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8.完全な愛

第84章

霊魂はいくつかの理由によって肉体を離れたいと望むことについて。──それができなくとも、神の意志から離れることがなく、これとその他の苦しみとを、神の誉れのために堪え忍ぶことを誇りに思うことについて。

 この人々は、死を苦にしない。かえって、これを望んでいる。かれらは、完全な憎しみをもって、その肉体と戦って来た。それで、霊魂と肉体とを自然に結ぶ情愛を失っている。自分の肉体の生命に対する憎しみとわたしに対する愛とによって、自然の愛を打倒している。かれらは死を望んでいる。それで、言うのである。「だれがわたしをこの体から解放してくれるであろうか。わたしはこの体から解放されて、キリストといっしょになるのを望む」(16) と。そして、パウロとともに、「死ぬのは望むところであるが、生きるのは忍耐しなければならない」と言うのである。
 このように完全な一致に高められた霊魂は、わたしを見たいと望むし、わたしに栄光と賛美とがささげられるのを見たいと望む。それでも、その肉体の雲に戻らなければならない。別の言葉で言うならば、その肉体をあらためて意識しなければならない。この意識は、その愛の望みによってわたしのなかに引き込まれていた。すなわち、その肉体の感覚は、肉体によりも完全にわたしに一致した霊魂の意志の力によって、引き込まれていた。ところが、肉体はこのような一致をいつまでも堪えることができない。それで、霊魂はこの一致を断たなければならないし、わたしはこの霊魂から離れなければならない。しかし、それによって、わたしは恩寵と現存とを取りあげるわけではない。これは第二の状態についてあなたに話したとき説明したとおりである。しかしながら、わたしは、もっと完全な一致を結ぶために、もっとゆたかな恩寵をたずさえて、この霊魂のもとに戻る。この霊魂に、わたしの真理をもっと深く、もっと高く認識させて、わたし自身を示すために、そのもとに戻るのである。
 わたしはこれまで話した方法で身を引き、肉体はあらためて自分を意識するのであるが、この霊魂は、わたしがこれとおこなった一致、この霊魂がわたしとおこなった一致が終わって、その肉体に戻ったとき、わたしとの一致を失い、わたしに栄光をささげる不滅者たちのまじわりを離れて、いかにもみじめにわたしを侮辱する人々のなかに戻り、被造物がわたしに背くのを見ると、生きることがいかにも辛く感じる。これこそ、この霊魂が堪え忍ばなければならない望みの十字架である。この苦しみが、わたしを見たいという望みに加わるために、生きることが堪えがたく思われるのである。しかしながら、この霊魂の意志は自分自身のものではなくなっているし、愛の情念によってわたしと一つになっているので、わたしが欲するもの以外はなにも欲しないし、望まない。わたしのもとに来たいと望みながら、苦しみのなかに残り、とどまることがわたしの意志であるならば、これを喜ぶ。それは、わたしの名にもっと大きな栄光と賛美とをささげるためであり、霊魂の救いにもっとよく協力するためである。
 この霊魂は、なにごとにおいても、わたしの意志に反することがない。むしろ、熱い望みにかられ、十字架につけられたキリストをまとって、その教えの橋を渡り、屈辱と苦しみとを誇りながら、駆けて行く。この霊魂は苦しめば苦しむほど喜ぶ。苦難によって試されれば試されるほど、これによって、死にたいという望みが静められる。そして、苦しみたいという望みと意志とは、しばしば、肉体を離れたいという望みから生ずる苦痛をやわらげるのである。
 それゆえ、わたしのしもべたちは、第三の状態について述べたとき話したように、我慢して苦しみをむかえるだけではない。わたしの名のために、多くの苦難を堪え忍ぶのを誇りに思う。このしもべたちにとって、苦しむのはたのしみである。苦しまないことこそ苦しみである。かれらは一つの恐れしか抱かない。それは、わたしがこの世でかれらの善業に報いを与えはしないかということであり、わたしがかれらの望みの犠牲を喜ばないのではないかということである。かれらの霊魂は、苦しみにおちいるやいなや、そして、わたしから苦難を授かるやいなや、自分が苦しみと十字架にかけられたキリストの恥辱とをまとっているのを見て、喜びを取り戻す。たとえ苦しまないで善徳を実行することができるとしても、それを望まないであろう。十字架上で、キリストといっしょに、喜びを見出したいのである。苦しみによって善徳を獲得し、永遠の生命に入りたいのである。
 なぜであろうか。「血」のなかに沈められて燃え立たされ、そこで、わたしの「仁愛」の火を見出したからである。しかも、この仁愛は「わたし」から発する火であって、その精神と心とを奪い、かれらの望みの犠牲を焼きつくすのである。
 そうなると、かれらの知性の目は高くあげられ、わたしの「神性」を観想して、意志をやしない、これを引きつれて、わたしと一致させる。この見神は、わたしを愛し、真実にわたしに仕える霊魂にわたしが授ける注賦恩寵である。

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