2009.11.05

教皇様は国連を警戒しておられる

以前書いていたものから放出 A^^;
(一部書き加えましたが。)
何故、今まで出し渋っていたかというと、翻訳に自信がなかったから。
まあ、いつも大して自信はないけど。
でも、「教皇様も国連には一定の警戒をお持ちである」ということを皆さんにお伝えするために、私なんかの働きでよろしければ(しおしお)、ここに恥を忍んで(恥知らずのくせに)出来損ないの翻訳を表示させて頂く次第です。
その前に、少し前置きを。
9月20日の日記 で紹介した「みこころネット」さんの記事を、ここに再掲させて頂きます。
筆者はフランシス・アルバン氏およびクリストファー・A・フェララ氏ということです。1999年のものです。(少し表記をいじらしてもらいました。)
生命の聖性に対する最大の脅威、国連
グルーナー神父の使徒職が述べたように、国連は「国際生活における質的向上」を促進するよりはむしろ、ボリヴィアやフィリッピンのカトリックの人々に対してさえ人口抑制計画を押しつけながら中絶と避妊の世界的な体制を助成している。
ヒューマン・ライフ・インターナショナルWebsiteの設立者ポール・マークス(Paul Marx)神父clickもまた、彼の国連非難において恐れを知らない人であった:「サタン自身を唯一の例外として、人間生命の聖性と今日の家族にとっての最大の脅威は、断然、国連/世界政府の出現しつつある行動指針(agenda)である。(…)国連は常に何らかの可能な手段を通じて世界的な人口抑制のための土台を敷きつつある。」(L'Osservatore Romano, May 28,1997, pg. 11.)
ラッツィンガー枢機卿でさえ、彼の生涯の黄昏時になって、彼のヴァチカンの同僚とは隊列を乱すであろう。そしてグルーナー神父とその使徒職がずっと以前から公表してきた単純な真理──「国連は悪しき行動指針をもつ悪しき組織である」──を公に認めるであろう。
The Gospel in the Face of World Disorder(「世界の無秩序に直面する福音」)と題された書物の序言の中でラッツィンガーは、国連が「新しい世界秩序」、「新しい人間」、「新しい世界」そして「新しい人間学」を促進していることに警告を発している。そして国連に関して非常に危険なことは、その行動指針が何かあるユートピア的な夢ではなくて、容易に現実になり得る悪夢であるということである、とラッツィンガーは述べる。「マルキストの夢はユートピア的であった。(国連の)この哲学は反対に非常に現実主義的である。」
注)みこころネットさんのページが文字化けする時にはブラウザのテキストエンコーディングで Shift JIS を選択してください。
私達は言葉というものをきちんと読むようにしよう。学者ほどではないにしろ、ある程度は。すなわち、上の文章が「最大の」という形容詞を含んでいることです。国連が生命の聖性に対する「最大の脅威」である、と。
最近、「新型インフルエンザとそのワクチン」について続けて紹介してきた関係上、この記事に「人口抑制」という言葉があるのを見ると、私は改めて、何だかゾッとした感じになります。世間の一部で「新型インフルエンザとその裏にあるだろう陰謀」(11/2の日記など)について囁かれるようになっている昨今、そして「人口抑制」ではなくハッキリと 「人口削減」 と言われているようになっている昨今より遥か以前に(10年前に)、国連にその種の意図をハッキリと見ていた人達がいたということです。
「ラッツィンガーは(序文の中で)国連が『新しい世界秩序』『新しい人間』『新しい世界』そして『新しい人間学』を促進していることに警告を発している」とあります。私は「本当かな?」と思いました。言葉にはニュアンスというものがあります。教皇様は〈どの程度〉警戒をお持ちなのか?
私はそれを、出来ればその序文を直接読んで確かめたいと思いました。
そして、探したところ、ありましたよ。
Cardinal Ratzinger's Preface to Michel Schooyans Book,
"The Gospel: Confronting World Disorder"
以下がその翻訳です。出来損ないの。
特に自信のないところは──自信がないのは全般的であるとしても──斜体にし、英文を添えときます。
これは1997年における教皇様(ラッツィンガー枢機卿)の文章です。
(強調は私。)
Michel Schooyans の「世界の無秩序に直面する福音」
に寄せられたラッツィンガー枢機卿の序文
By Cardinal Joseph Ratzinger
「啓蒙 Enlightenment」が始まった正にその時以来、現在も進行中の信念は、常にキリスト教の終末論を脇に退け、結局、完全にその位置を奪ってきた。幸福はもや来世に期待されるものではなく、むしろ現世に期待するものとなった。アルベール・カミュの態度──キリストの言葉、「わが王国はこの世のものではない」に断固として反対し、「わが王国はこの世におけるものである」と確信する態度──は、現代人の性質を象徴するものである。もし今世紀において進行中である信念が、世界のコンディションの進歩的改良、科学の勝利によってパラダイス的な世界にかつてないほど近づくことなどを期待する全般的な楽観主義のままであるとするなら、われわれの世紀におけるそのような信仰は政治的な転換をなしたのである。(If in the last century belief in progress was still a generic optimism that anticipated progressive betterment of the world’s condition and an ever closer approach of a kind of paradise from the triumphant march of the sciences, such faith in our century has taken on a political turn.)
一方においては、彼らのイデオロギー的に押し進める政治によって人間に対する望ましい統治の達成を約束するマルキストの方針のシステムが存在してきた。しかし、それは明らかに失敗した試みであった。他方においては、未来を構築しようとする諸努力は、自由主義的な伝統の根から多少深く描こうとする試みによって作られてきた。New World Order というタイトルのもとで、それらの諸努力は形を取る。それらは新しい人間と新しい世界に到達する道筋を描き出そうと努力しながら、ますます国連とその国際諸会議との(特にそれらに関する哲学を透過的に開示するカイロと北京におけるそれらとの)関係を緊密にしている。
そのような哲学は、マルキストの夢という意味においても、もはや非現実的なものではない。それどころか、それは非常に現実的である。それは幸福を達成するための限られた手段から幸福の範囲を決定する。この哲学は、それ自身を弁明しようとすることもなしに、たとえば、もはや生産的ではなく質の良い人生に対するどんな望みも持ってもいない人々に対するケアについても心配しないことを奨励する。更にそれは、富と幸福に慣れっこになっている人々が必要な犠牲を払う準備をすることをもはや期待せず、それどころか、一部の者達が既に手にしている所謂幸福というものが少なくとも触れられないようにするために、人類のテーブルにつく参加数を減らす方法を奨励する。この新しい人類学の典型的な特徴──それは New World Order の根底にあるものだが──は、とりわけ女性というもののイメージの中に、「女性の権利拡大」を謳うイデオロギー(それは北京で提案された)の中に顕わされている。そのゴールは、家族と女性であることを基本的に邪魔物とするところの女性の自己実現である。そのようにして女性は、とりわけ彼女を特徴づけているものから、また非常にシンプルに彼女の特性に向いているものから、解放されなければならないとされる。それらは、「ジェンダー、公正さ、そして平等」の前に、その人生においてセクシュアリティというものが考えられるあらゆる方法によって使うことのできる官能的なドラッグでしかない不明瞭で均一な人間の前に、消え去らなければならないとされる。
非常に多くの私達の同時代人を襲った「母であることへの恐れ」の中には、at play(競争心と結びついた?)もっと深い何かがある。他者は常に、結局のところ、私の人生のある部分を奪う競争者であり、私のエゴと私の自由な発展にとっての脅威である。今日では、私達はもはや「愛の哲学」を持っておらず、ただ 「エゴイズムの哲学」 を持っている。私は「他者と共に始める」ことによって、また「他者のために存在する」という在り方によって見出すことのできる賜物の中でのみ私自身を富ませることができるのである、という概念は、全て理想主義的な幻想として拒絶される。しかし、正にそこが私達が騙されているところである。実際、人は「愛に反対するように」とアドバイスされる時、本当は「人間であるな」と助言されているのである。
そしてそれ故、新しい世界の新しいイメージがここまで発展した段階にある今、私達クリスチャンは──クリスチャンばかりではないが、特にクリスチャンが──それに抗議する義務を有する地点に至っているのである。私達は、Michel Schooyans がこの本で、必要とされる抗議に精力的な声を与えていることに感謝しなければならない。彼は私達に、現代を特徴づける人権に関する思想(それは多くの意味で非常に重要であり積極的に考えられなければならないものであるが)というものがただ人間の上に築かれており、そしてそれ故、これらの諸権利の一般認定を実行する人間の能力と意志の上に築かれているという事実のために、如何に正にその初発から正しさを欠いたものであるかということを私達に見せてくれる。もし、そもそも照らされたクリスチャンに関して人が持つイメージの反射が諸権利の普遍性を保護するというなら、そのイメージが不明瞭になる程度にまで新たな疑問が立ち上がるわけである。(If, from the start, the reflection of the luminous Christian image of man protected the universality of rights, new questions arise to the degree that this image becomes blurred.) 人間に対する私達の概念が、私達の権威者達が言うように「嫉妬、不安、恐れ、そして憎しみにさえ」しばしば基づいている時に、最も謙遜な人達の権利はどのように尊敬され促進されるだろうか。一つのイデオロギーは、もしそれが制限されない汎性欲主義の代価として「不妊手術」「堕胎」「計画的産児制限」そして「安楽死」をさえ奨励するようなものなら、如何にして人類に生きることと愛することの喜びを運んで来ることができるだろうか。
私達が未来の歴史における戦いの中に提供することのできる積極的な何かを持っていると気づくのはここにおいてである。実際、未来に関する「ポストモダンな」解説のイデオロギーに対して終末論を対抗させるのでは不十分である。しかし、ここ数十年にわたって、この方面に関する私達の声はあまりにも弱く臆病であった。実際、もし私達の視線が 「永遠の生命」から締め出されるならば、この世の生活における人間は意味のない藁以外の何物でもない。このことは歴史全体にも言えることである。永遠の生命への言及は、この意味で、もしそれが正しくなされるなら決して飛躍ではない。それは単純に、地上の存在にその責任、その威厳、その尊厳を与えるものである。しかしはっきり言えば、「真空状態」に響くこれらの反響については明瞭に表現されなければならない。歴史がこれほどまでに「黙っていること」をただただ押し付けられたことはかつてなかった。人は「自由」に沈黙を押し付けることなどできない、そんなことは許されない。それは幻想家の夢想である。
私達は明日にモデルを強要することはできない。明日にモデルを強要しようとする時、それは既に昨日のモデルであるだろう。それでも私達は明日のための道を提案しなければならない。新しい歴史の挑戦を広く克服するための提案を。それが Michel Schooyans がこの本の第二部と第三部で示していることである。とりわけ彼は、「新しい人類学」とは対照的に、人間に関するキリスト教のイメージの本質的な特徴を提示し、またそれを未来の世界の大きな問題への具体的な方法に適用している。(特に第10章から第12章で)彼は具体的な、政治的に現実的な、また実現可能な内容を、「愛の文明」(ヨハネ・パウロ二世によってしばしば言われた言葉)という概念に与えている。
Michel Schooyans の本はこのように、活発さと大きな能力をもって私達の歴史的な瞬間への偉大なチャレンジの核心を突いている。私達は、彼のこの本が人々に様々なオリエンテーションの中で読まれ、議論を活発に刺激し、自分自身を護ることができない人々の尊厳を保証するのみでなく、人類の偉大さの価値ある未来のモデルを準備するために貢献することを望むものである。
Joseph Cardinal Ratzinger
Rome, April 25, 1997
この文章は、私には英語と内容の両面で難し過ぎました。
でも、何となくは分かった? A^^;
まず私は、教皇様がこの時期ハッキリと「New World Order」という言葉をお使いであることに、ちょっと驚きました。この言葉はブッシュ父が1991年の9月11日に連邦議会での演説の中で明確に打ち出し、その後表舞台でも盛んに言われるようになったものらしいですが 、教皇様も無関心ではおられなかったのですね。(当然?)
New World Order
教皇様は上の文章で、「国連」という語は一度しか使っておられません。でも、どうかもう一度読んでもらいたいです、酷い訳ではあっても(笑)
関連は明らかです。
教皇様は、
国連の哲学 =「新しい人間の哲学」
国連の哲学 =「新しい世界の哲学」
国連の哲学 =「New World Order の哲学」
国連の哲学 =「新しい人類学」
国連の哲学 =「官能的なドラッグ」「汎性欲主義」の哲学
国連の哲学 =「愛に反対するように教える哲学」
国連の哲学 =「人間であるなと教える哲学」
国連の哲学 =「エゴイズムの哲学」
国連の哲学 =「ただ人間の上に築かれている哲学」
国連の哲学 =「永遠の生命への視座を奪う哲学」
である
とおっしゃっておられるのです。
教皇様は国連を「警戒」しておられる、という程度なのでしょうか?
そうかも知れません。国連という「機関」(器)に対しては。つまり・・・教皇様は、国連が天主様によって善導されるよう、特に国連の主観の悪意のない個々の職員達がそうなるよう、願っておられるのかも知れません。いわば、国連が回心の恵みを頂くようにと。そういうお心が常におありなのかも知れません。
しかし、上のような国連の現状の「哲学」に対しては、教皇様は「警戒」しておられるというより、それを超えてハッキリと「否定」しておられます。それは非常に強い調子の否定の仕方です。金持ちが貧しい人々のために「犠牲を払う」ことを少しも奨励しないという、それどころか「一部の者達が既に手にしている所謂幸福というものが少なくとも触れられないようにするために、人類のテーブルにつく参加数を減らす方法を奨励する」という、そのようなアカラサマなまでに醜く冷血な「エゴイズムの哲学」が「New World Order の根底」にあるとおっしゃっておられるのです。〈根底〉に、です。
(私もその「エゴイズム」の一部かも知れません... 書いていて怖いです。)
それでもなお、言葉はニュアンスです。たとえ教皇様が「New World Order」という言葉をお使いだとしても、教皇様のそのお言葉が陰謀論者達の使う同じ言葉とニュアンスまで同じだとは限りません。違うことは確かでしょう。
けれど、とにかく少なくとも、教皇様がそのような国連の哲学に対し「悪の烙印」を押しておられることは、あまりにも確かです。そして、それは正しいことです。
だから、アレックス・ジョーンズよ、
教皇様は簡単には「世界政府」など夢想なさらないのだ。10/30日記
少なくとも現状の国連と共にそれを築こうとなさることはあり得ないのだ。
そして、国連を単なる平和な国際機関であると信じている平和なカトリック信者も、少なくとも教皇様が以上のような見方をしておられることを知って欲しい。
たとえ、こういうお姿があったとしても。
これは「外交」の場だ。
そして──ここからは「陰謀論者」の目だが(でも、本当は教皇様も知っておられるだろう)──国連はフリーメイソンの「自由、平等、博愛」から成っている組織である。そして、半ば「旧ソ連製」である。(個々人で検索のこと)
そして、宗教的にもこう(↓)なのだから、私達は国連のイニシアチブを(あるいは国連の「後援」を、「賛助」を、国連と同じスピリットを持ったものを)斥けなければばならない。
嗚呼、しかしこんなことは、カトリック聖職者によってロクな「調査」もされず大衆レベルの意識で退けられてしまった「ベイサイドの聖母」が、昔から大声で叫んでいることではないか。もう一つ、蔵から放出しておく。
次へ
日記の目次へ
ページに直接に入った方はこちらをクリックして下さい→ フレームページのトップへ
inserted by FC2 system