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バチカン
「跪く行為は聖体にましますイエズスとの出会いを表わす」

2006年7月26日
Cindy Wooden
(Catholic News Service)
バチカン(CNS)─ ミサの奉献の間に跪くことは、「人は、聖体の秘跡において、人間の罪の重さの故に身を屈められたイエズスと出会うのである」という事実を表現するために、最もふさわしいやり方である、とバチカン当局の記事は語った。
「天主はご自身、罪深い人間と出会うために、十字架上の死に至るまで身を低くされ、そしてそれを罪から解放した」と、典礼秘跡省の広報誌ノティティエの中の短い記事は言った。
「もし聖体祭儀が主の死と復活に関する秘跡的な記念を意味するなら、主がご自身を屈められた目的であるところの人々においては、この最高の愛の神秘の前で身を屈めることがふさわしいと思われる」と、ドイツ出身の同省メンバーである Stephan Hunseler 司教が語った。
7月下旬の記事は、キリストの自己放棄は「主イエズス・キリストが神の小羊として彼自身の上に世界の全ての罪を引き受けられた時に、その頂点を迎えた」と言った。
奉献の間に人々が跪く時、彼らは謙遜の姿勢を取っているというばかりではなく、彼らに出会うために身をお屈めになったイエズスと出会うために身を屈めるのである、と記事は言う。
「それ故、ミサ聖祭の奉献の間に跪くことは」、人となられ、人々の罪の故に死なれ、そして復活された「主キリストとの出会いの最も雄弁な瞬間の一つとなるものである」とその記事は言う。
ミサ聖祭のためのガイドラインを提供する『ローマ・ミサ典礼書の一般総則』の2002年版は、信者は「健康上の理由、スペースが足りない時、あまりに信徒数が多い時、あるいは他の然るべき理由がない限り、サンクトゥス(感謝の賛歌)を歌うか唱えるかしてから奉献文の結びのアーメンまで、跪いていなければならない。司祭が奉献の後で片膝をつく時、跪かない人々は深く一礼すべきである」と言っている。
しかしながら総則は続けて、「ミサ式次第に記されている動作や姿勢をその国民の文化や然るべき伝統に適応すること」はその国の司教協議会の権限である、とも言っている。
総則のこの箇所に関する米国司教協議会の適応は次の通りである:「アメリカ合衆国の司教区では、彼ら(信徒)は、健康上の理由、スペースが足りない時、あまりに信徒数が多い時、あるいは他の然るべき理由がない限り、サンクトゥス(感謝の賛歌)を歌うか唱えるかしてから奉献文の結びのアーメンまで、跪いていなければならない。司祭が奉献の後で片膝をつく時、跪かない人々は深く一礼すべきである。アニュス・デイ(神の小羊の祈り)の後は、教区司教が別のやり方を定めていない限り、信徒は跪くものとする。」
管理人注
典礼秘跡省の言う通りである。主イエズスご自身が私達の(罪の)ために身を屈めて来られようとする瞬間(奉献)に、なぜ私達は突っ立っているのか。なぜ信徒も司牧者もそれを良しとするのか。
訳出 2008/01/25
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