2009.11.28

成分分析

私達の言動の成分の内訳は?
もちろん、こういうのは、なかなかね・・・
表現の仕方の問題と、聞く人の受け取り方の問題があるから。
つまり「主観」の問題が非常に大きいから。
発する方においても、受ける方においても。
以下、私のこの陋屋においてもあまりに既出なテーマ。
しかし、ある必要のもとに。
司祭に対する非難について
われらの主からムッター・フォーゲルへの啓示
「例え司祭が誤りに陥っているとしても、人は決して司祭を非難すべきではない(should never attack)。むしろ私が再び彼に私の聖寵を与えるように祈りと償いをすべきである。例え彼が私の模範に従って生きていない時でも彼のみが私を完全に代表する!」(1929年6月29日)
「司祭が誤った時は攻撃(attacks)によってではなく祈りによって彼に救いの手をさし伸べるべきである! 私自身が彼の審判者(judge)となろう。私以外の他の誰も審判者になってはならない!
「誰でも、司祭への非難(judgement)を述べる者はそれを私に向かって述べたことになるのである。子よ、決して司祭が攻撃される(be attacked)ことを許すな。彼を擁護せよ。」(1937年王たるキリストの祝日)
「子よ、決してあなたの聴罪司祭を裁くな(never judge)、むしろ彼のために多く祈り、また毎木曜日、私の祝された母の手を通して(彼のために)聖体拝領を捧げよ。」(1939年6月18日)
「決して再び司祭について常軌を逸した言葉を受け容れるな、また例えそれが真実であっても彼等について不親切な(undkind)言葉を話すな! 司祭達は皆私の代理者であり、私の心はそれによって不快になり、侮辱を受けるであろう! もしあなたが司祭に対する非難(judgement)を聞くならばめでたしを1回祈りなさい。」(1939年6月28日)
「もし司祭がふさわしくない状態で聖なるミサを捧げているのを見たら、彼について何も言わず、ただ私にだけそれを告げよ! 私は祭壇上で彼のかたわらに立っている!」「ああ私の司祭等が何にも増して清らかさを愛し、ミサの聖なる犠牲を清らかな手と心で執り行うよう、彼等のために多く祈れ。例えふさわしくない司祭によって執り行われた時でも、確かにこの聖なる犠牲は一つにして同一のものである、しかし人々の上に呼び下される聖寵は同じではない!」(1938年2月28日)
エンデルレ書店刊「ピエタ」より
以下、これに関するとつくに人の声。
投稿者 The Little Way
投稿日時 2006年7月23日 12:36
私は、ここでのキーポイントは使われている言葉に着目することだと思います。
“Attack(非難、攻撃)”
“Unkind(不親切)”
“Judge(裁く)”
これらの言葉には多くの解釈があります。
私達は適切な方法をもって司祭に兄弟的矯正(諌め)を提供することができます。それは攻撃(attacking)ではありません。私達は建設的な批判を提供することができます。それは攻撃することは異なります。
私達は不親切(unkind)でなく司祭に事実を告げることができます。つまり、然るべき思いやりをもって。もし何か有害なことがあって、そうする必要のある時に、ただその事実を告げることによって。つまり、そうして子供達を護るために。
私達は、私達の聴罪司祭達がたとえ貧しい道具であるかも知れなくても、彼らによって与えられる慈悲と恵みを受け入れることができるし、彼らの霊魂と意図を裁かずに(not judge)、彼らのために祈ることができます。祈りは決して人を傷つけることがありません!
私にはただ二、三の考えがあるだけです。以上がこの著者(ムッター・フォーゲル)がこれらの言葉に付そうとした意味なのだとしたら、ここには何ら疑わしいものはありません。これらの文章の意図は、彼らの司祭の目の中にあるおかくずを見ていながら自分の目の中の梁に気づかずにいる人達を諌めることであったかも知れません。
投稿者 Melody
投稿日時 2008年2月4日 6:56
辛辣で怒りの感情の伴った批判は避けるべきだけれども、私は、カトリック司祭としては異端的である司祭達を見分け、それら悪い牧者達から離れるよう人々を導くことは、ある程度必要だと思います。
たとえば、私達の司教は少々堕落していて、人々に奉献の時も立っているようにと言います。これはひどい間違いであって、私はそのことを率直に言います。けれど、私はこの種のことを司教に言う時、辛辣な非難は避けるようにしています。「バチカンが教えているのは、こうです」と単純に言うことで、しばしば十分です。
トリエント・ミサや伝統的な信心業を熱心に促進することによって、或る司祭や実践に対して不賛成である意志を表明することもできます。もし誰かがあなたに「でも、地域の司祭はそれとは違うことを言っているよ」とか言っても、ただカテキズムかバチカンの文書を引用して下さい。そうすれば、あなたは「どこそこの司祭といったら、それはひどいミサをするんだ」といった会話に進む必要がなくなります。
もう一つ大事なのは、甚だしく間違った言説を聞いても、すぐには怒りの中に飛び込まないように努めるということです。その代りに、混乱したふりをして、穏やかに説明を求めて下さい。敬いの心を持った生徒の位置に留まって下さい。最初から、そして常に好意的に解釈して下さい。丁寧且つ寛大な態度で、正しい教えをあなたの意見として提示し、また典拠を示して下さい。例えば・・・「そうですか? 私は教皇様の回勅で〜〜〜と読んだのですが... 私の誤解でしょうか」とか。
私が今まで受けてきた反応は、即座の激昂から無知を認めることまで、また明るく考えを改めることまで、いろいろでした。時々は、私が本当にその司祭を誤解していたこともありました。私の知っていた或る非常に親切で謙遜な司祭は、彼の説教についての私に質問に「ああ、おお、私の説教はそんなふうに聞こえました?」と応えました。彼は私とのそのやり取りに感謝してくれました。確かに彼は本当に謙遜な司祭です。だから、そのような反応が他でもしばしば見られるとは期待しないで下さい。
極端な楽天主義のための時は終わっています。今や立ち上がって信仰を護るべき時です。(…)この混乱の多くは、カトリック教会は個人的な意見が重要とされる一種の民主主義的なものであるという間違った印象によって引き起こされ、また、「ピエタ」の祈りの本で普及された「カトリック信者は司祭の誤りを決して指摘してはならない」と教える間違った教育によって引き起こされています。カトリック教徒は、実際、教皇その人の間違いをも──もし彼が誤りに陥っているなら──指摘する責任を負っており、それ故どのような形においてか、私達は皆ミサ・ポリスであり得ると考えられます。しかし私達は、ミサを監視する前に私達自身の生き方を監視しなければなりません。そうすれば、それによってもたらされた神聖さが、実際、ミサ・ポリスを不必要なものにするでしょう。福音の聖句が言うように、兄弟の目にあるおかくずを取ってやろうとする前に、あなた自身の目にある丸太を取り除くことを忘れないようにしましょう。
私はこれらの人達の言うこと(ニュアンス)に共感します。この「ムッター・フォーゲルへの啓示」は主イエズスからの真正の啓示である可能性もあるけれど、そうだとしても、これは第二バチカン公会議以前の一応は「平時の」と言える教会環境に適用されるべきものだという気がします。第二バチカン公会議以降はあまりに教会環境が変わりました。いわば「非常事態」になりました。
この「非常時」においては、この「啓示」なるものの言葉よりも次のアシジの聖フランシスコの言葉の方が時代の必要に合っているように思います。
この新しいしるしは、神の目には偉大で、最も卓越したものであるのに、大勢の修道者やその他の人々からは全く取るに足りないものと見なされています。私は全身全霊をこめてあなたたちに願います。ふさわしいことであり、また、あなたたちが有益だと考える時には、私たちの主イエズス・キリストのいと聖なる御体と御血、およびキリストの御体を聖別する書きしるされた聖なる御言葉が、すべてに越えて尊ばれなければならないことを、聖職者の方々に謙遜に願って下さい。
「時代の必要に合っている」というのは、この言葉が「不敬」や「冒涜」の存在を示し、且つ「もしそれを見たなら、謙遜に、しかし言葉に出して、改めて頂けるよう願い出なさい」と言っているからです。他方、「ムッター・フォーゲルへの啓示」の言うように「彼について何も言わず」というのは、この時代、むしろ絶対にと言いたくなるほど駄目なことのように思えます。何故なら、早い話、第二バチカン公会議以降の教会はフリーメイソンやら共産主義者やらの策謀によって大いに翳ってしまったからです。私達は既にあるその広汎な影響と危険に確実に気づいていなければならないと思います。そんな時に、そんな状況にあるカトリック信徒に対して、「ただそれを目にする度に目をつぶって祈りなさい」というのは、果してどうでしょうか。「犠牲と祈りを第一にしなさい」という部分は全くその通りだとしても。
「ムッター・フォーゲルへの啓示」と似たような作用を私達の心に与えるものとして、よく引き合いに出される聖イグナチオ・デ・ロヨラの『霊操』の中の次の言葉があります。
霊操刊行会訳
すべてにおいて正しくあるよう、われわれが白とみえたことも、教階制度にもとづく聖なる教会が黒であると決定したら、花婿である主キリストと花嫁である教会との間には、われわれの救霊のため、われわれを主宰し、導く同じ聖霊が住んでおられることを信じて、その定めた黒を信じなければならない。これは十誡を授けられた主である同じ聖霊によって、母である聖なる教会は主宰と導きを受けているからである。
(第四週 > 教会の意見に従って考える規則 > 第十三則)
門脇佳吉神父訳
すべてにおいて正しくあるために、私が白と見るものでも、もし位階制度の教会が黒であると決定するなら、黒であると信じるように常に心掛けなければならない。なぜならば、花婿であるわれわれの主キリストと花嫁である教会との間に、同じ聖霊が内在され、その霊がわれわれを治め、魂の救いへと導かれていることを信じているからである。十戒を与えられた同じ聖霊と同じわれわれの主が聖なる母なる教会を導き、治めているからである。
(諸規則 > 教会の中で感じ考えること > 第十三則)
ここにある「教階制度にもとづく聖なる教会」「位階制度の教会」とは、教皇や聖座を意味するものであって、ローカルな司教や司祭を意味しないのかも知れません(そもそも昔はその両者にそんなに距離──信仰についての考えの距離──はなかっただろうけれども)。しかし、それは一応措いて・・・私はこれに関しても「啓示」に対するのとほぼ同じ感じ方をします。これは「平時」の教会の中にいる信者に適用されるものだと思います。実際、昔は典礼を甚だしく変形する司祭も、教義を相対化しまくる司祭もほとんどいなかったでしょうから。しかし今は違います。
そして、無視できないのは次のような言葉です。
183 完全に特別なしかたで、至聖なる聖体の秘跡がいかなる不敬や歪曲から守られるために、また、あらゆる誤用が完全に正されるために、すべての人がそれぞれの能力の及ぶあらゆることをなすべきである。これは、一人ひとりに、そしてすべての人に課せられているもっとも重大な責務である。いかなるえこひいきも越えてこの責務を果たすことが、すべての人に求められている。
あがないの秘跡
そして、たまには『教会憲章』、行きましょう。
37(信徒と聖職位階との関係)信徒は、すべてのキリスト信者と同様に、聖職にある牧者から教会の種々の霊的善、特に神のことばと秘跡の助けを豊かに受ける権利を持っている。そして自分の必要と望みを、神の子らとキリストにおける兄弟にふさわしい自由と信頼をもって牧者に表明すべきである。信徒はその知識、才能、識見に応じて、教会の利害に関する事がらについて自分の意見を発表する権利、さらに、ときにはそうする義務を持っている。このような場合には、教会がそのために制定した機関を通して行なうべきであって、常に真実と勇気と賢慮をもって、聖なる職務のためにキリストの代理をつとめている人々に対する尊敬と愛のうちに行なわなければならない。
そしてもちろん、「教皇の間違う可能性」と題した昔の日記でまとめさせてもらった「兄弟的矯正(諌め)」の可能について言っている記事たちも。
しかしながら・・・現在、一部のカトリック信者達の間にこの「尊敬と愛のうちに」という姿勢が甚だしく欠けているように見えて、嫌悪を覚える人もいるようです。
そして、若干、確かにそう「見える」ばかりではないようです。私達は確かに、自分達の表現の “仕方” の、そして心の「成分分析」を、たまには省みた方がいいのかも知れません。
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