、私達は、不必要な賞賛の言葉がこのシスターに山ほど与えられるのを見ます。私達は、私達の主によって彼女に語られたとされていることが、謙遜ではなく自惚れを、彼女という存在が基本的に世界中で一番大きな存在であるかのような自惚れを促進するであろうことを見ます。私は、私達の主がかつて彼女に、彼女の上長に彼女が修道会の中で最も信心深い者であることを言うように指示したことがある、などということを信じません。私達の主は、もし彼がそのようなことが知られることをお望みになるならば、それをその上長にわからせることができる筈です。
第三に、私達は、シスター・ファウスティナが、神の火花──それは世界に主の再臨のために準備させるであろう──がポーランドから出るだろう、と言われたということを見ます。これは神に選ばれた人というのがポーランドから出たヨハネ・パウロ二世のことを意味していると解釈されてきました! 私達はヨハネ・パウロ二世が背教者であり、非カトリックの対立教皇であり、この世の間違った信仰に保証を与えつつバチカンで文字通り反キリストの教説を説いた者である [3] ことを知っているので、このことは再び、シスター・ファウスチナに与えられた啓示が悪魔から来ているものであることを私達に示します。このことは、実際、悪魔がどれほどヨハネ・パウロ二世に対する人々の支持を支えたかったかを私達に示します。
第四に、神のいつくしみへの礼拝は、人類が神の正義のカップを溢れさせる地点にますます近づきつつあるその時に、いつくしみの周りに集中されています。当時も今も、問題はもちろん、人間達が神を恐れず、神を侮辱し続けたことにあります。彼らは主の正義について聞かされる必要がありました。しかし神のいつくしみへの礼拝は、人々をして、彼らがたとえ罪の中に留まっていてさえ神のいつくしみを受けるだろうと信じさせる、人々に神のいつくしみを「崇拝」さえするようにと指示する、完全に間違った礼拝です。
第五に──そしてこれはおそらく最も重要なことですが──神は、彼の御母がとりわけロザリオの必要性を啓示するために深い奇跡をお働きになろうとファチマにやって来られたその直後に [4]、「ロザリオの珠の上で」唱えなければならない新しい礼拝などを啓示したりするものでしょうか? シスター・ファウスティナに神のいつくしみへの礼拝はロザリオの珠の上で祈られなければならないとして与えられた具体的な指示は、明らかに、この礼拝をロザリオの代用としようとする悪魔の意図であると私達は信じます。そして私達は、悪魔がとても多くの霊魂達にこのような常套手段を用いるのを見てきました。神のいつくしみへの礼拝は、とても多くの方法で伝統的であることが装われていますが、保守的な気質を持った信徒グループの中にこの反逆的な礼拝を挿入し、それをロザリオの代わりとして使わせようと望む、悪魔の目的に適う巧妙な偽作です。
これら全てを考えると、神のいつくしみへの礼拝はカトリック信者にとって避けるべきものですカトリック信者はこれを避けて、その分余計にロザリオを祈り、十字架の道行きをすべきです。人々は、1950年代には神のいつくしみへの礼拝は抑えられていたのであり、シスター・ファウスティナの日記は禁書リストの中に加えられていたということを知らなければなりませんそれはヨハネ・パウロ二世によって世界中に再生されました。
管理人注
[1]  この『シスター・ファウスティナの日記 - わたしの霊魂における神のいつくしみ』は日本語では刊行されていないようですが、英文ではネット上の次の場所にその全文と思われるものがアップされています。
http://www.saint-faustina.com/Diary/DMIMS1.shtmlキャッシュ
http://www.rayofmercy.org/diary/English/diary.pdfキャッシュ
[2]  The Messenger of the Sacred Heart: カトリックの雑誌か本のようです。
[3]  さあ、このブラザーはこんなことを言っています。私はこれには賛成できません。参照:教皇制の擁護 - 教皇空位論者の企てに反対する
注: 参照先(みこころネットさん)のページが文字化けする時にはブラウザのテキストエンコーディングで Shift JIS を選択してください。
[4]  ファチマで聖母が三人の子供達に初めてお現われになったのは1917年5月13日です。そしてシスター・ファウスティナ (1905 - 1938) にこの「神のいつくしみへの礼拝」が下ったのは1931年のようです(参照)。その間の開きは14年です。
2010年8月24日
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