2015.01.30

立派な神父様  ボブ・ザラテ神父様(厚木教会)

 前回の続きを書かなければなりませんが、ちょっと寄り道。

Profile

 カトリック厚木教会(横浜司教区)の主任司祭、ボブ・ザラテ神父様(Fr. Robert Paul Arias Zarate)。御出身はフィリピン。厚木教会の主任司祭に着任なさったのは2012年4月とのこと。

 立派な神父様だと思わせて頂きました。
 何故なら、教会報の中にこのような事を書いておられるから。
  • 広報誌「あつぎ」NO.128/ 2014.7月号(PDF
 この時代、「御聖堂では沈黙を守りましょう」と公言するだけでも立派な神父様です。

 そして、このような事を書いておられるから。
  • 広報誌「あつぎ」NO.129/ 2014.10月号(PDF
 この時代、このような事を書く神父様はまず居ません。

 私が今続けている主題との関連では、特にNO.128のこの部分。
 (強調表示は神父様ご自身によるものです)

3)跪くことと立つこと、どちらの方がいいかと私は何回も聞かれたことがあります。ご聖体を口で受けるか、手で受けるか、どちらが相応しいかとも聞かれました。日本では跪く代わりにそのまま立ってもいいということは許されるようになり、70年代からでも通常の口で受けるより、手でご聖体を受けることもバチカンから日本の教会に特別許可を与えられました。ご自分で判断してください神様を拝むためにどちらで心を表したほうがいいですか

 さて、これは神父様が2014年7月にお書きになったことです。しかし、その直後の2014年11月に『日本におけるミサ中の聖体拝領の方法に関する指針』参考1, 参考2が公布されました。

 だから、今後はこの神父様も、少なくとも教会報のような公的な場所では、上のようなニュアンスの事は書けなくなるでしょう。

 何故なら、日本の神父様方は、その新指針によって、益々(基本的には今迄もそうだったのです)次のように求められるからです。

“

信徒に「ご聖体を口で受けるか、手で受けるか、どちらが相応しいか、ご自分で判断して下さい」とは決して言わず、「 “会衆の一致のしるし” という観点から、また拝領のための行列が円滑に流れるためにも、特別の事情がない限り、日本に於いて原則であるところの “立って拝領すること” を守って下さい」と指導して下さい。

”

 ──と。

 さて、私達は自分の信ずる所を「物陰で言う」べきでしょうか。このような神父様を貴重な司祭として大事に思っている信徒達も、そうすべきでしょうか。或いは、少しはに倣って、神の御名に於いて自分が信じて疑わない事を「明るみで言う」べきでしょうか。

 ザラテ神父様が厚木教会の主任司祭に着任なさる少し前の広報誌「あつぎ」2011年4月特集号(PDF)には、森一弘司教様の講話の内容とされるものが一人の “HP委員” によって長々と紹介されています。そこには次のような言葉があります。強調は管理人。

■どのような神様を信じられますか?
 まじめに生きなければ死んだ後、神様の裁きによって天国にいけないという神様を信じますか? そのような神様はいやですね!
 例えば、親は息子の結婚式で、式の最後に息子たちから感謝のことばを頂き息子の幸せな姿を目の前にして、自分も幸せな思いをするように(その瞬間、息子を育てる中で苦労した過去の悪い出来事などは忘れてしまう)、神様は人間の過去を責めたりしない。
 司教様が信じている神様は、「私が死んだとき、天国の入り口で神様は待ち構えていて、すまなかったね」と謝り、悪い親で苦労の連続であった場合には「おまえにあんな悪い親を与えてしまって、さぞや苦労されたでしょう」と神様の方から「ごめんね」と頭を下げて、「長い人生、ご苦労様」と労いの言葉を掛けてくれる神様です。イエズス様の放蕩息子の例え話で示したように、息子は冷たい社会を体験し親の元にもどり、皆で喜び合い歓迎されるというイエズス様が示された神様を信じます。

 私はこれを何と形容しましょう。
 こう言いましょう。「臆面もなく一面的」
 いつか見たこのような姿勢↓と同じです。

参照

 こう言いましょう。「良心的な厚かましさ」

 また、こうも書いています。

■11人の弟子たちはどのようにして福音を学んだか?
 11人の弟子たちが食事をしているところにイエズス様が現れ、弟子たちに「全世界に行き、すべての者に福音を宣べ伝えなさい」と言われたが、弟子たちは福音が何かであるかを理解していなかった。イエズス様の福音を人生の喜びとして体験していたのは女性たちに多かった。弟子たちはその女性たちを訪ねて話を聞きまわって、この話をまとめられたのものが福音書です。人々はイエズス様の人柄に魅かれて、温かさ、豊かさ、やさしさで包み込まれた。イエズス様は生きることの難しさ、人生の旅のしんどさを分かっておられ、人間の命の歩みに寄り添い続けている方です。弟子たちはそのような人たちの話を聞いて、イエズス様の福音の本質を学んだ。
 弟子たちは、誰が一番偉いか論争したりもした。しかし、イエズス様は弟子たちに現われて「あなたがたに平和があるように」と言われ、初めて弟子たちはイエズス様を理解した。弟子たちは信者たちの生活を通して、福音を体験した人たちに耳を傾けることによって福音を理解し語れるようになった。弟子たちは福音を信者から教わったのだ。

 国井神父様は「福音書」を人間の人間に依る人間的な “編集会議” のようなものから生まれたかのように言い、そして森司教様もこのように言うわけです(HP委員によるこの報告が確かならば)

 しかし、私は彼らに言いたいと思います。
 確かに、福音書の成立過程には人間が関わっていたでしょう。だから、あなた方の言うような側面もあるにはあるでしょう。しかしそれでも、あなた方もたまには、そして少なくとも、こう言いませんか?「そこには人間ばかりでなく聖霊も関わっていただろう。即ち、福音書には霊感で書かれた部分もあるだろう」と。せめてその程度には言ってくれませんか? それすら言いたくありませんか?

 森司教様の話の聞き取りに於いてその “HP委員” に何か問題があり得るでしょうか。しかし、何れにせよ、教会報に「司教の言葉」として上のように載ったことは事実です。

ザラテ神父様のサイト

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