第34章

徳は徐々漸々にして順次に得べき事

 キリストの真正なる兵士にして完全徳の頂に達しようと望んでいる者は、その徳の道に於ける進歩に限界を付ける筈はないが、しかしながら熱心の発動があって殊に初めのうちにあまり熱気を以てこれに身を委ねれば、その熱心は途中で俄かに途切れることがあるから、程よくこれを抑える事を知らねばならぬ。既に外部の修業には程度があると云う事を述べたが、その外に尚また内部の徳は殆ど徐々[そろそろ]と漸々[だんだん]に求めるものであると云う事を知らねばならぬ。この時に少しずつ行うことが、積もり重なって永く続くのである。例えば堪忍の徳の最も下のだんから昇って行った後でなければ、困難を望んでこれを喜ばん事を練習しようなどと云うのはあまり良い方法ではない。

 萬徳はもちろん数徳でも、同時に練習せぬようにして漸々に一個ずつ取り掛かるがよい。そうすれば我等の心は一層容易く一層堅固に、徳の習慣が付くであろう。絶えず一つの徳の修練に従事すれば、その紀念〔=記念?〕が如何なる場合にも一層速やかに浮び出て、我等の知識は尚一層巧みにこれを求める方法と理由とを認めるであろう。また我等の意志は数徳を同時に練習するよりも尚一層容易くまた尚一層愛念を込めてこれに向うであろう。

 それから、業が一個の徳に集まれば、相互いの一致合同の為に仕易くなり、互いに似寄っているから、相呼び相助け合うのである。また、似寄っているので、我等の心に尚深き感じを与えるのである。この似寄りの点を以て前の業が呼び起された如く、もう新たに起る業を受け入れる準備が出来ている。

 既に述べたところに、別けて〔=特に〕力を添える事実がある。即ち、真面目に一つの徳を練習する人は全ての徳をも練習することになる。それで、一つの徳の増加は、他の全ての徳の進歩を来たす。これは決して怪しむべき事ではない。何故ならば、徳は全て同一に皆神明の光線に過ぎぬので、相互いに密接し関連して離されぬものであるから。

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