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8.完全な愛

第82章

霊魂は、この世を去ったのち、神の名の栄光を、あらゆる被造物のなかに、完全に見ることについて。──この霊魂は、望みの苦痛を感じることがなく、ただ望みしかもたなくなることについて。

 ところで、あらゆる被造物のなかに、悪魔のなかに、そして理性をそなえた被造物のなかに、わたしの名の栄光と賛美とがかがやいているのを、だれが見、玩味するであろうか。肉体を離れて、その最終目的であるわたしに到達している霊魂は、それをはっきりと見る。そして、これを見ることによって、真理を知る。この霊魂は、永遠の「父」であるわたしを見ることによって、わたしを愛する。わたしを愛することによって、満たされる。満たされて真理を知る。真理を知ることによって、その意志はわたしの意志のなかに安定し、そこを住み家と定める。その結果、こののち、なにものも、この霊魂に苦しみを与えることができない。なぜなら、わたしのなかに、所有したいと望んでいたすべてのものを所有するからである。この霊魂は、まず第一に、わたしを見ること、わたしの名の栄光と賛美とを見ることを望んでいた。
 ところで、この栄光が、さきに話したように、わたしの聖者たちのなかに、至福な霊たちのなかに、他の被造物のなかに、悪魔のなかに、完全に実現しているのを見る。わたしに加えられる侮辱を見ても、以前にはそれについて大きな悲しみを感じていたのに、今は悲しみを抱くことがない。ただ、苦しみをともなわない同情を抱くだけである。この霊魂は、罪人を愛する。そして、わたしに、世にあわれみを注ぐよう、愛徳の情念によって祈る。
 この霊魂にとって、苦しみは終わった。けれども仁愛は終わらない。わたしの「ひとり子」である「言葉」にとってもまた、十字架の上で、その生命といっしょに、いたましい望みの苦しみが終わった。「言葉」は、この苦しみを、わたしが世に送った最初の瞬間から、あなたがたの救いのために死去した最後の瞬間まで、感じ、堪え忍んだのであった。「言葉」においては、あなたがたを救いたいという望みはいつもつづいている。しかし、苦しみはそうではない。もしも、わたしがかれによってあなたがたに示した仁愛の感情が、そのときあなたがたに対して終止したとしたら、あなたがたは存在しないであろう。なぜなら、あなたがたは、わたしの愛によって造られたからである。それでもし、わたしがわたしの愛をわたしの方に引き取り、あなたがたの存在を愛さなかったならば、あなたがたは存在しないであろう。しかし、わたしの愛は、あなたがたを創造し、あなたがたを保ち守る。そして、肉となった「言葉」がわたしと一つであるように、わたしはわたしの「真理」と一つであるから、望みの苦痛は終わったけれども、望みの愛は終わらない。
 これでわかってほしい。聖人たちと永遠の生命を所有するすべての霊魂は、霊魂の救いに対する望みを抱いているけれども、その苦痛を感じることができない。かれらの苦痛は死のとき終わったけれども、仁愛の感情は終わらない。かれらは、けがれなき「子羊」の血に酔い、隣人に対する仁愛をまとい、十字架につけられたキリストの血にすっかりぬれて、狭い門を通る。そして、平和の「大洋」であるわたしのなかで、不完全すなわち不満から解放されて、完全に到達し、そこで、あらゆる善に満たされるのである。

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