2018.04.05

主日の義務 16

小心

今田健美(こんだ たけみ)神父様の公教要理講解(『種蒔く人』上巻)の最終章(「十七 信者としての心得」)の後に「付録」があり、その中で神父様は人間の「良心」についてお述べになっている。その中の「小心」についての項が、ごく短い一節だが、現代の一定の信者と司祭にとって参考になると思う。

p.725

正しくもなく、確かでもない良心

(1)惑う良心、(2)小心、(3)たるんだ良心に分けられます。(…)

(2)小心
 罪のないのに理由なく罪の恐れを抱く人を小心者と言います。小心な人は不安と心配とに脅かされた心の状態に置かれます。小心な良心は、軽々しく、悪と判断して、恐れる心の状態をいうのです。小心は不合理であり、心身に害を及ぼしますから、改めなければなりません。小心な心の声には背いてもよいのです。むしろ背いて行動すべきです。

この内容は、私が以前晴佐久神父様についてのところで書いた内容に対応すると思う。

カトリックは「理性的」に教えています。罪について教え、それについて神から赦しを得る方法について教えています。「良心を糾明し、悔い改め、ゆるしの秘跡を受け、償いをすれば大丈夫です」。この教えに「理性的」に立っている人にとっては、「地獄」はさほど脅威にならないものです。

問題は「非理性的」な人です。感情的な人、怖がりの人、そして特に「ノイローゼ的」な人。このような人たちに対しては、いくら「良心を糾明し、悔い改め、ゆるしの秘跡を受け、償いをすれば大丈夫です」と教えても、言われた時は少し心が落ち着いても、少し時が経てば、また訳もなく「怖い、怖い」となってしまいます。晴佐久神父様のところにも、何を言っても「私なんか滅びた方がいい」「地獄に落ちて当然だ」となっちゃう信者さんが居るようです。しかし、そのような人がそのようになるのは、必ずしも「地獄」についての教えの責任ではありません。そのような人に対して何らかのケアが必要だとしても。

2017.04.21 晴佐久昌英神父

晴佐久神父様は「怖い、怖いとなっちゃっている人に『理性的に考えましょう』なんて言ったって駄目なんですよ」と言うかも知れない。私も、その難しさは分かる。否、想像がつく。

しかし、そのような人が多い(しかし、実際のところ、どれほど「多い」のか?)という理由によって「カトリックの教えから『地獄』に関するものは全て捨ててしまえ」と言うのも間違っている。

私が司祭なら、「カトリックの教えを変えることはできませんが、あなたがその小心から脱して物事を理性的に考えることができるようになるように、一緒に祈りましょう」と励ます。

晴佐久神父様に関しては、彼は彼自身、地獄の存在を信じてないようなので、それ以前である。

晴佐久神父様のような態度は、前回の「母性的な教会(父性を欠く教会)」というのと、ちょっと関係していると思う。
つまり、「性差についての考えが古い」と怒られそうなので短く言うが──「理性」を教えるのは「父」である。

「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」

フリーメイソンの雑誌『Humanisme』1968年11月/12月号 より

次へ
日記の目次へ
ページに直接に入った方はこちらをクリックしてください→ フレームページのトップへ
inserted by FC2 system