2009.11.13

アリンゼ枢機卿「改宗は教会法によって禁じられている」

先日訳したFABC(アジア司教協議会連盟総会)でのアリンゼ枢機卿様のご発言(参照)などを読むと、心あるカトリック信者は「アリンゼ枢機卿様、ありがとうございます」と思う。「さすがはバチカン」とさえ思うかも知れない。けれど、もしそういうのが聖座への文字通り「全幅の」信頼を意味するのだとしたら、それは少し楽観的過ぎるというものだ。
あなたも気づいたかも知れないけれど、私もFABCについて調べている時、アリンゼ枢機卿様の別のご発言に気づいた。沢山の報道がそれを伝えている。FABCの場で、アリンゼ枢機卿様のお口から、次の一言が出たというのだ。
改宗は教会法によって禁じられています。
Proselytism is forbidden by canon law.
誰でもとっさにギョッとする。
郡山司教様もチラリと触れておられる。
教皇名代のアリンゼ枢機卿は、聖変化の効力を強調され、同時に福音宣教が即改宗を意味しないことを強調された。改宗させることは教会法でも禁じられているという。
強制するのは確かに禁じられるべきだと思うが「信者になりませんか」というお勧めはしてもいいのでは?
郡山司教様のおっしゃる通りだが、しかし、何という悲しさ! 何という馬鹿馬鹿しさ! 今や私達カトリック信者は、「信者になりませんか、というお勧めはしてもいいのでは?」という疑問を持たなければならない時代にあるのである!
これがどんなに馬鹿げた状況であるか、あなたには分かるか?
主は「屋根の上から大声で宣べ伝えよ」とおっしゃったのではなかったか?
「改宗は教会法によって禁じられています」・・・教会法で? いったい教会法のどこで? と誰しも思う。私はまだ教会法をよく調べていない。けれど、そこに「改宗を禁ずる」などという単純な表現があるわけもない。
参考になるのは教理省の「教理に関する覚書──福音宣教のいくつかの側面について」あたりかと思う。そこの注8に次のようにある。
「改宗 (proselytism)」ということばは元々はユダヤ教との関連で用いられた。「改宗 (proselytism)」は、異邦人の出身で、選ばれた民に移った人を意味した。そこでキリスト教の文脈においても、「改宗」はしばしば宣教活動と同じ意味で用いられる。しかし最近、このことばは悪い意味をもつようになった。福音の精神に反する手段を用いて、また福音の精神に反する理由から、つまり人間の尊厳と自由を守らずに、宗教を広めることの意味で用いられるのである。エキュメニズム運動の文脈でいわれる「強制的改宗」とはこの意味である。
つまり、アリンゼ枢機卿様の言葉も、これに従い、「強制的改宗は教会法で禁じられています」と読み替えれば、まんざらおかしくもないのである。「まんざら」というのは、私は教会法をよく調べてないので、今の段階では、教会法が「強制的改宗はいくない」ということもわざわざ言うのか疑問だからである。
しかしそれでも、これで一応は「一件落着」であろうか。
全然違うと思う。「一件落着」などではない。
「福音宣教は良いけれど、強制的改宗は良くない」と言われる時、この「強制」という言葉が「実際」においてどの程度の広がりを持つものか、私達は知らなければならない。常に「実際」が大事である。
私の感覚で言えば、あえてことさらに「強制は良くない」と言わなければならない状況とは、かなり昔の世界においてか、あるいは過度に封建的な家庭においての他はない。私は歴史に非常に疎いし、また現在の他の国々の状況もよく知らないけれど、民主主義が一応育った国(たとえば日本)においては、あえてことさらに「強制は良くない」と言う必要は殆どないように思う。(もし日本のカトリック家庭で、親が子供に信仰を押し付けるというようなことがあったとしても、それは “家庭の問題 ”であろう。)(他宗教では確かに信仰の強制があるだろう。特にイスラム圏で。)
では、この民主的な日本において、この「強制的改宗は禁じられている」という本来必要でもないような注意喚起が、その「必要なさ」にふさわしく何の居場所も得ていないかというと、私は決してそうではないと思う。この一応は民主的と言っていい日本においても、「強制するのは良くない」という言い回しが、非常に変な形で育ち、根づいてしまっているように思う。つまり、多くの場合、実際には、それは「お勧めするのも良くない」というふうな意識を私達の心の中に運んで来ているのだ。特に宗教間・教派間において。
相手がキリスト教他派であったり、別の宗教を持っていたりする場合、これはもう完全に「勧めなくて良い」になってしまう。「強制するのは良くありません」という民主国家ではかなり間の抜けた注意書きであるものが、いつの間にか「勧めなくて良い」、あるいは「勧めるのは良くない」に変貌する。「それよりも、私達は彼らに対し『心を開き』、彼らの『自由』と『尊厳』を守り、彼らの宗教を持ったままの彼らと『対話』したり『協調』したり『接近』したりすることに心を注ぐべきだ。カトリックを勧めるよりも、その方がずっと大切なことだ」とかいうことになってしまう。そして、そこに殆ど落ち着いてしまう。「本当はこの人達も天主の唯一の(あるいは少なくとも「最高」の)教会に移る恵みを得ればいいのになぁ」という心の動きなど、殆ど一切無くなってしまう。
だからこそ、このような事を平気でノホホンとやれてしまうのだ。参照
聖公会との合同礼拝(2008年2月1日、於:東京カテドラル)
参照: 東京教区ニュース, 女子パウロ会 Laudate
このようなことは、植松誠氏(日本聖公会首座主教:上の写真で岡田大司教様の横にいる)が天主の唯一普遍の(第二バチカン公会議においてさえ「最高の」)カトリック教会に改宗することはまず無いだろうという殆ど「断定」に近いものの上に立ってこそ出来ることである。「植松氏がカトリックに改宗するかも知れないなどということは殆ど “非現実的 ”なことだ」と思ってこそ出来ることである。だが、それは植松氏に霊魂に対して愛徳にもとることなのだ。またもちろん、天主様に対しても大変失礼なことだ。
また、更に重大なのは、岡田大司教様はこの時点で既に、カトリックの教義を認めない他派の宗教指導者と共に「祭壇」──それは「信仰」にとって最も中心的な場所である。決して世俗の会議室などではないのだ──の前に仲良く立つことがお出来になっているということである。どうしてそのようなことがお出来になっているのかというと、簡単に言えば、同じ東京教区ニュースで高柳俊一神父が言っているように、「互いの間で『共通』の点にだけ目を注ぐ」という姿勢によってである。「差異」には目をつぶっていよう、不問に付そう、そうして「もっと大事なこと」のために、あるいは「カトリック教義も大事かも知れないが、それにしても他の大事なこと」のために、手に手を取り合って進んで行こう、という態度によってである。そのようにして、岡田大司教様は既に、本来宗教にとって命であるところの「教義」の点で譲歩してしまっているのである。「平和」のために、「協調」のために、「一致」のために。
では、「同性愛、問題なし」と主張するジェファーツ・ショリ総裁主教が岡田大司教様の前に来たら、どうするのか。教義の点で一つ譲るも二つ譲るも同じじゃないか、ということにならないか。ショリ総裁主教はおそらく確かに「人間として善意」の人であろう。そんな人を、既に多くの教義において譲歩してしまっている時に、どうして断わるのことの出来る理由があるのか。断わることの出来る「原理」が立つのか。「エキュメニズム」なる世界が成立する要件は、殆ど相手の中に確認出来る「人としての善意」だけだというのに。
「強制はいけない」
私達はこんな注意書きを与えられなければならないほど子供なのか?
民度が低いのか?
「強制」なんてこと、いったいどこでそんなに頻発しているのか?
どうして「強制的改宗はイケナイ」ということを言うために、「改宗」という言葉自体を「悪い意味を持つもの」にしなければならない?
従来通り「改宗」という言葉を天主に祝福された言葉のままにしておき、その上で「しかし、当然ながら強制的に改宗させるのは良くない」と言えば済むだろうに!
「排他はいけない」──何故。
カトリックがカトリックであって、聖公会が聖公会であって、何故悪い。「排他」と云っても、Aの考えはBの考えとは違う、あくまで違う、という〈弁え〉のことだけである。人類はそれだけで戦争を起こしてしまうのか? カトリックと例えば聖公会は、それだけで「宗教戦争」を引き寄せそうなのか?
その “過度の平和主義”(言ってみれば)、子供じみたまでの「仲良く主義」が、かえって人間の精神と魂を弱体化させる。
しかし、彼らはそうやって、世界の中に大してありもしないものを小針棒大に宣伝し、さも由々しきものでもあるかのように誇張して(何度も言うが、カトリックがカトリック、聖公会は聖公会として “分かれてある” ことに、どのような由々しさも無いのである)、私達の宣教力を弱めようとしているのである。
「しかし最近、このことばは悪い意味をもつようになった」
そう、その通り、それは必ず「最近」なのだ!
その「改宗」という言葉の少なくとも「語感」を否定的な響きを持つものに変えようとしていた一団があったに違いない。「改宗」と聞けば私達の頭に直ぐに「強制」「強要」「圧迫」という連想が働くように、そうして「間違ってもそのように受け取られることが無いように」という恐れが起こるように。
これは “語の操作” であり “心理操作” である。かくして私達は「熱心な勧め」すら出来なくなってしまった。「熱心な勧め」と「強制」との間には本来単純な区別があるものだが、私達は人間関係の恐れによって目がかすみ、「カトリックこそが唯一普遍の天主の教会なのです」と言うことが出来なくなってしまった。
彼らは私達の “子供性” を、また “臆病” を利用したのである。
子供っぽい私達は、彼らによって臆病心を煽られ、「仲良く」なくば「ケンカ」あるのみと云ったような、その中間に理性的で大人らしい「敬して遠ざける」という状態が不可能であるかのような、また「自由」なくば「強制」あるのみと云ったような、その中間にどのような「勧め」もあってはならないかのような錯覚に落し込まれているのである。
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