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7.不完全な愛

第69章

自分の平安と慰めとを失わないために、隣人の需要にこたえるのをおこたる人々について。

 これまで、自分の方法でわたしを味わい、自分が望むとおりに、その精神にわたしを迎えようとする人々のおちいる錯誤について述べた。
 これから、第二の錯誤、すなわち、そのたのしみ全体を内心の慰めを探し求めることに置いている人々の錯誤について話したい。この錯誤ははなはだしく、しばしば、隣人が霊的にあるいは現世的に必要にせまられているのを見ても、善徳の外見のもとに、これを助けるのをおこたり、「わたしは精神の平和と静安とを失いたくない」と言うのである。慰めを失うのはわたしに背くことだと考えているようである。かれらは、その精神の利己的な霊的たのしみに迷わされている。かれらは、そのすべての慰めを放棄することによってよりも、必要にせまられている隣人を助けないことによって、はるかにわたしに背く。なぜなら、すべての勤行、すべての口祷あるいは念祷は、「わたし」によって、霊魂をわたしと隣人とに対する完全な仁愛にみちびくために、そしてまた、これにこの仁愛を保たせるために、定められたものだからである。
 それゆえ、外的な勤行のため、あるいは精神の平安のために隣人に対する仁愛をおこたることは、隣人のためにこれらの勤行を放棄するよりも、はるかにわたしに背くのである。隣人に対する仁愛のなかにはわたしを見出すことができる。しかし、霊的喜びのなかにわたしを求めても、わたしを失うことがある。隣人を助けるのをおこたるならば、これに対する仁愛を減らす。隣人に対する仁愛を減らすならば、本人に対するわたしの愛も減ることになる。わたしの愛が減るならば慰めも減るのである。それで、もうけようと思って損するし、損したいと思ってもうける。すなわち、隣人の救いのために自分自身の慰めを損する者は隣人を愛深く助け、これに奉仕することによって、わたしと隣人とを受け、もうけるのである。
 そうなると、わたしの「仁愛」のたのしさを、いかなる時も、味わうことができる。ところが、この慰めを放棄しようと思わない者は、苦しみのなかに取り残される。なぜなら、ときどき、あるいは必要にせまられ、あるいは愛の職務として、他人の肉体的あるいは精神的病弱を看護しなければならないのであるが、そのとき、苦しみなから、うんざりしながら、良心のとがめを感じながら、これをなさなければならないから、自分自身にとっても他人にとっても、我慢できない者となるからである。そのような人々に、「なぜそんなに苦しむのか」とたずねるがよい。すると、つぎのように答えるであろう。「精神の平和と静安とを失ったように思うからだ。わたしは、これまで習慣になっていた多くのことをやめた。そのため、神に背いたと思っている」。しかし、そういうことはない。自分自身のたのしみしか眼中にないから、自分の過失が実際にどこにあるかを見分けることも、知ることもできないのである。精神的慰めをもたないから、あるいは隣人を助ける必要にせまられて祈りの勤行を放棄したから、わたしに背くのではなく、むしろ、わたしに対する愛のために愛し、奉仕しなければならない隣人に対する仁愛を欠いたから、わたしに背くということを、認めなければならない。
 これまで話したことによって、この人々が、自分自身に対する霊的自愛心によって、どのような錯誤におちいっているかがわかったと思う。

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