2009.07.04

夙川教会の梅原彰神父様は間違っておられる

カトリック夙川〔しゅくがわ〕教会(大阪大司教区)の主任司祭、梅原彰神父様が次のように書いておられる。
パンとぶどう酒両形態による聖体拝領 2008年04月01日
(…)両形態の下での拝領は許可されただけでなく、奨励されています。日本司教団も許可しています。そのため今後当教会では以下の様式で日曜日のミサのとき両形態の聖体拝領を実施いたします。
 (六月一日より)
一、御体を手に受けとり「アーメン」と答え、司式者の横にいる聖体奉仕者の持つ杯に浸していただく。御血を床に落とさないよう細心の注意をはらう。
一、祭壇の上に置かれている左右の杯を手に取り、少量を飲み唇がついたカリスの部分をブッフィカトリウム(布)でぬぐう。勿論今まで通り御体のみの拝領も自由である。
梅原 彰 神父
このブログは夙川教会の月報の巻頭言を集めたものである。そして上の文章は2008年4月の月報の巻頭言であり、「当教会はこれまでは両形態拝領はしていなかったが、2008年6月1日からこのような仕方の両形態拝領を実施する」という告知であるだろう。
信者のセルフ・インティンクション
しかし、最初の「御体を手に受けとり『アーメン』と答え、司式者の横にいる聖体奉仕者の持つ杯に浸していただく」のはセルフ・インティンクションである。それは典礼秘跡省『指針 あがないの秘跡』で否定されている。
104 拝領者は自分でホスティアを御血に浸すことや、御血に浸されたホスティアを手で拝領することを許されてはならない。
典礼秘跡省『指針 あがないの秘跡』
『指針 あがないの秘跡』が公布されたのは2004年3月25日である。
その公的な日本語訳が出たのは2007年8月3日である。
そして上の梅原神父様の文章は2008年4月の教会月報のものだろう。
一体どういうことなのか。梅原神父様は知っていて逆らっているのか。
それとも、「逆らうも何も」であろうか。
(「逆らう」ためには聖座の権威を認めていなければならない。)
「逆らうも何も、第二バチカン公会議が各国の司教に自分たちの典礼の形を決める権限を与えたのだ。だから聖座には、信者にセルフ・インティンクションさせることがいいだの悪いだの、こちらのやろうとすることを規制する権利・権限はない」であろうか。
(おそらく、梅原神父様の内心にあるのはそのようなことではないか。)
信者が祭壇の上に置かれたカリスを自ら取ること
二番目のもおそらく間違っておられる。
それは信者が祭壇に置かれているカリスを自らの手で取ることを言っているが、典礼規則はそれを認めているのか。
『総則』の中、両形態拝領を特に扱った箇所に次のようにある。
286 御血の拝領をカリスから飲んで行う場合、拝領者はキリストのからだを受けた後、カリスの奉仕者の前に行って立つ。奉仕者は「キリストの血」と唱え、拝領者は「アーメン」と答える。奉仕者はカリスを拝領者に差し出し、拝領者は自分の手でカリスを口にもっていく。拝領者はカリスから少量を拝領し、カリスを奉仕者に返してから戻る。その後、奉仕者はカリスの縁をプリフィカトリウムでぬぐう。
『ローマ・ミサ典礼書の総則』(PDF
私は平信徒がカリスに触れることには一切反対である。断じて反対である。総則さえおかしいと思う。しかし、それは措いといて、話を進める。
総則においては、拝領者は奉仕者からカリスを受け取る
しかし梅原神父様が言っておられるのは、拝領者が祭壇の上に置かれているカリスを自らの手で取ることである。
総則においては、拝領後のカリスをぬぐうのは奉仕者である。
しかし梅原神父様は、拝領者自身がカリスをぬぐう、と言っておられる。
総則は続けて、両形態拝領のもう一つのやり方を説明する。インティンクションによる両形態拝領である。しかし「セルフ」ではない。
287 カリスからの拝領が御血にパンを浸して行われる場合、拝領者はパンの小片を入れた容器を持つ司祭に近づき、口の下に拝領用の受け皿を添える。司祭の脇にはカリスを持つ奉仕者が立つ。司祭はパンを取り、その一部をカリスに浸し、それを示しながら、「キリストのからだと血」と言う。拝領者は「アーメン」と答えて、司祭から秘跡を口に受けた後、戻る。
『ローマ・ミサ典礼書の総則』
総則が言っている両形態拝領の方法は以上の二つだけである。
梅原神父様が言っておられるような方法──信者が祭壇に置かれているカリスを自ら取る──については直接的な言及がない。
しかし、直接的な言及、また明示的な言及を以て禁じられていないことは「してよい」ということになるのか?
典礼規則が一つの事柄に関し、AとBの二つのやり方を挙げているとする。
司祭の頭の中でCという方法も考えられるとする。
すると、典礼規則が「Cは駄目」と明示していないからというので、
Cをやっても構わない、ということになるのか?
そんな筈はないだろう。そんなことなら規則が規制力を失う。
そして更に、総則のもっと前の方、「会衆の参加するミサ」の中では、聖体拝領の一般的な在り方について次のように説明されている。
160 それから、司祭はパテナまたはピクシスを取って、通常は行列をして来る拝領者に近づく。
信者が聖別されたパンやカリスを自ら手に取ること、ましてそれらを互いに手で渡すことは許されない。(…)
ちょっと見には、286 とこの 160 は矛盾しているように見える。
286 では「信者がカリスを手に持つこと」を許していながら、
160 ではそれを「許されない」としている、と。
しかし、両者は別のことを言っている、ということになるのだろう。
286 においては、奉仕者が差し出したカリスを信者が「受ける」時、そのような受動的な行為の中でカリスを「手にする」に至る時、それは許される、と言っているのであり、他方 160 においては、信者がカリスを積極的に「自ら取る」ことは許されない、と言っているのだろう。
そうだとしても、私はこれには全く感心しない。「聖別されたカリス」という言葉を使うなら、「信者はミサ中、例外なく、カリスに触れるべきでない」とするのが至当である。
しかしとにかく、総則は基本的に「信者がカリスを自ら手に取ること」を禁じているように見える。
そして、これは参考までに言うが、2005年、私は地元の司教様のお口から直接、次のように伺っている。(正確な引用ではなく記憶に基づく)
確かに台の上に置かれたカリスの中の御血に自分で──自分だけで──主の御体を浸せば、それは明らかに「自分で」であろうが、奉仕者がカリスを持ち、それを「提供」の意味をこめて信者の方に傾けて持つ時、その中の御血に信者が自分の手で御体を浸したとしても、それは必ずしも「自分で」ということにはならないのではないか。聖役に携わっている奉仕者から「提供された」わけだから。──まあ、そのような議論が、私達の間にはあります。
「インテリの世界って・・・」と半ば呆れて聞いていたことを覚えているが、しかし兎に角ここにも「信者の受動性」に対する視点があるわけである。
アメリカの教会の公式HPに、司祭と思われる人がインティンクションによる両形態拝領について説明しているページがあるが、そこにも同じ視点がある。
セルフ・インティンクションが駄目な理由は、拝領者はキリストの御体と御血をキリスト御自身から来るものとして、叙階された者(the ordained)から受け(receive)なければならないからです。特別聖体奉仕者は叙階された奉仕者(the ordained ministers)を助けます。しかし特別聖体奉仕者は共同体そのもの〔会衆?〕から離れた存在ではありません。特別聖体奉仕者もセルフ・インティンクションができません。しかしインティンクションによる拝領において聖体を配布することはできます。
The reason for no self-intinction is the communicant should receive the Body and Blood of Christ as coming from Christ Himself, thereby by the ordained. Extraordinary ministers of Communion aid the ordained ministers, but are not apart from the community itself. The extraordinary ministers of Communion cannot self-intinct either, but may distribute Communion by intinction.
「拝領者はキリストの御体と御血をキリスト御自身から来るものとして、叙階された者から受けなければならない」──この考えが一般的である。
しかし梅原神父様は、そのような考えは全然お持ちでないようである。
結 論
梅原神父様が両形態拝領の方法として提示しておられる二つの方法は、そのどちらもが適切でないだろう。
後日の加筆
次を参照してもらいたい。
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