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トリエント・ミサについて
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この神父様の意識がどれだけ主に向けられているか、そして、どれほど祈りに潜心しているかが、分かると思います。
私は、トリエント・ミサに於いて一番大きなことは、今のノヴス・オルド・ミサに於いて司祭が「会衆に対面」しているのと違って、何よりも真先に、そしていつもいつも「主に対面」していることだと思います。この一目瞭然単純明快な事実が、私には一番気になります。体が主に向かっている御ミサでは、司祭の心もより自然に主に向かいます。主に対面し、主に何度も跪き、主に潜心して祈りを捧げ、主の御目を感じながら、司祭は自分を主によりふさわしく整え、捧げようとします。司祭がそのようになるように、御ミサの形が司祭を助けています。「今のミサ、今の司祭とおそろしく違う」と感じるのは私だけでしょうか。
御ミサの形式は司祭の心を導きます。しかしこれは「たまたまこの御ミサがこのような形であった」というのではありません。このようなミサの形式は「聖伝の神学」によって支えられています。それに由来しています。人が神に向かう時、どのような考えで、どのような心の姿勢で向かうべきかを教える正しい神学です。その神学が人間の性質というものを賢明に考え、また自然に考えて、人間にこのような立ち居振る舞いを指定しているのです。
「今の神父様方だって主に祈っているし祈りに潜心している」と主張することは可能です。確かに個々に於いてはそのような神父様もいらっしゃるかも知れません。しかし人間は弱いものです。習慣や環境に流されます。そして司祭自体とは別に、司祭の見える姿が会衆に与える影響ということもあります。司祭の姿は信徒にとって──そして世の人々にとっても──常に模範だからです。
今のノヴス・オルド・ミサはその神学からして、司祭は自ら主に祈るよりも「会衆に呼びかける」ことに比重を置いています。「いや、その両方だ。私達は主に祈ることも決して忘れてはいない」と主張することはできますが、果して実際はどうでしょう。教会の命でありその最も中心的な場所であるミサ聖祭の中で殆どいつも会衆の方ばかり見ている司祭の心が、果して司祭自身の心掛けによって十分主への祈りに導かれるでしょうか。言葉上の主張ではどうとでも言えます。しかし言葉上の主張でどのようにもなるほど人間の性質は自由ではないのです。ある意味柔軟なものではありません。人間の性質、自然、しくみは、神与のものだからです。
どちらのミサの形式も、それぞれの神学に支えられています。
あなたはどちらが良いと思われますか?
このビデオに何を感じますか?
2007/02/02
追記
ノヴス・オルド・ミサに関するビデオを作ってみました。
まさか誤解されてるとは思わないけど、念の為に言えば、私は「ノヴス・オルド・ミサは無効だ」などと言っているのではありません。「有効でありさえすればそれでいいのか」と言っています。「有効でありさえすれば、他の事は全て “小さな事” なのか」と。
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