2014.07.16

悪魔の腐った舌 『信教の自由に関する宣言』 Part 2

激し過ぎる表題? そんな事はない筈です。一緒に見て下さい。

信教の自由に関する教えは、啓示によって
「断定されていない」 が、それに 「基づいている」 。
「基づいている」 が、 「断定されていない」 。

プシュ〜(空気の抜けた音)

 以前、こう書いたのだった。

 次に、フランスの神学者イヴ・コンガールである。彼の次のような言葉が、或る刊行物(下の写真)に記載されているという。

教皇様の要求に従って、私は『信教の自由に関する宣言』の最後の数段落を書くのを手伝いました。私の仕事は、信教の自由というテーマが既に聖書の中に現れていたということを証明することでしたが、実は聖書の中にはそのようなものはありません。

参照

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À la demande du pape, j’ai collaboré aux der­niers paragraphes de la déclaration sur la liberté religieuse: il s’agissait de montrer que le thème de la liberté religieuse appa­raissait déjà dans l’Écriture, or il n’y est pas.

Éric Vatré: La droite du Père, Paris 1994, p. 118

 公会議文書『信教の自由に関する宣言(ディグニタティス・フマネ)』に於いて本当にそのようなことになっているか、後で見よう。

Yves Congar

 コンガールのこの言葉は時効を得た後の詐欺犯のしれっとした犯行声明のように聞こえる。本当はもう少し前後関係を知りたいところだが、まあ、結局、『宣言』そのものに当たれば済むことだろう。

 後で『宣言』の言葉を上から順に見ることにするが、コンガールの言葉との関連については今ここで片付けてしまいたい。

 『宣言』は次の二つのパートから成っている。

1 信教の自由の一般原則
2 啓示に照らして見た信教の自由

 コンガールは「最後の数段落」と言っているから、また「信教の自由というテーマが既に聖書の中に現れていた」というところから云っても、該当する言葉があるとすれば 2 の中ということになるだろう。

 2 の中には次のような言い回しがある。

9(信教の自由の教えは啓示に基づいている) 本バチカン教会会議が信教の自由に関する人権について宣言することは、幾世紀の経験によって、人間の理性にいっそう明らかになった人格の尊厳の要求に基づくものである。その上、自由に関するこの教えは、神の啓示に基づいているため、キリスト者は他の人々以上に、この教えを忠実に守らなければならない。実際、啓示は、宗教問題における外的強制からの自由の権利について断定していないが、人格の尊厳を十分に示し、人間が神のことばを信ずる義務を果たす時の自由をキリストが尊敬したことを表わし、また師キリストの弟子たちが、自分のすべての行動において、心に留め、守らなければならない精神を教えている。これらすべてが、信教の自由に関するこの宣言の教えの土台となる一般原則を明らかにしている。特に、社会における信教の自由は、キリスト教の信仰の行為〔の自由〕と完全に一致するものである。

注)上の〔の自由〕は当サイト管理人による付加。英語訳にもラテン語原文にもその語がある。

9. The declaration of this Vatican Council on the right of man to religious freedom has its foundation in the dignity of the person, whose exigencies have come to be are fully known to human reason through centuries of experience. What is more, this doctrine of freedom has roots in divine revelation, and for this reason Christians are bound to respect it all the more conscientiously. Revelation does not indeed affirm in so many words辞書)the right of man to immunity from external coercion in matters religious. It does, however, disclose the dignity of the human person in its full dimensions. It gives evidence of the respect which Christ showed toward the freedom with which man is to fulfill his duty of belief in the word of God and it gives us lessons in the spirit which disciples of such a Master ought to adopt and continually follow. Thus further light is cast upon the general principles upon which the doctrine of this declaration on religious freedom is based. In particular, religious freedom in society is entirely consonant with the freedom of the act of Christian faith.

全文  英訳  ラテン語

信教の自由の教えは、
神の啓示に 「基づいてはいる」 が、
神の啓示によって 「断定されているわけではない」 のである。

「断定されているわけではない」 が、
「基づいてはいる」 のである。

英語訳に従えば、
「文字通りに断言されているわけではない」 が、
「それにルーツを持っている」 のである。

 私は思う。「何だ、それ」

 しかし、世の神父様方の多くはこう言うだろう、
 「いや、そんなことはない。十分に理解できることである」と。

 しかし、神父様方は「言葉」というものとの付き合いを見直された方がいい。特にこれが「神の言葉」に関する事であってみれば尚更。

 或いはまた、こうである。
 あなた方は一度、御自分のお姿をよくご覧になった方がいい。

 あなた方の多くは普段、「聖書の中に文字通りに断定されていること」をそのまま受け取っていない。それに言及することに躊躇し、実際、それを口にしない。
 主のあれらの聖言(参照)のことである。それは「聖書の中に文字通りに断定されてあること」である。

 そうであるに拘らず、他方で「聖書の中に文字通りには断定されていないこと」を、ほんの少しの理屈を言われるだけで、物分かりよく納得し、あなた自身もそれを神の御声そのものとばかりに高く掲げるなら、どこか変ではないか?

 そんなことでは、あなた方はいつしか〈神のもの〉に生きると云うより〈人のもの〉に生きるという事態に陥るのではないか?
(「いつしか」ではない。既にそうなっている。)

 私達は人間であるから「人間的」になることは避けがたいようなところがある。しかしそれでも、あなた方は再考すべきではないか。

 コンガールの言葉をもう一度見よう。

私の仕事は、信教の自由というテーマが既に聖書の中に現れていたということを証明することでしたが、実は聖書の中にはそのようなものはありません。

 コンガールのこの言い方もシンプル過ぎるようなところがあって、世の神父様方は、詰まりは、こう思うであろう。

それは文字通りには "ない" かも知れないが、主イエズスや使徒達は信仰を人々に強要しなかったのだから、信教の自由というテーマが聖書の中に "内包されている" とは見ることができるだろう。

 結び付きが 「ある」「ない」「直接的にはないが間接的にはある」の三つというわけである。
 しかし解答は──特筆すべきほどの結び付きはない」である。

 (理由は次回に述べる)

 ところが宣言は、上の引用の最後で「これらすべてが」とか「完全に一致」とか言いながら大いに〈強調〉している。

 「これらすべてが」という訳が正しいのかどうか少し不安だけれども(英語訳では「Thus further light is cast upon …」)、正しいとして、「これらすべて」とは何なのか。
 ──「幾世紀の経験」「人間の理性」「神の啓示」である。

 しかし、初めの二つは実際のところ「見る人」によって左右されるものである。そして「神の啓示」にしても、「信教の自由の教えは、神の啓示によって文字通りに断言されているわけではないが、それにルーツを持っていると考えられる」ということであるから、要するに「人間の理性によってそう読み取れる」ということである。であるならば、「これらすべて」の中には実質「経験」と「理性」しか含まれないということになる。つまり結局、宣言が立っているのはこの二つだけということになる。
 ならば、宣言は〈不当な強調〉をしているということにならないか。

 宣言の口振りをもう少し見ておこう。

12(教会はキリストおよび使徒たちの模範に従う) 福音の真理に忠実な教会は、信教の自由の原則が、人間の尊厳と神の啓示とに合致するものと認め、それを促進する場合、キリストと使徒たちに従うものである。

12. In faithfulness therefore to the truth of the Gospel, the Church is following the way of Christ and the apostles when she recognizes and gives support to the principle of religious freedom as befitting the dignity of man and as being in accord with divine revelation.

全文  英訳  ラテン語

 しかし、その「合致」とは如何なるものであるかを次回に検討しよう。

 「1 信教の自由の一般原則」には次のような言い方がある。

2(…)なお信教の自由の権利は、人格の尊厳に基づくものであり、神の啓示のことばと理性そのものとによって認識されることを宣言する。

2.(…)The council further declares that the right to religious freedom has its foundation in the very dignity of the human person as this dignity is known through the revealed word of God and by reason itself.

全文  英訳  ラテン語

 「信教の自由の権利」はあたかも「神の啓示のことば」によって直接的にも認識されるかのようである。

 しかし、ここはどうやら日本語訳が不適切なようである。

 英語訳(上に引用した)に従えば、「神の啓示のことばと理性そのものとによって認識される」のは、まず「人格の尊厳」の方である。
 次のように言っている。
信教の自由の権利は、神の啓示のことばと理性そのものとによって認識されるところの人格の尊厳、正にその人格の尊厳に基づくものである
 つまり、あくまで「二段構え」である。

 しかし、「二段構え」だから構わないのではない。
 宣言が「信教の自由の教え」と「啓示」を "結び付けて" いることには変わりがない。そこが問題である。

 何故ならば、実のところ、その二つには特に「結び付き」はないからである

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