2009.01.28

アウシュビッツに「ガス室が」なかった可能性

リチャード・ウイリアムソン司教様が言うように、「アウシュビッツにはガス室はなかった」可能性が高い。
「事実性」に関する問題としてである。
ところが世間では、911問題の場合と全く同じく、ここでも「事実性」に関する問題と「道徳性」(あるいは「思想性」「政治性」)に関する問題がほとんど常に混同されている。「ナチスによるユダヤ人迫害はなかった」と言っているのではないのに、「ガス室はなかった」と言うと即イコール「ユダヤ人差別迫害思想」の持ち主ということにされてしまう。
この、“話の種類” を一切見分けないという態度は、知らずにそうしている人々においては盲目性であり、知りながらそうしている者らにおいては純粋な悪意である。
そしてどちらにせよ、新たな差別主義、新たな非人道、新たな弾圧、新たな暴力である。
特に後者の者らの心の質を見よ。そのような態度で、本来「事実性に関する問題」でしかないもの、本人においては恐らくそのようなものとして論じられている筈のものを、前者大衆の無知と盲目に乗じて徹頭徹尾の「人道問題」にすり替えてしまい、それによって教皇様までを叩くシュプレヒコールを挙げている者らの心の質を。
そこに知性はあるか、理性はあるか、良心はあるか、愛はあるか、彼ら自身お好きな筈の「人道心」はあるか。善の仮面をかむった者らめ。
彼らはそのように物事をねじ曲げ、今、ある一人の人(リチャード・ウイリアムソン司教)を全くの差別主義者に仕立て上げようとしている。そして、それによって教皇様の宗教的な御決定をも覆えさせようとしている。あるいはそうすることが可能であると考えるほど彼らも馬鹿ではないとしても、おそらく先々のためにもとにかくここで教皇に思い切り打撃を加えてやろう、疲弊させてやろう、勇気を挫いてやろう、との魂胆である。
悲しいことに、わがカトリック信徒の中にも、「教皇様、だから言わんこっちゃない」と言わんばかりの口振りの者がいる。間違い。私達は以上のようなことによく目を見開き、世間は問題ではない、愚かな人間社会の常のことであるとして、その乱れ騒ぐ波に右往左往せずに、真理と教会のためにしっかりと立っていなければならないのだ。
《参考》
これも「善と悪の戦い」の一局面である。
主要な戦いは信仰の世界にこそあるとしても。
『マルコポーロ廃刊事件と「出版の自由」弾圧の背景』西岡昌紀氏
《ページ移動のためのリンクはにあります》
日記の目次へ
ページに直接に入った方はこちらをクリックして下さい→ フレームページのトップへ
inserted by FC2 system