2014.03.02

現代世界憲章は反キリスト文書である Part 2

 では、今回と次回で、「現代世界憲章が如何にAA1025の着想通りに主のそのお祈りの意味を "拡げて" いるか」を説明します。

 「憲章を検討する」ために最も理想的なのは──専門家にとっては普通でさえあるのは──その原典(ラテン語版)に当たることでしょう。しかし、私はラテン語を理解しないので、先ずは(あとでラテン語版にも触れますが)日本語版と英語版の二つを相手とします。
 (それらの翻訳版には異常があるのですが、実は、それは憲章の筆者の意図に異常があるからなのです。それを追々説明します。)

 検討の対象は、憲章の24番の最後の段落、そしてその中で扱われている主の「 "一つ" になるように」のお祈りです。

現代世界憲章(Gaudium et Spes)24 最後の段落

 なお主イエズスは、「われわれが一つであるように……すべての人が一つになるように」(ヨハネ 17・21〜22)と父に祈ったとき、人間理性が達することのできない視野を示したのであって、三位の神格の一致と、真理と愛における神の子らの一致との間の、ある類似をほのめかしている。この類似は、そのもの自体のために神が望んだ地上における唯一の被造物である人間が、自分自身を無私無欲の気持ちで与えなければ、完全に自分自身を見いだせないことを表わしている。

 Indeed, the Lord Jesus, when He prayed to the Father, "that all may be one. . . as we are one" (John 17:21-22) opened up vistas closed to human reason, for He implied a certain likeness between the union of the divine Persons, and the unity of God's sons in truth and charity. This likeness reveals that man, who is the only creature on earth which God willed for itself, cannot fully find himself except through a sincere gift of himself.

注)ちなみに、日本語訳は「なお」という言葉で始まっていますが、英語訳は「Indeed, 」という言葉で始まっています。ラテン語でもそのようです(Immo)。その言葉は「事実、」とか「実際、」とか「無論、」とか「全く、」とか訳される強調の副詞ですが、第二バチカン公会議以降、なかなか信用の置けない言葉になりました。

 さて、上に見るように、憲章の日本語版と英語版は、イエズス様のそのお祈りを、次のように書いています。

すべての人が一つになるように
that all may be one

 果たして、これらの言葉は聖書に忠実でしょうか。

 聖書を見てみます。
 日本語はバルバロ訳から。英語はドゥエ・ランス版から。

20

かれらのことばによって私を信じる人々のためにも祈ります。
I pray (…) for them also who through their word shall believe in me;

21

みなが一つになるように
that they all may be one

かれらも、私たちにおいて一つになるように
that they also may be one in us

22

かれらも一つであるように。
that they may be one

23

かれらが完全に一つになるように
that they may be made perfect in one

 焦点は21節のお祈りです。
 聖書と憲章を比較してみます。

聖書

みなが一つになるように

憲章

すべての人が一つになるように

聖書

that they all may be one

憲章

that all may be one

 変だと思いませんか?

 ちなみに、フランシスコ会訳では「みんな」となっています。

 英語の聖書の他のバージョンも見ておきましょう。
 オンラインで読めるカトリックの聖書から、21節の初めの部分です。

that they may all be one; even as thou, Father, art in me, and I in thee,

Revised Standard Version Catholic Edition (1965–66)

May they all be one, just as, Father, you are in me and I am in you,

New Jerusalem Bible (1985)

so that they may all be one, as you, Father, are in me and I in you,

New American Bible Revised Edition (1986)

 さて、人というのは文章を読む時、単語を読むばかりでなく文脈をも読みます。と云うか、文章を読むとは、単語を知った上で文脈を読むことです。

 それで、イエズス様のこのお祈りの場合、そこに「みな」という言葉があっても、普通の言語能力を持った日本人であれば、その前後関係から、文脈から、それを難なく「(信者に於ける)みな」と受け取ります。
 「みな」で結構なのです。日本語に於いては。

 しかしそれでも、言葉の表記に於いて、英語の方が本来の意味をよりはっきりと表わしているというのも本当です。
 ドゥエ・ランス版はそれを「they all」としています。聖書の他のバージョンでも、上に見るように、同様です。

 つまり、英語という言語に於いては、それは漠たる「みな」ではなく、必ず「they all」なのです。
 つまり、そこには必ず「they」という人称代名詞があります。

 ひょっとしたら、日本人は思うかも知れません。「バルバロ訳の『みなが一つになるように』がいいならば、英語で『that all may be one』と言ったっていいのではないか」と。しかし、英語は日本語よりも「明確に言う」言語でしょうから、この場合、20節で「I pray for them」と言われている限り、その「them」を引き継いで、21節でも「they」を省略しないのが普通であり、正常でしょう。これは間違いのないことでしょう。(確か高校で習ったデス)

 私が偉ぶって言うことではありませんが、英語と日本語は言語としての性格が違うのであります。

 もう一度、英語の聖書、ドゥエ・ランス版を見てみます。
(いちいち英語の聖書の他のバージョンを複数引用するのも煩雑なので、ドゥエ・ランス版のみ見ます。問題ない筈です)

21

that they all may be one

that they also may be one in us

22

that they may be one

23

that they may be made perfect in one

 次のことが観察されます。

 (1)主は、この一連のお祈りの中で、「一つになるように」というフレーズを4回出しておられる。しかし、「all」が登場するのは、その内の1回だけである。

 (2)この4つのお祈りの文に於いて、主語はどれも「they」という人称代名詞である。「all」は単独で使われていない

 ですから、これら一連のお祈りの中で、「all」という語は必ずしも存在感が大きくはないのです。

 私は英文法を大方忘れました。否、もともとあまり知らないのかも知れません。それで、私は初め、「they all」の「all」を副詞かと思いました。が、調べてみると、それは人称代名詞(they)と同格の代名詞であるようです。と云うことは、「all」も主語の一部ではあるのでしょう。しかしそれでも、「副詞的」ではあるのではないでしょうか。素人の感覚と言い方ではありますが、「they」も「all」も共に主語を構成するものではあっても、言ってみれば「they」が "主" であり「all」が "従" であるのではないでしょうか。いえ、私は確信します。人が誰か具体的な人を指して言う場合、人称代名詞が主語の "核" として立つに決まっています。

 そして、いずれにせよ、これは確実です。
 「all」は単独で使われていません。

 つまり、「all」という言葉にイエズス様の願いの大きさが現われているとは云え、それはもともと "主人" ではないのです。
 然るに・・・

 憲章(の英語版)に於いて、それは "大きな顔" をしています。
 この "副詞的なもの" は、主人を喰っています。
 その場所を奪っています。

 「フリーメイソン」についての話を苦手とする人がまだ多いのかも知れませんが、私は言わずにはいられません。これはこれだけで既に十分「フリーメイソン的な情景」です。

 英語版と日本語版についてまとめます。

英語版
 主のそのお祈りを、(1) 聖書の表記に倣い、(2) 聖書の文脈に従い、(3) 英語という言語の慣習を守って「I pray for them that they all may be one」と書くことをせず、「I pray for them that all may be one」と書く憲章の英語版とは、いったい何なのか。

日本語版
 憲章の日本語版はそれを「すべての人」と書いています。ここに問題はないでしょうか。
 ないわけはありません。何故なら、私達日本人の言語感覚にとって、「みな」と言う時よりも「すべての人」と言った時の方が、圧倒的に文字通りの「すべての人」と結び付くからです。
 その言葉は、私達の目に向けて、信者/非信者の別なしの「すべての人」という意味を、あからさまに投げつけています。

 要するに、両者ともこれに背いています。

Point 1
 イエズス様のそのお祈りの中の「みな(all)」と云う言葉は「信者」のことを意味している。

 従って、私は、憲章の英語版も日本語版も天主の聖言[みことば]に反していると思います。「裏切り」の、「捏造」の翻訳だと思います。単に「誤訳」なのではなく、謂わば「偽訳」だと思います。
(あなたがAA1025のことを信じられなくても、この事自体は認めて下さい。たとえ「偽訳」とまで言う気にはなれなくても、少なくとも「大いなる誤訳だ」と云うぐらいには。)

真の犯人は翻訳者達ではない。憲章の筆者である。

 しかし、それにしても、それらの翻訳者達は何故そのようなことをしたのでしょうか。英語版の翻訳者は、英語の聖書に於けるあのような表記を知りながら、「all」とだけすることに罪悪感を感じなかったのでしょうか。日本語版の翻訳者は、本来は「(信者の)彼ら皆」の意味であることを知らなかったのでしょうか。

 その疑問への解答の一つとして、私はこう言おうと思います。
 彼らは「翻訳者」であったのである。「カトリック信者」であるよりも。つまり、彼らは「カトリックの信仰」に忠実であるよりも「翻訳の仕事」に忠実であったのである。(最悪)

 すなわち、もっと核心的に言えば、その疑問への解答は次のようになります。私はこれを断定します。

 彼ら翻訳者がそうであるのは、現代世界憲章の筆者自身が、その「みな」という言葉を拡大解釈しているからである。

 もしこれが本当ならば、あなたはここに、彼とAA1025との少なくとも "類似" を見て下さい。

 さて、ここでようやくラテン語に触れます。

 憲章のラテン語版は主のそのお祈りを次のように書いています。
 「omnes unum sint..., sicut et nos unum sumus

 これは聖書に忠実でしょうか。

 聖書のその箇所をラテン語ヴルガタ訳で見てみます。

 それはこうなっています。
 「omnes unum sint, sicut tu Pater in me, et ego in te

 トリエント・ミサについての記事を書いていながら、私は結局、ラテン語を勉強していません。それ故、確かなことは言えません。以下、何か間違ったことを言いましたら、お許し下さい。(しかし、その場合も、検討の大勢には影響ない筈です)

 言葉の並び(omnes unum sint)から見て、憲章のラテン語版は主のお祈りの表記自体は変えていないようです。Google の機械翻訳で探ってみれば(情けなや..)、「omnes」は英語の「all」に当り、 「unum」は「one」に当り、そして「sint」は...「may be」でしょうか。・・・そんな感じなのでしょう。

 つまり、英語の「all may be one」は、このラテン文を機械的に単語を置き換えた時にできる形なのかも知れません。また、私はラテン語の性格を知らないけれども、もしかしたら、このラテン文は、日本語の「みなが一つになるように」という漠とした言い方にも多少似たところがあるのかも知れません。(臆測)

 しかしながら、「憲章のラテン語版、憲章の筆者は、主のお祈りの表記を変えていないから、それでいい」のではありません。決して。問題はそれでは全然終っていません。本当の問題は「語句」にはなく、「文脈」にあります。

 バルバロ訳の「みなが一つになるように」だって、文脈によっては悪用することができるのです。その「みな」を秘かに──或いは "半ば" 秘かに──「すべての人」の意味で使うことができます。

 憲章の筆者が、実際、そのようなことをしています。
 彼は、聖書の表記通りに「omnes unum sint」と書きながらも、その「omnes」に文字通りの「すべての人」にまで拡大された意味を与えています──と云うよりも、そこからそれを "引き出して" います。"無理" に。理の無い形で。(次回に説明します)

 その意味では、憲章の筆者に最も忠実だった、過剰なほどに忠実だったのは日本語版の翻訳者だった、と言えるでしょう。

 そして、私はこれも言いたいです。
 彼、憲章の筆者が、そのようなことを「無意識的にした」という可能性はありません。何故なら、彼は教会人でしょうから。私でも分かる聖ヨハネ福音書17章の20節と21節の関連を、或いは例の "対置" を、彼が知らぬ筈はありませんから。
 彼は自分が何をしているのか知っていました。つまり「故意犯」です。
 だから、私は言うのです、「彼はもう一人のAA*である」と。

* AA: Anti Apostle, 反使徒

注)私は彼のことを「彼」と単数で呼んでいます。複数で呼んでみるべきでしょうか? 否、そんなことは本質的なことではありません。

 さて、やっと「文脈」の話に入ります。

現代世界憲章 (Gaudium et Spes)

日本語版全文(外部サイト、タイプミス多し)

各国語版入口(バチカン公式サイト)

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