2009.11.13

結局、このような人達の「目」が正しいのです

アリンゼ枢機卿様さえ完全ではありません。前回
みこころネット「ファチマの第三の秘密と公会議後の総崩れ
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これらことが彼を軽蔑していい理由にはならないとしても。
何度も言うようですが、以下のような人達の「目」こそ正しいのです。
Christopher A. Ferrara
公会議後の総崩れは、その最も注目すべき随伴現象、すなわち「保守的」カトリシズムの出現の議論なしには評価され得ない。実際、カトリシズムの三つの異なった様式──「伝統主義的」、「保守的」、そして「リベラル」──の出現は、教会史において以前には決して見られなかった一つの展開である。現代カトリック語法におけるこれらの用語のまさに使用そのものが、公会議後の時期の間、少なくともローマ典礼において、教会における祭儀の外的な統一の決裂があったという経験的な確証である。
公会議の前には、もちろんカトリシズムの特徴を区別するために特別の専門用語は必要なかった。というのは、そこにはただ一つの系統しかなかったからである。ちゃんとした身分にあるカトリック教徒は皆全て「伝統主義者」であった。すなわち、カトリック教徒は皆全て、非カトリック教徒との「一致」のためであろうと、まして教会が一般に信仰に対する重大な危険として常に厳格に禁止してきた礼拝形式を採用することによってであろうと、教会の伝統を危険に晒すことなど全くもって思いも寄らぬことと考え、教会の触れるべからざる古い儀式に従い、厳格な礼拝を行なっていたのである。
注)上でも言いましたが、みこころネットさんのページが文字化けする時にはブラウザのテキストエンコーディングで Shift JIS を選択してください。
Archbishop Marcel Lefebvre
まず、ある誤解を晴らしておかねばなりません。私は、ある運動の首謀者でもなければ、ある独自の教会の長でもありません。私はひっきりなしに「聖伝主義者のリーダー」だと書き立てられますが、そんなものではありません。さらにある人々は「ルフェーブル派」などと呼ばれるようにさえなりました。あたかも何かの党とか学派とかであるかのようです。これは言葉の乱用です。
私には宗教に関して個人的な独自の教理がありません。私は全生涯を通して、ローマのフランス神学校の机で勉強したことを守っているだけです。つまり、最後の使徒の死をもって啓示が閉じられたことが示されるのですが、最後の使徒の死から教導職が何世紀にもわたって伝えてきた通りのカトリックの教義を堅持してきたのです。(…)
私の個人的な体験には、私は次から次へと驚かされます。これらの司教達は、その大部分がローマの同級生でした。彼らは同じように養成を受けたのです。それなのにほら見て下さい、突然私はひとりぼっちに残されました。彼らが変わったのです。彼らはかつて学んだことを放棄したのです。私は新しいことを何も発明しませんでした。私はそのままを続けていたのです。ガロンヌ枢機卿はある日こう私に言いさえしたのです。「ローマのフランス神学校では私たちは騙されたのだよ」と。騙された? 何について騙されたのでしょうか?
Archbishop Marcel Lefebvre
現在かなりのカトリック信者が満足しているこの思想の混乱には、特に信仰に対する危険な風潮が存在しています。さらにそれが危険なのは、それが愛徳を装っているからなのです。この用語(エキュメ二ズム)は、1927年スイスのロザンヌで開催されたある会議の間に浮上したものですが、彼らがこの言葉の意味に全ての辞書が与えている “エキュメ二ズム:全てのキリスト教会を単一の教会に再合併させようとする運動” という定義に従うならば、そのことだけでもカトリック信者は警戒しなければならないでしょう。私たちは互いに矛盾した原理を一致させることなど出来ません。それは明らかです。真実と誤謬を一つにするというやり方で結合させることなど出来ません。誤謬を取り入れ、それから真実の全て、あるいは一部を捨て去ることによらないかぎり、そうです(結合させることは出来ません)。エキュメ二ズムは自己矛盾を含むものです。(…)私たちはこのような概念が根本的にカトリックの教義に反しているとはっきり言わなければなりません。
現在ネット上で、リベラルな聖職者に影響された(あるいは、それが「聖職者」であるというだけでその考えを “丸呑み” する)信徒とあくまで教皇様(聖座)に忠実たろうとする信徒の間で若干の論争があります。
そして後者は、自分達が教皇様に忠実たろうとしていることをもって自分達の中に一種の真摯さを見るでしょうが、またそれはある意味本当ですが、しかしそれでも、もしその人達が上でフェララ氏が端的に指摘している「第二バチカン公会議以降における三つの異なった様式・系統の出現」ということを十分に見、認識し、且つ悲しんでいないならば──即ち、それ自体を大きな問題、“核心的” な問題と捉えていないならば──それは一つの大きな「盲目」であります。
何が正しいかを議論するのも結構。そうやって「教会のために戦う」のも結構。けれど、第二バチカン公会議以前にはその種の議論さえそもそも存在しなかった、存在し得なかった、ということに気づくことこそが、本当は最も大事なことです。
もちろん相対的要素を全く含まない物事は無いのであって、“その種の議論” も幾らかの神学者達の間では「いつも、どの時代にもあった」のでしょうが、しかし第二バチカン公会議以降はそれとは比較にならないほど、“破格” のかたちでそれがある、それに溢れている、それが溢れ返っている、と言っていいのであります。
どれほど聖職者も信者もバラバラであることか!
この混乱はポジティブに捉え得るような混乱ではありません。
ただの混乱です。
この混乱の “有り様” にまず気づいて下さい。立派な戦士である前に。
「現在、教会は “過渡期” にありますから、多少の混乱はあるでしょう」などと訳知り顔で言う人もいますが、いいえ、これは「ただの混乱」です。
教会に対するどのような現実的なサタンの働きも考えたくない人に言っても仕方がないかも知れないけれども、これらは単に「サタンの煙」です。
「聖ピオ十世会のものだ」と思わずに「よく読む」ことが必要です。
教会がどうなってしまったのか分からなくなってしまったカトリック信者の皆様へのお手紙
「聖ピオ十世会のものだと思わずに」は危険な誘いではありません。私達の心の中には「偏見」の作用があるからです。根強く。聖ピオ十世会のことでなくてもです。「危険」と云えば、それも危険なものなのです。
心を「まっさら」にできますか? 最も「素直」に。
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