読者のコメント
「二人のシスター・ルチア」論争
読者達は更なる疑問を提出する
目撃者証言
2006年5月31日
天の元后聖マリアの祝日
TIAの親愛なる友人の皆さん
私は、あなた方のウェブサイトに表示された写真をめぐって「二人のシスター・ルチア」の上にほとばしり出ているこのファチマ論争の推移を、深い関心を持って見続けています。
私は、深く考えた末、ここには論争があっては〈ならない〉と思うようになりました。
表示された写真を比較するシリーズは、最も説得力のあるものです。実際、それらの写真は、そこに「二人」の別々の人物が映し出されていることを明らかに示しています。
聖母の元々のメッセージとご出現に直接関わっている全事柄に対する固執において一貫し、決してブレることのなかったシスター・ルチアの証言が見られた「多年」の後に、近年ここしばらくの間、彼女の精神的なスタンスにおける(非常に明らかな)「変化」についての世界的規模の混乱がありました。
初期の言葉を継続的に「反転」するその態度は、ルチアのものとして知られるに至った(そしてたびたび観察された)彼女の公的な場所における振る舞い方の明らかな外的変化と組み合わさって、最も悲劇的にも、ローマ・カトリック史上聖母出現としてはおそらく最大のものであったであろうものの「真実」そのものに対する、何千という(あるいはおそらく数百万さえの)信者達の信仰の基礎部分を、非常に顕著な形で縮小させるに至りました。
そしてこのことは、このご出現が、1917年10月13日にご出現地において太陽が空から急落下するのが7万の怯える人々によって目撃され、しかも当のポルトガル地域から遥かに離れた場所からでも見られたという、正しく聖書的規模の極めて強力な説得力を持った奇跡であったにも拘らず、そうなのです。
ここで、私の個人的な見解を披瀝させて頂きたいと思います。これは、TIAに対する私の自発的な投稿です。これをあなた方のウェブサイト上で直ちに使って下さっても構いません。
最近、あなた方の驚くべき写真の比較を見た時、私は即座に「別の」シスター・ルチアを認めました。
1982年5月、ヨハネ・パウロ二世のファチマへの教皇訪問を取材するために、私はポルトガルにいました。
私はフリーのジャーナリストでしたが、国際プレス部隊の一部として、カナダの代表として、完全に公認されていました。私の証明書には、ここオタワ(私達はカナダの主都の人間でした)のポルトガル大使館からの公式書簡と、INS通信社が出したリスボンへの到着を認める他の関係書類が含まれていました。
これらの公的許可証の類は、私と私の「ニュース・クルー」がヨハネ・パウロ二世とその随員達のいる場所-----大聖堂の正面扉の前に式典のために教皇席が設営された場所の近辺など-----に常時立ち入ることを可能としました。
私達の証明書の中には、私のワーカー達が運転する報道用のバンに付ける「PRESS」と大きく書かれたステッカーも含まれていました。それは私達が全てのバリケードを通過することを可能にし、とうとう大聖堂の横にある扉の一つのそば、「教皇用自動車」の近くに私達の車両を停めることさえ可能にしました。
コインブラからの車が「シスター・ルチア」と他の二人のカルメル会修道女を乗せて到着した時、私はほんの二、三歩しか離れていないところから、シスター・ルチアが車を降りるところを見ました。
私が見た女性は、私は今はっきりとそう言うことができますが、あなた方のウェブサイトで「シスター・ルチア2」と表示されているその人でした。このことに関しては、私の心に全く疑いというものがありません。
その人は、あなた方のウェブサイトで本物のファチマの幻視者として表示されている「シスター・ルチア1」の人ではありませんでした。私はこのEメールに「シスター・ルチア2」の写真を添付します。そのどちらもあなた方のウェブサイトからダウンロードしたものです。一枚には「Lucy II(1)」、もう一枚には「Lucy II - Smiling -(3)」とマークされています。
右のこれらの写真は、特に「Smiling」と振られた方の写真は、1982年5月12日、私がファチマ大聖堂の側面の扉を出た直ぐのところで、コインブラからの車から降りて来るのを見たその女性そのものです。
このことは、少なくとも1982年というかなり昔から(約25年前から)「本当のシスター・ルチア」は全く別の女性と置き換えられていた、ということを意味しています。一人の詐称者... それが今までずっと「本当のシスター・ルチア」の「役」を演じて来た、ということです。
このことは、態度の「変化」、精神的スタンスの「変化」、そしてとりわけファチマ・メッセージそのものの「変化」を確実に説明するものです。
私はまた、次のことにも言及しなければなりません。即ち、この結論は、私が今から6ヵ月前から8ヶ月前以内に或る友人から聞いたことを裏づけるようである、と。彼は傑出した世界的に有名なカトリックの科学者であり、その時、ロンドンにある彼の自宅から私に電話をして来たのでした。
彼は私に言いました。「シスター・ルチアは数年前に亡くなったよ。彼女を診ていた医者は僕の親しい友人だったんだ。彼は僕にこう言ったよ。ある時コインブラのカルメル修道会から電話があって、『あなたのお仕事はもう必要なくなりました』と言われた、と。」
いったい、「本当の」シスター・ルチアには何が起こったのでしょうか?
そして、2000年7月、バチカンがラッツィンガーの「解釈」付きで「ファチマ第三の秘密」を公開し、そしてロスアンジェルス・タイムズが「ラッツィンガー枢機卿はファチマの地位を低下させた」と伝えた時以来... 今、そこにいるのは誰なのでしょうか? コインブラの墓地から掘り返されたとされているのは誰なのでしょうか? 今、ファチマ大聖堂で、「ファチマの本当の二人の幻視者」のヤシンタとフランシスコのそばで眠っているのは、誰なのでしょうか?
そして、「本当の」シスター・ルチアの「本当の」お墓はどこにあるのでしょうか?
あるいは、実際は彼らは「本当の」幻視者の墓を掘り返して(亡くなってから何年ぐらい経っていたのでしょうか?)、そして「彼女」を大聖堂に埋めたのでしょうか?(とにもかくにも、そこが彼女のいるべき場所です!) そして、2005年2月13日以降棺に納められたところを写真に撮られていたあの女性については?
そして、全ての中で最も重要なこととして、もし「本当の」シスター・ルチアが何年か前に亡くなっているなら、死亡証明書はどこにあるのでしょうか? 正式な死亡原因は何なのでしょうか? そして、誰のサインがそれを宣言しているのでしょうか?
Cordially,
Anne McGinn Cillis, フランシスコ会第三会
Executive Director, パードレ・ピオ協会
パードレ・ピオ・ナショナル・センター, オタワ, カナダ
肖像画家が二人のルチアを見る
親愛なるホーヴァット博士
二人のシスター・ルチアの写真に光を当てて下さいまして、ありがとうございます。私は、成人してからの全ての生涯にわたって肖像画家を生業として来た者であり(全国共和党議員委員会のために、これまで二人の合衆国大統領の肖像制作を依頼されたりして来ました)、多年の間、多くの人の顔を見て来ました。
あなたが提示して下さいました写真を見た後、私は、誰の目にも明らかであることとして、次のようなこと以外の結論はあり得ないと思うに至りました。即ち、1917年から1940年代後期までの第一期間と、1967年から2005年までの第二期間 [1] とでは、その両者において「シスター・ルチア」のものとされている写真は、どのような意味でも同一人物の写真であることはできません。
そして、おそららく「第三のルチア」ではないかと思われるもう一つの写真が、『ルチア自身の言葉によるファチマ(Fatima - In Lucia's Own Words)』という本の表紙に使われています(それはおそらく、非常に疑わしい人物である Kondor 神父によって1963年に撮られた写真を複製したものだと思われます)。その写真の中でカルメル会の修道服を着ている女性は非常に肥えており、その顔も丸々としたもので、あなたの写真に見られる他の二人のシスター・ルチアのどちらにも似ていません。[2]
あなたの研究は、近年ここしばらくローマの可見的教会構造を占拠して来た犯罪分子、また現在でもなお世界に自らをカトリック教会の合法的指導部として指し示している犯罪分子を晒し出すことに、著しい働きを為しました。あなたのこの貴重なご努力が、バチカンにおけるこの詐欺行為に最終的な打撃を加え、「コンシリアー・チャーチ」として知られる「トランプの家」を打ち崩すものとなりますように。
Sincerely,
G.G.
カトリック信者には知る権利がある
親愛なる編集者様
私は、次のように信じます。私達カトリック信者は、本当のシスター・ルチアをもう一人のシスター・ルチアと置き換えた(本当のシスター・ルチアが見られなくなって、あるいは公的に写真に撮られなくなって何年も経ってから置き換えた)というこの詐欺を、果してカルメル会が行なったものかどうかを、この時代に利用可能となっている論争の余地なき科学的証拠をもって知る権利を有している、と。ルチア・ドス・サントスの今も生存している直系の人々に対してDNA検査をすることで、教会が恐ろしい詐欺*を犯して来たという事実を決定的に証明する(法的証拠として)ことができる、と考えます。(*それは、一般に聖なる人であると思われている幻視者をそこに置くことによって新しいミサに神聖な外観を与え、それを新しいミサに対する追認とするといった、そのような意図のもとに行なわれた可能性があるばかりでなく、一年につき1000万ドルにもなるファチマ献金を維持するために行なわれた可能性が十分にあります。)
発掘が確実に要求され、そしてそれがこの論争を健全な形で促進する限りは、私達はおそらく第一段階として、毛髪、爪、その他の遺物を第一級的な証拠物として採取することができるでしょう。これらはDNA検査のために十分に採取されなければなりません。そして、当地においては既にこの目的のために提供できる遺物を誰かが持っていることが十分に考えられます。比較の対象としての親戚の所在地を掴むことがその先にあります。しかし、それはおそらく比較的容易なことでしょう。DNA検査による詐欺の証明は、バチカンをさえ、事の真実から逃れられなくさせるに違いありません。
私は、このたぶらかしを暴露して下さったことを、あなたに心から感謝したいと思います。私自身にとっても彼女らの顎の違いは、歯に次いで最も明白な証拠となるものです。次に、シスター・ルチア2の右目(写真では向かって左の目)には、しばしば遺伝的なものである視線の内側への偏りが見られます。私の三番目の息子はこの欠陥を彼の母方の祖母から受け継ぎましたが、その彼女もまた、自分の母親からそれを受け継いだのでした。私の息子はこの問題を解決するために手術を受けました。最初のシスター・ルチアは、このような欠陥を持ってはいません。
加えて言えば、このミステリーの一部である「シスター・ルチア2は実際のところ誰であったのか」ということが、今や特定されなければなりません。本名は何というのか? 何故このようなことをしたのか? もし、「Unsolved Mysteries(未解決のミステリー)」のような調査レポーターがこの問題を扱うことを決めれば(彼らは調査のための資金とノウハウを持っています)、詐称者の有望な候補者が見つかるかも知れません。詐称者の親類もまた、右目における視線の内側への偏りを持っているかも知れません。また、他の同じ顕著な特徴も持っているかも知れません。私は、彼らが調査するように、あなたがこの問題を彼らに送るよう望みます。この問題は人々の注目を非常に集めることができ、またそれ以上に重要な事柄であるので、彼らのような人達が取り上げることを好みそうな題材です。この問題は、彼らにとっての功績のため、また私達にとっての利益のために、たとば Prime Time などの報道の中で暴かれ、解決されることが可能です。
ところで、私はちょうど今、読者からあなたへの手紙の一つ[ここをクリック]の中で触れられていたカルロス・エヴァリストという人のことが或る記事[ここをクリック:文字化けする場合はブラウザのテキストエンコーディングで Shift JIS を選択]の中で書かれており、その中で、彼がシスター・ルチアとの間で持ったインタビューについて言っていことは結局のところ真実であったろう、と思われつつある [3] ことを発見しました。当時彼は、嘘つきである、と中傷されていました。何故なら彼は、シスター・ルチアならそのような酷いこと[例えば、以前言ったことを否定すること、また、ロシアの奉献は為されたと断言すること]を言う「筈はない」、と主張していたからです。彼はまた、自分が本当のシスター・ルチアと話していたという確信さえない、と言いました。(そして残念なことに、このことが、彼の信用を低めることになりました。)
カルロス・エヴァリストと
疑わしい「シスター・ルチア2」
1992年10月11日
その記事から引用します: ツーガイブ博士(Dr. Zugibe)の言うことに従えば、エヴァリストは「自分と彼女[シスター・ルチア]とが写っている写真を持っていたが、しかしそこに写っているのはシスター・ルチアではない、と考えていた」。そして彼はツーガイブ博士に、それが本当にシスター・ルチアであるという結果を出すかどうかを見るために、その写真を「擬人化検査(anthropomorphic study)」にかけることを要望した。
十分驚くべきことに、エヴァリストは、自分は今まで二度(1992年と1993年)シスター・ルチアとのインタビューを持ったと言いながら、しかも写真の中で彼の横に立っている女性がシスター・ルチアであるかどうかさえ確信がない、というです。二度も彼女とのインタビューを持った、と言いながらです!
In His Sacred Heart,
C. S. G.
管理人注
[1] 「1917年から1940年代後期」...「1967年から2005年」
この二つの期間の間のおよそ20年間、シスター・ルチアは公衆の目から見えなくなっていた、ということでしょうか。何故でしょうか。
この二つの期間の間に何があった、あるいは「あるべき」だったでしょうか。
1. シスター・ルチアは、「ファチマ第三の秘密は1960年に公開されなければならない」と言い続けていました。
2. この期間に、第二バチカン公会議がありました。
そうして奇異なことに、その1960年が沈黙のうちに過ぎ、次いで第2バチカン公会議(1962年~1965年)も無事に?通り過ぎ、それから僅か2年後の1967年5月13日のファチマ記念日にシスター・ルチアはファチマでパウロ六世教皇様とお会いになり写真に収まり、それを皮切りのようにして、以降シスター・ルチアの公衆への露出が俄然と多くなって行ったのでしょうか。そうして性格も急に明るくなり社交的になり、あたかもファチマ預言そのものが重さをなくし、そのことをシスター・ルチアが身をもって「体現」するかのように、彼女は変わって行ったのでしょうか。
[2] おそらくこの写真のことでしょう。
[3] 私の訳が間違っているのでしょうか。その記事の中でクリストファー・A・フェララ氏は、エヴァリスト氏のことをむしろ「信用できない翻訳者」としているようですが。
しかし第一に、クリストファー・A・フェララ氏はこのカルロス・エヴァリストという人に関する人物評価を間違っている可能性がある、と私は思います。
そして第二に、それはさておき、何はともあれ、他のことはどうであれ、このページにおける最初の読者が言っているように、「ここには論争があってはならない」と私も思います。写真がこれほどはっきりしているのですから。私達は限度を知らない好奇心に突き動かされる「ミステリー愛好家」ではないのですから。
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