第十五章「黒髪」からの手紙
最初のカテキズムに関する仕事を終了した頃に、「黒髪」から一通の長い手紙を受け取った。驚くべき内容だった。
愛する方へ。
あなたの確信を伝えてくださって有難う。私の心は完全にあなたに開かれるようになりました。心は何を語りかけているでしょう。あなたを愛しているということ、それはお分かりですね、分かりすぎるほどに。
あなたは、自分の理想をすべて私にも共有してほしいとお思いです。でも、私にその気持ちはありません。ただ、あなたに叫びたいだけです。
「気を付けなさい、死の罠が待ち構えています」と。
どうか、最後まで読んでください。どうか、怒らずに手紙を最後まで読み、よく考えてくださることを祈ります。確かに、あなたは、私と同じほど自分が正しいとお考えですが、私はこのように申しましょう。
歴史を振り返ってください。教会は不滅です。
あなたは時間を浪費しているのです。力を浪費しているのですよ。あなたは神に優ることはできません。このことをよくお考えください。あなたが神を信じないからといって、神が存在しないことにはならないのです。
あなたには理解しやすいことだと思います。あなたは、同じことを正反対の意味で信じているのですから。私が信じているから、あなたは神が存在しないと想像なさっているのです。信じる信じないに、究極的な力がないことは事実です。
しかし、あなたのまわりの何もかもが、神の存在をうたっているのです。あなたは植物の種子を造ったことがありますか。自然の法則を造ったことがありますか。葉の一枚でさえ、あなたが造り、自分のものにできているものがありますか。あなた自身さえあなたのものではないのです。
奇妙な神なき教会をつくりだすことに成功したとしても、あなたが勝ったわけではありません。それによって、神が低められるわけではありません。どんなに手を尽くしても、神を低めることもできなければ、殺すこともできません。
私は、こんな子供っぽい戦いに取り組んでいるあなたのために泣いています。あなたが滅ぼそうとしている神は、どこにもいる万物の主人。あなたは神によってのみ生きているのです、神によってのみ、生き続けているのです。
教会を揺らすことには成功するかもしれません。それは過去二千年間に何度となく起こってきたことです。しかし、そのたびに、教会はより美しく、より強く復興しました。
愛する方、イエズス・キリストの教会は、永遠のいのちを約束されているのですよ。
それは、私の口を介して、聖三位一体はけっして教会を見捨てないこと、教会に向けられるいかなる攻撃も、ただ信仰を清めるために許されている試練に過ぎないことをあなたに叫んでいます。
信仰の力を失わせるためにすべてを混交する、完璧な人間至上主義の教会に加わり、多くの霊魂が滅びることでしょう。しかし、カトリック教会は立ち続けるのです。あなたが迫害すれば、教会は地下に潜るでしょう。それでも、教会の魂は永遠に立ち続けるのです。天来の啓示に従順であることが、この教会のしるしなのですから。
その特別な領域はあなたが見慣れているものとは違います。その領域は超自然的な、聖なるものなのです。ですから、私たちが知的か否かということは問題ではありません。
可哀想なあなた、あなたは頭が良すぎるのです。そればかりか、子供の頃にある深い傷を負いましたね。それがどのようなものかを聞くつもりはありません。
あなたは、静かな気持ちで過去を見つめられる歳になっているのではありませんか。あなたは無意識に復讐を求めているように私には見えます。それは気高い態度といえるでしょうか。
あなたは、十四歳まではとても敬虔な少年だったと話してくださいましたね。それで、私がこの手紙であなたに求めているのは、よくお考えになってくださいということだけです。あなたはよく分かっているからです。無神論の家庭に生まれたのであれば、信仰の領域が別な世界にあることが分かってもらえない、と私も諦めていたでしょう。
神と教会に対するあなたの憎しみは、あなたが単なる反逆児ではなく、信じるがゆえの反逆児であることの証拠ではないでしょうか。このような人々は、もっとも手ごわい相手であるといわれています。私は心からあなたに同情しています。あなたは早くに失われてしまったからです。私は少しも怖くはありません。少しもです。
あなたは、ご自分の曲がった教義によって、ある程度の霊魂を勝ち得るかもしれません。聖職者の一部さえも。(私はそう信じているわけではありません。)
しかし、あなたはすべての霊魂を勝ち得ることはけっしてないばかりか、逆に、聖人の群れを強化する結果になるでしょう。可哀相なあなた、あなたは神の教会を攻撃していると思っていても、全能者のみ手の中ではおもちゃに過ぎないのです。
あなたは自分に力があるとお思いですが、力を揮えるのは、神様がお許しになっているあいだだけです。主がいつかこう言われるときが来ます。
「もはやこれまで。私は苦しむ者たちの祈りを聞いた。私の敵を滅ぼすことによって、彼らを慰めることにしよう。」
その日を恐れなさい。神の敵は、自分が敵でいることによって永遠を犠牲にしたことを知り、絶望に襲われるでしょう。でも、そのときには遅すぎるのです。
あなたは聖なる教会が人間の組織と同程度の力しかないかのように振舞っていますが、私たちは、世界の山々をすべて覆すに足るほどの力をすべて手にしているのです。しかし、たとえ私たちを殺しても、私たちの特権をつくりだしている力まではあなたには破壊できません。あなたがそばにいても遠くにいても、常にキリストが私たちのあいだにおいでです。
私は主に話しかけ、主はあなたをご覧になっています。どのようなお気持ちでご覧になっていることでしょうか!
私はあなたのことを主にお話しています。夢の中でさえ。あなたは自分が自由で力ある男だと信じています。それは大変な間違いです。たとえ、今日死んでも、私はあなたの自由に、少なくともそのような自由の使い方に対して戦い続けます。
愛する方、どうか笑わないでください。笑ってはなりません。それより、あなたの子供時代をよく思い返してください。目には見えなくとも非常に手強い、それでいてとても柔和なこの力がよく分かるはずです。
私の心と霊魂は、尽きることのない、破壊できない力を所有しているのです。それをよくお考えください。感情が吹き込むものをすべて心から除いてください。故意に耳を閉ざしても、故意に目を閉ざしてもなりません。それは心ある人に相応しい態度ではありません。
しかし、あなたは憎しみ、神への憎しみに根ざす愛に、心を向けているのです。憎しみは裏切られた愛の叫びであることが多いことをご存知ですか。私自身は、神様はある特別な愛をもってあなたを愛しておいでになること、忍耐をもってあなたを待っていてくださることを信じています。
神さまにお祈りする気持ちが今のあなたにはないので、私があなたに代わって償いを捧げているのですよ。あなたの名の下に、一日千回、全能の主に、御子と至聖の母マリア様、有名無名の諸聖人全員の徳行を捧げているのです。私は一日中、眠りながらも、歓びと確信をもってお捧げしているのです。
あなたはミサ典礼を変えて、それを会食に格下げしようとお考えです。何という真似事でしょう。
ミサは、最初の聖木曜日以来、なぜ何十億回も捧げられてきたとお思いですか。一日中、それこそ毎秒のように、礼拝の香の煙となって天に立ち昇っているとお思いですか。
私は、御子が繰り返し人類の救いに身を捧げるこの「愛のいけにえ」に、心をひとつにしているのです。私は、神様につながって、私自身をお捧げしているのです、これほど小さな私を。
私は、主に較べれば “無” ですから、このようなささげものは滑稽に見えるかもしれません。もちろん、私は無なのです…それは私たちの誰もが十分に承知していることです。それが分からない人は哀れです。
信者と未信者とのあいだには大きな違いがあると私は信じます。信者は、受け取るものを捧げます。それはとても大きなものです。未信者は、支配し、命令し、見つけ、君臨し、破壊することしか考えません。そのように、ミサ聖祭で神様に自分をお捧げするときには、私は神様が私にくださったものすべてをお返ししているのです。
私は、神様がくださった贈り物と愛徳を、感謝のしるしとしてお返ししているのです。
天と私たちのあいだで続けられている愛の交換のすべてを知っただけでも、あなたは恐怖に砕かれることでしょう。そのときには、自分の物真似がどんなものかが分かるからです。
私はあなたのために涙を流すばかりです。私はこの涙を高価な真珠としてお捧げしています。
あなたは苦しみを受け、反逆に向かいました。あなたが十字架をみつめ、平和と許しの力を与えられるよう謙虚に主に祈っていたならば、自分に与えられた悲しみに対して自ら主に感謝するようになるほどの心の平和を感じていたはずです。
苦しみは恵み深い贈り物です。ですから、神は愛するぶどうの木としてあなたをお扱いになり、より多くの実を結べるよう、刈り込みをしてくださっていたのです。ぶどうの蔓は自分では刈り込みはできませんから。
しかし、あなたが取った仕事は、どんな果実を実らせるのでしょう…それは、苦く、寂しい、絶望的な果実なのですよ。
私があなたに対して孤軍奮闘しているとお思いですか。とんでもないことです。私の祈りは天国に入った聖徒の大群衆によって聞かれ、伝わっているのです。
どうか笑わないでください。霊魂の不滅は、あなたがどれほど力を尽くしても滅ぼせない、あなたの中の唯一のものです。
霊魂の不滅。この言葉をよく心に刻んでください。それは、死が存在しないことを正しく示す言葉なのです。どの家も、この言葉を金の文字で居間の壁に刻み付けるべきです。死を恐れ、その思いを忌み嫌うのではなく、死は存在しないことを知らなくてはなりません。
これほど大切なことがあるでしょうか。
愛する人、涙がけっして乾くことのない場所にあなたが永遠にいることを知るくらいなら、あなたはこの地上で私を愛してくださらないことをむしろ望みます。
私はあなたを愛しているからです。
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