第21章

外感を収むる法、及びこれを神事の観想に利用する法

 外感をよく治むるには、注意に注意を加えて大いに勉励せねばならぬ。感覚的嗜慾は我らの腐敗せる性質の大将のようなもので、快楽と五官の満足とを求むるに非常に傾いておるから、自分ばかりではこの目的を達することが出来ぬ故、五官を己が兵卒の如く用い、これを己が自然の機関の如くしてそれぞれ目的の物を捉えさすようにする、なかんずく感覚的想像を使用し、これを我が物のようにして精神へ銘刻するのである。想像の末には快楽が起り、快楽は肉慾と密接の関係があるから、やがて快楽を受け得る性のある感覚的部分にあまねく行き渡るのである。斯くの如く霊魂の上にも肉身の上にも同じように感染を及ぼし、霊肉に己が腐敗の毒を吐きかける。

 そこが危険であって、今やその予防法を示さねばならぬのである。

 先ず我らは何時でも、五官を恣[ほしいまま]にさしてはならぬ、五官を使用するのは、善き目的、有益、及び必要の為にして、決して楽しみの為にばかりしてはならぬ。もしも五官が我らに不意を喰わして行き過ぎたと思わば、直ちにこれを引き戻すようにするか、もしくはこれを善き方向へ誘導して、賤しき快楽に閉じ込められる代りに、その五官に関わる事物を利用して、霊魂を富ます方法を採らねばならぬ。その時に我らは、我が心に立ち戻り、聖寵の羽をかって観念しつつ、心を天に上げるのである。そこで我らのこれが為に、執るべき方法はこうである。

 何事によらず、被造物が五官の一に掛かった時は、被造物そのものとその中に在る精神とを分けるように考え始めねばならぬ。被造物そのものとしては、我らの五官に感ぜしむるものを何も持っておらぬ、彼は全く皆神の業である。神はその精神と同時に、その現存する事、その善き事、その美なる事、またその中に在る凡ての得点をも、見えずながら与え給うのであると云う事を考えねばならぬ。而して我らは、神のみ万物に在る諸々の美善の造り主、本源にして、これらの美善は悉く御自分の中に限りなく兼ね合わせらるる事を見て、大いに喜ぶ筈である。これら被造物の美善は皆これ神の無限なる美と徳との不完全な発表に過ぎぬもののように、我らの目に映るであろう。

 我らの精神が被造物の特質に感じて、その感嘆に取られておると認めたならば、心中密かにその真実に虚無なるものであると云う観念を浮べるように注意し、なかんずく無上至尊の造物主が、その被造物の中に顕れるが如く、これに存在を与え給うたのであると云う事の観念に、意を注がねばならぬ。そうすれば、神のみを楽しみにして斯く云わん、「嗚呼、無限に愛望すべき神の本性、これのみ万物無限の本源にてましますとは、我れにとりて何よりも愉快なる事である」と。

 これと同じく木や花や、その他の美を極めた天然物を見た時は、見えざる神に我らの精神を引き上げ、神はこれらにその自ら持っておらぬ生命を与え、その力ばかりでこれを活かし給うのであると考え、斯く云うがよい、「嗚呼、これぞ真正なる生命の存する所、万物の生存し発育するは皆神に因って、神にあって、また神の為である、嗚呼、神の聖意、これのみ我が生涯の喜びなり」と。

 無知の動物もまた、これ我らの心を神に引き上げる機会と成るものである。我らは神がこれに感覚を与え、運動を与え給うのを見て、斯く云うがよい、「嗚呼、万物の元主、万物は皆主の周囲に動けども、主のみ不動なり、我が神よ、斯く主の不動不変を観想するは、我れにとりて幸福なり」と。

 我らが被造物の美に引き取られると覚えた時は、速やかに、その見える所のものより見えぬ所の精神を引き分け、外観に顕れる凡ての美は皆これ見えぬ精神より出で来たるものであって、これのみ五官に触るる凡ての徳の造り主であると考え、歓喜に満てる心を以て斯く云わん、「嗚呼、これぞ造られざる泉より流れる小川なり、この美は万美の限りなき大海の一滴に過ぎず、嗚呼、我れは作られたる凡ての美の原因且つ理由なる無始無終広大無辺の美を考うれば、心中歓喜に耐えざるなり」と。

 他人の中に仁慈、賢明、正義、及びその他の善徳を認むる時にも、やはり前章に記したる通りに分別して、神に向って斯く云わん、「嗚呼、限りなき萬徳の宝蔵にまします神よ、善徳は皆主より、また主によってのみ出で来たる。自余の物は主の盛徳に比すれば数うるに足らず。我れはこれを見て愉快に耐えざるなり。主よ、我れは主の我が倫人に付与し給える美徳につき、主に感謝し奉る。願わくは、主よ、今や我が徳に乏しきを見そなわし、斯く斯くの徳の大いなる欠乏を憐れみ給え」。

 また何か手業を始めようとする時、神はこの業の元主である、我らはただその全能の活ける器械に過ぎぬと考え、我らの思いを神に引き上げて斯く云わん、「万物の最上主、我れ主に頼らざれば何事もを行う能わずして、主が万物の大本源なるを認め、大いに喜び奉る」と。

 食物を食べる時は、神が味をこれに与えて下さると考え、神のみを楽しみにして、斯く云わん、「嗚呼、我が心喜べよ、汝の神の外に真正の楽しみあらざる如く、何時も如何なる所にも、神に於てのみ楽しみを味わう事を得るなり」と。

 もし我らが感覚に適する香物を楽しむならば、その楽しみに心を止めずして、なお思いを神に引き上げ、神は萬香の出で来たる本源にてましますと考え、この観念を喜びつつ、心の底より斯く云わん、「主よ、我れ、香気は皆主より出で来たると思えば喜びに耐えず。請い願わくば、我が心地上の凡ての快楽を脱し、主の尊前に上りて、芳しき香を発するを得しめ給え」と。

 歌などの良き調子を聴くならば、精神を神に引き上げて斯く云わん、「我が主よ、我が主よ、主の無限の美徳を見るは、我れにとりて何たる愉快ぞや。ただにこの如く集合して、主に於てのみ天の良き調子を呈するのみならず、この良き調子は、天に於ける天使の合奏に於ても聞こえ、また万物はこれを珍しき合調に於て再び呈す」と。

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