2014.06.26

ユダヤの影響 7

注)あまり神経質にならずに、単純に「ユダヤ」と言うことにします。しかしもちろん、ユダヤ人の全てが悪いと言っているわけではありません。
それから、私たちは「偽ユダヤ人」ということも覚えておかなければならないでしょう。黙示録の 2:9 と 3:9 と ケストラー があるからです。

「共同体」という言葉:「ユダヤ」の台頭

司祭「この言葉──「共同体」──で考えていきましょう。この言葉で人類のことを一生懸命考えていきましょう。それがキリストの愛にも適うことではありませんか」 素朴な農夫「私には難しいことは分かりませんが、主はそのような言葉を使ってお話しになったことはただの一度もありませんでした」

この農夫が言っている事に少しは驚いて頂きたい

 あの「真生会館」に関係するサイトからでも、私達は物事を教えられることがある。

*旧約聖書には共同体(‘EDAH)に相当することばは多い。
*新約聖書には共同体に相当することばは何処にも出てこない。

課題:「日本の教会の小教区共同体を考える

第二バチカン公会議で教会は「信仰者の共同体」と言う教会観への転機が訪れたとはいえ(…)

組織としての教会

 私達がここで悟らなければならない事は二つある。

 一つは、

「共同体」という言葉はもともと、旧約の民、すなわち「ユダヤ人」にとって親しい言葉だった。

 と云う事。

 そしてもう一つは、

それ故、第二バチカン公会議以降、私達の教会の中に急に台頭し、今や至る所に見られる「共同体」という言葉は、私達の教会の中に於ける「ユダヤの台頭」を教える明らかな徴候である。

 と云う事である。
 (今まで見て来た幾つかの記事とも符合するではないか)

 上の二つは私にとって「結論」である。そしてそれは不動である。しかし、細かい事を言えば、真生会館関係のサイトの言葉には若干の不正確さがあるようだ。そのサイトは「新約聖書には共同体に相当することばは何処にも出てこない」と言っているが、私は聖パウロの書簡の中に次のようなものを見つけた。

エフェソ人への手紙 2章から (フランシスコ会訳)

 11  そこで、かつてあなたがたは、肉体に関しては異邦人であり、人の手で肉体に施す、いわゆる割礼を受けた者たちから「無割礼者」とさげすまれていたことを思い出しなさい。12  その当時、あなたがたには「キリスト」のあてもなく、イスラエルの共同体とは無縁であり、神の約束を繰り返し述べる契約とはかかわりがなく、この世にあって希望もなく、神もない者でした。

 バルバロ訳には「共同体」という言葉は見当たらず、その部分は「イスラエルの市民権をもたず」となっているが、しかしそれでも、ユダヤ人は実際「ユダヤ人共同体」(と言われていいもの)を持っていただろうから、聖パウロの書簡に「共同体」という言葉、或いはそれに相当する言葉が出て来ても、何らおかしくないだろう。

 しかしまた、それにも拘わらず、真生会館関係のサイトの言葉を少し修正して「新約聖書には共同体に相当することばはほとんど出てこない」と言うならば、それは十分に真実の言葉だろう。

 そして、主イエズスの聖言[みことば]に至っては、そのような語の出現は「皆無」と言っていいだろう。(上の農夫の言う通りだろう)

世の神父様方がやりかねないこと

 神父様方は "知的" だから、「言葉」と云えば、ギリシャ語やらヘブライ語やらへの語源探索から始めるのだろうし、次にはそれも超えて、種々の「概念」の世界に遊ぶだろう。

 人間は初めから社会的動物である。一人では生きて行けず、必ず寄り集まる。だから私達は、「共同体」という言葉と結び付けることが不可能ではない別の言葉を見つけることに、苦労はしないだろう。

 例えば、「二、三人がわたしの名によって集まっている所には、その中にわたしがいる」(マタイ 18:20)という主の聖言を捉えて、「主は『共同体』のことを言っているのだ!」と主張することだって、まんざら不可能ではないだろう。

 彼らはたくさん語る、いろいろと語る。しかし、彼らが「共同体」という言葉をこれほど心おきなく使っていられる理由は、煎じ詰める所、ただ次のような事に過ぎないだろう。

(1)

主イエズスは信者間の 「一致」 をお求めになった。

(2)

「一致」 とは、人と人の密な 「つながり」 のことである。

(3)

「共同体」 とは、人と人が 「つながり」 を持ちつつ形成する一つの社会集団のことである。

(4)

よって、主イエズスの教会に於いて 「共同体」 を呼び求めることは、正[ただ]しく、必要なことである。

 「これだけでは悪いのか」と問われるならば、「悪い」と答える。
 知的なあなた方もたまには感覚的に見ることを試みよ、と言いたい。その言葉、或いはそれに相当する言葉は、聖主の御口から出ていないのである。それなのにそんなに多用して・・・「このままでは私の視覚に何らかの不都合が出て来るかも知れない」と、思いもしないのか。

 あなたが真に「言葉」というものに敏感ならば、「用語一つを侮ることはできない。たった一つの用語だけで、或る世界の(カトリック界ならカトリック界の)全体の質が変わる(変えられる)こともあるのだ」と知っているだろう。

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