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7.不完全な愛

第66章

聖体の秘蹟にちなんで、口祷から念祷に移る方法が示されたことについて。──霊魂が受けた一つの示現について。

 いとしいむすめよ、霊魂は、謙遜で、忠実で、絶え間ない祈りに堅忍することによって、あらゆる善徳を獲得することができるのである。それゆえ、堅忍しなければならない。悪魔の欺瞞によっても、自分自身の弱さによっても、すなわち、自分の肉のなかに起きる思いや衝動によっても、悪魔が霊魂に祈りを止めさせるために、しばしば被造物の口に語らせる言いがかりによっても、決してこれを止めることがあってはならない。これらすべてを、堅忍の徳によって克服しなければならない。
 ああ、自分自身の認識とわたしの認識との独房のなかでおこなった聖なる祈りは、この霊魂にとってどんなにたのしく、わたしにとってどんなに心地よいことであろうか。そのあいだ、知性は信仰の光明に照らされてその目を大きく開き、情念はわたしの仁愛のゆたけさのなかにひたるのである。この仁愛は、その「血」によってこれを示したわたしの見える「子」によって、あなたがたに見えるものとなった。この「血」は、霊魂を酔わせ、これを神的な仁愛の火に燃えさからせる。霊魂は、わたしがあなたがたのために、聖なる教会の神秘体の宿舎に委託した秘蹟を、食物として与えられる。この秘蹟とは、まことの神であるとともにまことの人であるわたしの「子」の「体」と「血」である。わたしは、この「血」の鍵をもつわたしの代理者の手に、その管理を委ねた。
 この宿舎は、すでに話したように、「橋」のうえに、わたしの「真理」の教えに従う旅人と巡礼者とに食物を与え、力をつけさせて、中途でたおれることがないようにするために、設けたものである。
 この食物は、これを食べる者の望みに応じて差はあるけれども、また、どのような方法でこれを食べるにしても、すなわち、秘蹟的に食べるにしても、実効的に食べるにしても、力を与える。秘蹟的にというのは、聖なる秘蹟を現実にさずかることである。実効的にというのは、聖なる望みによって、すなわち、あるいはこれをさずかることを望むことによって、あるいは十字架につけられたキリストの「血」を観想することによって、これをさずかることである。別の言葉で言うならば、わたしの「仁愛」の情念をさずかることであり、愛によって流された「血」を見出し、味わうことである。聖なる望みによって酔わされ、燃え立たされ、飽かされ、わたしに対する仁愛と隣人に対する仁愛とに満たされることである。
 霊魂はこれをどこで獲得するのであろうか。自分自身の認識の独房のなかで。聖なる祈りによって。弟子たちとペトロとが、家の中にこもり、徹夜の祈りのなかで、その不完全を棄てて完全を獲得したように、霊魂はそこでその不完全な状態を去るのである。どのような方法で。聖なる信仰と一つになった堅忍によって。
 しかしながら、祈りによって受ける情熱と栄養は、多くの霊魂のように、口祷だけの効果と見なしてはならない。かれらの祈りは、愛によるよりは言葉によるものであり、かれらの関心は、できるだけ多くの詩編を唱え、できるだけ多くの「主の祈り」を唱えることにあるように見える。目ざしていた数を満たしたならば、その他のことは気にしないかのようである。かれらは、祈りの目的をただ唱える言葉だけに置いているようである。そうであってはならない。なぜなら、その祈りからわずかの効果しか引き出すことができないし、わたしをそれほど喜ばせることができないからである。
 しかし、あなたは言うかもしれない。「それでは口祷を放棄しなければならないのでしょうか。みなが念祷に適しているようには見えませんが」と。そうではない。各人はそれぞれ適度を守らなければならない。わたしは、霊魂が完全になる前に不完全であることをよく承知している。その祈りも同じように不完全である。それで、怠慢におちいらないために、まだ不完全であるあいだは、口祷にたよらなければならない。しかし、口祷を念祷から切り離してはならない。すなわち、言葉を唱えるあいだ、その精神を高く上げて、これをわたしの愛に向かわせるよう努力するとともに、自分の過失とわたしの「ひとり子」の血とを一般的に思い浮かべ、わたしの仁愛の広大さと自分の罪の赦しとを見出さなければならない。そのとおりにするならば、自分自身の認識と自分の過失の追想とによって、自分に対するわたしの「いつくしみ」を認識するであろうし、その祈りの勤行をまことの謙遜をもって続けることができるであろう。
 わたしは、霊魂がその過失を一般的に思い浮かべないで、個別的に思い浮かべることを望まない。そのわけは、その精神がある恥ずかしい罪を個別的に思い起こすことによって汚れる恐れがあるからである。霊魂はまた、「血」とわたしのあわれみの広大さとを思い浮かべないで、ただ罪だけを、個別的にも一般的にも、思い浮かべてはならない。混乱におちいらないためである。もしも、自分自身の認識と自分の罪の思いとが、「血」の追憶とあわれみの希望とをともなわないならば、霊魂は混乱におちいるであろう。この混乱は、悪魔といっしょに、霊魂を永遠の亡びにひきずり込むであろう。それというのも、悪魔は、過失に対する痛悔と罪に対する悔恨との口実のもとに、霊魂をこの混乱におとしいれるからである。霊魂は、わたしのあわれみの腕に支えられなければ、絶望におちいるにちがいないのである。
 これは、悪魔がわたしのしもべたちを欺こうとして用いるもっとも念の入った策略の一つである。それゆえ、あなたがたの利益のためにも、悪魔のわるだくみを避けるためにも、わたしを喜ばせたるためにも、いつも、あなたがたの心と愛情とを、まことの謙遜によって、わたしの果てしないあわれみに、心おきなく委ねなければならない。あなたも知るとおり、傲慢な悪魔にとって、謙遜な精神を見るのは堪えがたいことであり、絶望している悪魔にとって、霊魂がまことの希望を託しているわたしの「いつくしみ」と「あわれみ」との偉大さを見るのは我慢のできないことである。
 それゆえ、あなたもよくおぼえていると思うが、悪魔は、あなたの生活はいつわりにすぎず、決してわたしの意志に従ったのでも、これを実行したのでもなかったと言い聞かせて、あなたを絶望におとしいれようとしたのであった。そのとき、あなたは、あなたがなすべきことを、わたしの「いつくしみ」に助けられて、実行した。わたしの「いつくしみ」は、助けを求める者にこれを拒むことがないからである。あなたは、謙遜にわたしのあわれみによりすがり、立ちあがって言った。「わたしの『創造主』に告白します。わたしは、生涯を暗黒のなかでしか過ごしませんでした。しかし、わたしは十字架につけられたキリストのおん傷のなかにかくれたいと思います。そのおん血に浴して、わたしの罪悪を消し去りたいと思います。そして、わたしの『創造主』のなかで、希望をもって喜びたいと思います」。すると、あなたも知るとおり、悪魔は逃げ去ったのであった。
 つぎに、悪魔は戻って来て、あなたに別の戦いをいどんだ。すなわち、傲慢によって高ぶらせようと試みた。「おまえは完全だ。神の気に入っている。これ以上悲しんだり、自分の過失を泣いたりすることはないではないか」とささやいた。そのとき、わたしはあなたに光明を与えて、取るべき道を示した。あなたは謙遜して、悪魔に答えた。「ああ、わたしはなんてみじめでしょう。洗礼者ヨハネは決して罪を犯しませんでした。母の胎内で聖化されていました。それなのに、あれほどの苦業をおこないました。わたしは多くの過失を犯かしていながら、これを認めて悲しみ、まことの痛悔をいだき始めることさえしているでしょうか。わたしが背いた神がどういうかたであるか、背いたわたしがどういう者であるかをわかっているでしょうか」。
 すると、悪魔はあなたの精神の謙遜も、わたしのいつくしみに対する希望も、我慢することができず、あなたに言った。「おまえは呪うべき女だ。おまえにはなにもすることができない。おまえを混乱におとしいれようとすれば、あわれみまで昇るし、高ぶらせようとすれば、身をへりくだし、謙遜して地獄にくだり、地獄の中までわたしを追及する。おまえのところには、もう戻るつもりはない。おまえはいつも仁愛のむちでわたしを打ちたたくからだ」。
 それゆえ、霊魂は、わたしのいつくしみの認識を自分自身の認識に、また、自分自身の認識をわたしの認識に加味しなければならない。そうすれば、口祷はこれを唱える霊魂に有益であるし、わたしを喜ばせる。この勤行を堅忍しておこなうならば、不完全な口祷から完全な念祷に到達するであろう。
 しかし、決めた祈りの数を満たすことしか考えないならば、あるいは、口祷のために念祷をゆるがせにするならば、決してこれに到達することができないであろう。
 霊魂は、ときどき、いかにも無知で、ある数の祈りを口で唱えることをきめると、わたしに注意しなくなる。わたしは、なんらかの方法で、その精神をおとずれる。あるときは、この霊魂に自分自身をもっとよく認識させ、その過失に対するまことの痛悔を抱かせるために光明を与える。あるときは、わたしの仁愛の広大さを示す。あるときは、わたしの好むままに、あるいは霊魂の望むままに、さまざまのしかたで、わたしの「真理」の現存をその精神に感じさせる。しかし、霊魂は、その祈りの数を満たすために、その精神に感じているわたしの訪問を気にかけない。かえって、はじめた祈りを中断するのを心配する。
 もしも悪魔のわなにかかりたくないならば、そのようにしてはならない。さきに話したようなさまざまの方法で、わたしがおとずれるのを精神が気付いたならば、ただちに口祷を止めなければならない。そののち、念祷が終わって、まだ時間があるならば、唱えようと思っていた祈りを続けることができるであろう。もしも時間がないならば、心配してはならないし、精神の倦怠や混乱におちいってはならない。しかし、聖務者や修道者が唱える義務のある聖務日課は例外であることに注意しなければならない。もしそれを唱えないならばわたしに背く。なぜなら、かれらは死ぬまでこの聖務日課を唱える義務があるからである。もしも、この聖務日課を唱えなければならない時間に、その精神か望みに引かれ、高められるならば、その前または後にこれを唱えるよう配慮しなければならない。決してこの聖務日課の義務をおこたってはならない。
 その他のすべての祈りについては、霊魂はまずこれを口祷として唱えはじめ、念祷に到達しなければならない。そして、精神が念祷に移る心構えができたならば、前に話した理由によって、口祷を止めなければならない。この口祷は、わたしが話したようにおこなうならば、完全な状態にみちびく。それゆえ、その方法のいかんにかかわらず、これを止めてはならない。しかし、わたしが示した方法でおこなわなければならない。そうすれば、霊魂は勤行と堅忍とによって、まことの祈りを味わい、わたしの「ひとり子」の血にやしなわれるであろう。それゆえ、すでに話したように、ある者はこのようにして、秘蹟的にではなく、実効的に、キリストの体と血とを拝領するのである。なぜなら、聖なる祈りによって、祈る人の情愛のいかんによって差はあるけれども、神的仁愛の情念を味わい、これを分かつからである。
 思慮が浅く、方法を守らない者は、わずかしか見出さないであろう。多くを用意する者は多くを見出すであろう。霊魂は、その愛情を自由にするように努力し、知性の光明によってこれをわたしに一致させるよう努力すれば、もっとよく認識する。もっとよく認識すれば、もっと深く愛する。もっと深く愛すれば、もっと深く味わうのである。
 以上述べたことによってわかるように、多くの言葉によって完全な祈りに達するのではなく、望みの熱情により、自分自身の認識をわたしまで高め、この二つの認識を一つに結合させることによって、これに達するのである。このようにして、霊魂は口祷と念祷とをいっしょに所有する。なぜなら、この二つは、活動生活と観想生活とのように、いっしょに結合することができるからである。もっとも、口祷と念祷との理解のしかたはさまざまである。さきに話したように、聖なる望みは絶えざる祈りである。なぜなら、それは善良で聖なる意志に成り立つからである。この意志と望みとは、祈りのために定められた所と時にはたらく。そして、このはたらきを聖なる望みによる絶えざる祈りに加える。それで、霊魂は、聖なる望みと意志とを抱きながら、あるときは定められた時間に、あるときは定められた時間以外に、口祷をおこなうがよい。定められた時間以外におこなうときは、隣人の救いに対する仁愛の要求するところに従い、わたしによって与えられた状態に応じて、これを中断することなく、つづけるがよい。
 事実、各人は、その状態に応じ、この聖なる意志の原則にしたがって、零魂の救いに協力しなければらない。言葉あるいは行為によって (7) 、隣人の救いのために、外的になすことはみな、実効的な祈りである。それは、定められた時におこなった口祷については明白である。しかし、この定められた祈りのほかに、隣人に対する仁愛によってなすこと、あるいは自分のための勤行としてなすことは、どんなことであっても、祈りである。それは、わたしの光栄ある使徒パウロが言ったとおりである。「絶えず善をなす者は、絶えず祈っている」(8) 。それゆえ、わたしは祈りの方法はいろいろあると言ったのである。外的な祈りと念祷とを一致させることができるからである。このように念祷と一致した外的な祈りは仁愛の心情のなかでおこなわれる。ところが、仁愛の心情は絶えざる祈りなのである (9)
 わたしは、勤行と堅忍とによって念祷に達することができること、わたしが霊魂をおとずれるときは、口祷を止めて念祷に移らなければならないことについて語った。また、共通の祈りについて、所定の時間外におこなう口祷について、善良かつ聖なる意志による祈りについて述べた。そして、霊魂が、この善良な意志によって、所定の時間外に、自分のためあるいは隣人のために行った勤行はみな祈りであることを説明した。
 それゆえ、霊魂は、諸善徳の母であるこの祈りの実行を、勇気をふるって、はげまなければならない。自分自身の独房にこもり、友の愛、子の愛に達した霊魂はそのとおりに実行する。しかし、霊魂は、わたしが示した手段をなおざりにするならば、微温と不完全とから決して脱け出ることができないであろう。わたしのなかに、あるいは隣人のなかに、利得とたのしみとを見出さないかぎり、愛することはないであろう。

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