2018.05.05

エルデル・カマラ大司教 5

前回で ② として示したもの、すなわちイタリア TFP の会長 Julio Loredo 氏が書いたものを以下に試訳する。

Loredo 氏のこの文章はやや典拠不足かと思う。しかし、「カマラ大司教という聖職者は避けなければならない」と私たちが知るためには、典拠のある二、三のエピソードを知るだけで十分だろう。それに、不足している典拠は、カマラ大司教の同様のエピソードを取り上げている ① の記事 が示すだろう。

数ヶ国語に訳されている記事を、下手な訳によってであれ、ここに訳すことができて良かったと思う。画像と〔  〕は私による付加。

SOURCE

イタリア語(原記事): 伝統・家庭・私有財産権擁護協会(TFP

イタリア語(写し): Plinio Corrêa de Oliveira

イタリア語(写し): Corrispondenza Romana

英語訳: RORATE CÆLI

フランス語訳: FSSPX NEWS

ポルトガル語訳: Fratres in Unum.com

スペイン語訳: CATÓLICOS ALERTA - Defendiendo nuestra fe

ドイツ語訳: Katholisches

オランダ語訳: RESTKERK


伝統・家庭・私有財産権擁護協会ニューズレター
- 2015年4月 - 1

ドン・エルデル・カマラは本当はどういう人物だったか

by Julio Loredo

親愛なる訪問者の皆さん。

最近、ドン〔尊称〕・エルデル・カマラについて多く語られています。彼の列福のためのプロセスが最近、バチカンによって承認されたからです。

モンシニョール・エルデル・ペソア・カマラ(1909-1999)──リオ・デ・ジャネイロの補佐司教、そしてその後、オリンダ及びレシフェの首都大司教──は、平均的なイタリア人にはほとんど知られていません。

ドン・エルデルはどんな人物だったのでしょう?

ほとんど馬鹿馬鹿しいレベルのプロパガンダ

報道を通じて私たちにもたらされるモンシニョール・カマラについての情報は、偏ったプロパガンダであるだけであり、私はそれを「ほとんど馬鹿馬鹿しいレベル」と呼ぶことを恐れません。

例えば、私は、エルデル大司教が1999年8月に死亡した時の報道の反応をとてもよく覚えています。イタリアのマスメディアは競い合って彼のことを賞讃し、彼に「貧しい人々の預言者」「スラム街の聖者」「第三世界の声」「アメリカの聖エルデル」管理人注1などと云った非常に高い称号を与えたものです。それはまるでマスメディアによる列聖のようでした。(1)

この同じマスメディアのプロパガンダ・マシーンは、先の2月25日にバチカンによって承認された彼の列福のためのプロセスの開始に関して再び活性化したようです。それについての情報は、私たちを全く害さないでしょう管理人注2

プロ・ナチ戦士

おそらくこれを知っている人はほとんど居ないでしょうが、エルデル・カマラはその公的生活をプロ・ナチ〔親ナチス〕戦士として始めました。

「緑色のシャツ」 を着たプリニオ・サルガード

彼は実際、プリニオ・サルガードによって創設されたプロ・ナチの「Ação Integralista Brasileira(AIB)」の党役員でした管理人注3。1934年には、カマラ神父は AIB の最高評議会の一員となりました。その二年後には、彼はサルガードの個人秘書になり、そして AIB の書記長になり、ドイツのナチスを模倣した決起集会や準軍事的行進などで主導的役割を果たしました。彼のプロ・ナチの信念は深く〔この当時は?〕、彼は司祭叙階された時、カソックの下に統合主義運動の民兵の制服である悪名高い「緑色のシャツ」を着ていたほどです。管理人注4

1946年、リオ・デ・ジャネイロの大司教は彼を補佐司教にしたいと考えましたが、聖座は彼のプロ・ナチ闘争の前歴のためにそれを拒否しました。〔しかし〕それから僅か五年後に彼はそれに任命されました。しばらしくて後、エルデル・カマラはプロ・ナチ的統合主義から親マルクス的進歩主義への移行を完了しました。

1968年、ブラジルの作家オットー・エンゲルがモンシニョール・カマラの伝記を書いた時、彼はオリンダ及びレシフェ大司教区〔当時、そこの長はカマラ大司教自身〕からそれを刊行しないようにと警告する「略式命令」を受けました。大司教は自分のプロ・ナチの過去を知られたくなかったのです。

JUC から PC〔Partido Comunista、共産党〕まで。
ブラジルのカトリック・アクション

1947年、カマラ神父はブラジルのカトリック・アクションの副会長に任命され、カトリック・アクションは彼の影響によって左傾化し始め、幾つかの場面ではマルクス・レーニン主義を受け入れるようにさえなりました。左傾化は、カマラが特に深く関係していた JUC (Juventude Universitária Católica)〔=Catholic Youth University〕において特に明白でした。JUC の元秘書官ルイス・アルベルト・ゴミス・ド・ソーザは「JUC の活動家たちの活動は(…)それが社会主義者のものであることが少しずつ明らかになるようなものになって行った」(2) と書いています。管理人注5

キューバの共産主義革命(1959年)は JUC によって熱狂的に歓迎されました。JUC の取締役のハロルド・リマ氏とアルド・アランチス氏によれば、「民族闘争の復活と1959年のキューバ革命の勝利は、JUC を『ブラジル革命』という考えに導いた」。左傾化は、JUC が共産党と近い関係にある UNE(Uniao Nacional de Estudantes)に関わることによって促進されました。「学生運動(リマとアランテスで続いていた)における闘争の結果、JUC は、今日のクリスチャンにとってのより広範な政治的課題、を決定することを余儀なくされた。このようにして、1960年の会議で JUC は『民主的社会主義』と『ブラジル革命』への支持を宣言した文書(…)を承認した」(3)

ジョアン・グラール大統領の左派政権時代(1961年~1964年)に、JUC の中に「O Grupão」と呼ばれる急進的な一派が形成され、次いでそれは、1962年に自らを「社会主義者」と定義した「Ação Popular(AP)」に姿を変えました管理人注6。1963年の会議で AP は「社会主義を受け入れ、生産手段の社会化を促進する」とする議案を承認しました。議案は更に、ロシア革命の称賛と「革命の理論と実践におけるマルクス主義の決定的な重要性」の認証を含んでいました (4)

しかし、移行はそれで終わりませんでした。1968年の全国集会では、Ação Popular は自らを「マルクス・レーニン主義者」と宣言し、その名を 「Ação Popular Marxista-Leninista(APML)」に変えました。1972年には、それは最早共産党と分かれている意味はないとされ、解体され、ブラジル共産党に統合されました。この統合の結果、カトリック・アクションの多くの闘争家たちは、ブラジルで左翼テロリズムが起こっていた間、その武装闘争に関与することになりました。

少なくない司教たちからの助言に反して、エルデル・カマラは JUC の左傾化の最も熱心で確信的な擁護者の一人でした。(5)

パウロ六世に対する反抗と他の奇矯さ

1968年、教皇パウロ六世は回勅『フマネ・ヴィテ』を公布しましたが、エルデル・カマラ大司教は公然と教皇に反抗し、避妊に関する教皇の教えを「妻たちを拷問し、多くの家庭の平和を妨げることになる誤り」と断じました。(6)

私たちの心に本当に衝撃を与える詩において、オリンダ及びレシフェの大司教は、女性のことを、彼によれば、「モンスター」を産むことを強いられた教会の教えの「犠牲者」と書きました。「子供たち、子供たち、子供たち! もしあなたが性交したいなら、その時、あなたは産まなければならない! たとえあなたの子供が内臓を持たずに生まれようとしていても、奇形の足を持って生まれようとしていても、知的障害を持って生まれようとしていても、醜く死ぬ運命だとしても!」管理人注7

エルデル・カマラはまた、離婚者を擁護し、「(配偶者によって)放棄された人たちに対する新しい宗教婚の可能性を排除しない」とする正教会の立場を受け容れました。「それではレイアシズム信奉者たちを容認することにならないか」と問われると、彼は「その人たちが勝利の歌を歌ったからといって何が問題なのですか。その人たちが正しいなら」と答えました。

この休むことを知らない大司教はまた、女性の司祭叙階についても大声で要求しました。第二バチカン公会議の間、彼は司教たちのグループの前で、執拗にこう問いかけました。「女性は司祭にはなるべきではないとする主張に何か真に決定的な論拠があるものなら、どうぞ言ってみてください。それとも、それはただの男性の偏見ですか?」

第二バチカン公会議がその可能性〔女性の司祭叙階の可能性〕を排除したことは問題ではありませんでした。カマラによると、「私たちは公会議のテキストの先に進まなければなりません。その解釈は私たちにかかっています」。

しかし、彼の妄動はそれで終わりませんでした。彼は1965年、公会議教父たちが参加した或る会議でこう語りました:「私は、人類はやがて生命を人工的に作るだろうと信じます、また、死者を甦らせる技術に到達するだろうと信じます、また(…)猿の生殖腺を移植することによって男性患者の活力を奇跡的に甦らすだろうと信じます」

ソ連、中国、キューバと共闘する

ドン・エルデルが共産主義に対して強く共感する点は数多くあり、また一貫していました(たとえ彼が時々その無神論を批判したとしても)。

例えば、1969年1月27日、ニューヨークで開催された “環アメリカ〔北米、中米、南米を包括する〕の協力に関するカトリック・プログラムに関する第六回年次総会” における彼の介入〔スピーチ〕は、悲しいことによく知られています。彼のその介入は明らかに国際共産主義と強く結びついたものであり、彼に「赤い大司教」という仇名(彼の名前に密接に結び付けられることになった呼称)を獲得させました。管理人注8

ドン・エルデルは、アメリカの反ソ政策を激しく非難した後、アメリカの軍事力を大幅に削減すべきことを提案し、他方、〔アメリカの〕「帝国主義」に対抗するためにソ連がその軍事力を維持すべきことを要求しました。そのような戦略を述べたことから来るであろう結果を察知して、彼は事前に自己防衛しました:「このようなアプローチが世界を共産主義の手に渡してしまうものだとは思わないでください!」

エルデル・カマラは、そのようにアメリカを攻撃した後、当時その全面的な「文化革命」によって何百万もの人々に死をもたらしていた毛沢東の中国を讃えました。赤い大司教はまた、その結果として台湾が除外されることになった中国共産党の国連への参加を公式に求めました。彼は最後に、当時ラテンアメリカで血まみれのゲリラ戦を続けていたキューバの独裁者フィデル・カストロに対する賛意を表明することをもって彼のスピーチを終えました。彼は、キューバが1962年に追放されたOEA(米州機構)にキューバが再び受け入れられるべきことを要求しました。

彼のこのあまりに露骨に親共産主義かつ反西欧世界である介入は、プリニオ・コヘイア・デ・オリヴェイラ教授の「赤い大司教がアメリカと世界の扉を共産主義に向けて開放する」と題された宣言によって厳しく非難されました。「ドン・エルデルのスピーチに含まれる声明は、世界を共産主義に無条件に降伏させる政策を概説しています。私たちは一つのとんでもない現実に直面しています。すなわち、聖なるローマ教会の、十二使徒の後継者としての権威を享受している一人の司教が、共産主義に直面している自由世界の軍事要塞と戦略的防衛を撤廃させようとしているのです。共産主義、それは、これまで常に教会とキリスト教文明に対して激しくぶつかって来た最も急進的で容赦のない、狂気の、そして狡猾な敵であるにかかわらず」(7)

〔注: 英訳者たちはこの段落を訳していない。自動翻訳に頼りながら訳した〕

ラテンアメリカのための共産主義革命計画

しかし、おそらく最も驚くべきエピソードは、いわゆる「コンブリン事件」でしょう。

コンブリン神父とカマラ大司教(参照

コンブリン神父が司祭服を着た写真は殆ど見つからない。Joseph ComblinJosé Comblin

1968年6月、レシフェの神学院(神学校)の教授であるベルギー人司祭ジョゼフ・コンブリン〔1923 - 2011〕がエルデル・カマラ大司教の “神の盾” に護られつつ準備していた一つの爆弾的文書が、ブラジルの新聞にリークされました。その文書はベールなしに、「国家を解体し、共産主義の土台たる『民衆の独裁』を確立する」という破壊的な計画を提案していました。その文書の要点を幾つか挙げると:

私有財産制への反対
コンブリンはその文書で、私有財産、従って資本〔主義〕も本質的に不公平である、という仮定に立って、農業、都市および経済界という三分野における改革を擁護しています。資本のどのような私的使用も法によって禁じられなければならないと。

完全な平等
コンブリンは、ゴールは完全な平等を確立することである、と断言しています。ヒエラルキーは、政治的・社会的分野におけるものであれ、教会におけるものであれ、全て廃止されなければならないと。

政治的・社会的革命
政治的・社会的分野において、この平等主義革命は、権力を獲得した過激な「圧力団体」による国家破壊を支持する。その者らは、ひとたび権力を掌握するや、「怠け者」と見なされるべきマジョリティに口輪をはめる厳しい「民衆による独裁」を確立しなければならない。

教会における革命
この急進的なマイノリティが邪魔者なしに支配することができるために、この文書は司教の権威を事実上廃止することを提唱しています。司教たちは過激派のみで構成された権力機関、教会的な「ポリットビューロー」(Politburo、共産党執行部)のようなものに従うべきであると。

軍隊の廃止
軍隊は解体されなければならず、彼らの武器は民衆に配布されなければならない。

新聞、ラジオ、テレビに対する検閲
人々が「革命的良心」の承認可能なレベルに達しない限り、新聞、ラジオ、テレビは厳格に管理されなければならない。これに同意しないエリートは国を出て行かなければならない。

人民裁判所
司法権力は「ブルジョアジーによって腐敗」している、と非難しながら、コンブリンは、この革命的な風に反対する者に対して略式裁判を行なう「特別人民裁判所」の設立を提案しています。

暴力
レシフェの神学校のこの教授は、もしこの破壊的な計画が通常の方法で達成されることができなかったならば、その時、彼が理論化した政治体制を「manu militari」に〔あらゆる手段を使ってでも〕確立するため、武器の使用も合法である、と考えています。(8)

エルデル・カマラの支援

「コンブリン文書」はブラジルに原爆のような影響を与えました。それに対する批判の嵐の中で、コンブリン神父はその文書が本物であることを否定しませんでしたが、しかし、それは「ただの草案」(彼の言葉そのまま!)であると言いました。オリンダ及びレシフェ大司教区当局は、それ自身の見解として、その文書がその神学校の管区から来たことは認めましたが、しかし「それは公的な文書ではありません」(これも言葉そのまま!)と言いました。管理人注9

その時、プリニオ・コヘイア・デ・オリヴェイラ教授が、モンシニョール・エルデル・カマラ宛に、ブラジルの人々のもっともな怒りを代弁する公開書簡を25個の新聞で発表しました。そこにはこう書かれています:「私はここに、自分が何百万ものブラジルの人々の感情を代弁できると信じて、猊下に次のことをお願いします。レシフェの神学院から、また大司教区そのものから、司祭の地位を利用して教会を傷つけているアジテーターを、ここブラジルで共産主義・独裁主義・暴力等を説くことでブラジル人の人の良さを弄んでいるアジテーターを、追放してください」

エルデル・カマラは回避的に答えました:「誰もが反対する権利を持っています。私はただ全ての人の意見に耳を傾けています」。しかし、彼は同時に、コンブリン神父を神学校の教授のポストに固く留まらせ、大司教としての権威をもって同神父を支えました管理人注10。〔しかし〕結局、ブラジル政府はこのベルギー人司祭の居留許可を取り消し、神父はブラジルを出て行かなければならなくなりました。

コンブリン神父とカマラ大司教

カマラ大司教は後年もコンブリン神父と仲が良かったようだ。私たちはこういう時、「カマラ大司教は友誼に篤い」と言うべきだろうか? 私は、今や「人間的」なことだけに生きているような現代の神父様方がそう考えそうで怖い。(管理人)

解放の神学

モンシニョール・エルデル・カマラは、1984年にバチカンによって非難された所謂「解放の神学」のチャンピオンの一人としても記憶されています。

二つの声明がその神学を要約しています。第一、ドン・エルデルの同国人であるレオナルド・ボフの言:「私たちが提案しているのは、神学におけるマルクス主義と唯物史観です」(9) 。第二、ペルーのグスタボ・グティエレス(この思潮を興した司祭)の言:「解放の神学についてここで私たちが意味しているのは、革命的な政治プロセスに私たちも参加するということです」(10) 。グティエレスはまた、この参加の意味をこう説明しています:「階層社会の超克によってのみ、(…)私有財産制の廃止によってのみ、私たちはより公正な社会の基盤を築くことができるでしょう。ラテンアメリカでの新しい社会を計画しようとする努力がますます社会主義に向かう傾向にあるのはこのためです」(11)

まさしくこのテーマに捧げられた一冊の本が最近、イタリアで刊行されました。『解放の神学:貧困層のための救命ジャケット』(Cantagalli 社)(12)

貧困層と自由の友?

しかしおそらく、エルデル・カマラについての最も大きな虚偽は、彼を「貧困層の友」「自由の守護者」として提示することでしょう。

「自由の守護者」という称号は、二十世紀を傷つけた最も血なまぐさい専制主義の幾つか(初めにナチズム、そしてソビエト、キューバ、中国など、あらゆる変形における共産主義)を賞讃した者には甚だそぐわないものです。

しかしながら、とりわけ「貧困層の友」という称号が、そのようなひどい貧困を引き起こした政治体制(当時のラッツィンガー枢機卿によって「私たちの時代の恥」と称されたもの)を支持した者には全くもってそぐわないものです。(13)

〔ここから先の本文を英訳者たちは訳していない。自動翻訳に頼りながら訳した〕

ラテンアメリカ諸国に関する国別の詳細な調査によれば、ドン・エルデルが提案した政策が実行された国では、貧困と人々の不満が著しく増加しています。他方、その反対の政策が実行された国では、人々の幸福感は全般的に増加しています。

全ての人々のための〔貧しい人々のためだけではない?〕例を挙げるならば: ドン・エルデルがそのメイン・プロモーターだった農業改革は、INCRA(Instituto Nacional de Colonização e Reforma Agrária)〔国立植民農地改革院〕の長官、つまり実行された農業改革に評価を下す責任者である人、フランシスコ・グラジアーノ・ネト氏が、「わが国の政策における最悪の失敗」と迷いなく断言する結果に終わっています。(14)

関連する多くの統計データを見ながらこのトピックを調べたいと思う読者は、上述の本 (15) を参照することができます。

「左翼はあまりに貧しい人々を愛するので、左翼が勢力を伸ばす時はいつでも、貧しい人たちが増える」と言ったインドロ・モンタネッリ氏は正しかったのです。


Note

1. Cfr. Julio LOREDO, L’altro volto di Dom Helder, “Tradizione Famiglia Proprietà”, novembre 1999, pp. 4-5.

2. Luiz Alberto GOMES DE SOUZA, A JUC . Os estudantes católicos e a política, Editora Vozes, Petrópolis 1984, p. 156.

3. Haroldo LIMA e Aldo ARANTES, História da Ação Popular. Da JUC ao PC do B, Editora Alfa-Omega, São Paulo 1984, p. 27-28.

4. Ibid., p. 37.

5. Si veda, per esempio, Scott MAINWARING, The Catholic Church and Politics in Brazil, 1916-1985, Stanford University Press, 1986, p. 71.

6. Cfr. Helder PESSOA CÂMARA, Obras Completas, Editora Universitária, Instituto Dom Helder Câmara, Recife, 2004. Cfr. Massimo INTROVIGNE, Una battaglia nella notte, Sugarco Edizioni, Milano 2008.

7. Plinio CORRÊA DE OLIVEIRA, O Arcebispo vermelho abre as portas da América e do mundo para o comunismo, “Catolicismo” Nº 218, febbraio 1969. È interessante confrontare – per rilevarne le numerose somiglianze – il discorso di Dom Helder con quello tenuto da Ernesto “Che” Guevara all’ONU il 12 dicembre 1964.

8. Si veda Plinio CORRÊA DE OLIVEIRA, TFP pede medidas contra padre subversivo, “Catolicismo”, Nº 211, luglio 1968.

9. Leonardo BOFF, Marxismo na Teologia, in “Jornal do Brasil”, 6 aprile 1980.

10. Gustavo GUTIÉRREZ, Praxis de libertação e fé cristã, Appendice a Id., Teologia da libertação, Editora Vozes, Petrópolis 1975, p. 267, p. 268.

11. Gustavo GUTIÉRREZ, Liberation Praxis and Christian Faith, in Lay Ministry Handbook, Diocese of Brownsville, Texas 1984, p. 22.

12. Julio LOREDO, Teologia della liberazione: un salvagente di piombo per i poveri, Cantagalli, Siena 2014.

13. SACRA CONGREGAZIONE PER LA DOTTRINA DELLA FEDE, Istruzione Libertatis Nuntius, XI, 10.

14. Francisco GRAZIANO NETO, Reforma Agraria de qualidade, in “O Estado de S. Paulo”, 17 aprile 2012.

15. Julio LOREDO, Teologia della liberazione: un salvagente di piombo per i poveri, pp. 315-338. Il libro può essere richiesto online a info@atfp.it

Julio Loredo

[管理人注1]  ここに言う「アメリカ」とは「米国」のことではなく、中南米を含めたアメリカ大陸、「環アメリカ」のことだろう。戻る

[管理人注2] 「私たちの心情を害するものは全く含まないでしょう(いい事ばかり書いているでしょう)」という意味か。戻る

[管理人注3] 「Ação Integralista Brasileira(アッソン・インテグラリスタ・ブラジレイラ)」というのは、英訳すれば「Brazilian Integralist Action」。そして、その思想の「Integralism」というのは、日本語では「統合主義」となるようだ。
AIB に関する Wikipedia のポルトガル語の記事も「AIB のメンバー」の一人として「Dom Hélder Câmara」の名を挙げている。戻る

[管理人注4]  カマラ大司教はこれについて「それは当時 “貧しい人々” のために社会的な主張ができる場所は AIB しかなかったというところから来る私の “若気の至り” だった」という感じに言ったようだ。次回参照戻る

[管理人注5]  現在の私たちは「キリスト教徒が社会のために何かするとすれば、それは社会主義的なものと決まっているじゃないか」ぐらいに思ってしまうかも知れない。しかし、「社会的」な活動がすべて「社会主義的」であるわけではない。戻る

[管理人注6] 「ação popular(アッソン・ポプラ―)」という言葉を自動翻訳で英訳すれば「popular action」となる。「民衆活動」. . .  まあ、「民衆運動」? とにかく普通名詞である。しかしここに言う「Ação Popular(AP)」とは政治活動組織の名称であって、固有名詞である。戻る

[管理人注7]  筆者はこの「カマラ大司教が作った詩」とされるものについて典拠を示していない。しかし、冒頭で言ったように、典拠は ① の記事が示している。① の記事の筆者はその詩の在処を「pp. 390-391」と記している次回参照。これは例の本のイタリア語訳版におけるページらしい。もちろんポルトガル語版の中にもあるわけであろう。戻る

[管理人注8]  カマラ大司教の有名ならしい言葉:「私が貧しい人々に食物を与えると、人は私を聖者と呼ぶ。なぜ彼らは貧しいのかと私が尋ねると、人は私を共産主義者と呼ぶ」。この言葉を、現代のイノセントな人たちは、あたかもエスプリの効いた大した「名言」であるかのように扱っている。しかし、彼は文字通りの共産党員ではなかったとしても「親共」であった。どの程度? 共産主義に「少し」共鳴? 「かなり」共鳴? 「全く」共鳴?──それはこの記事が観察するところである。戻る

[管理人注9]  私たちは何かを思い出さないか? そう、つい先日見た日本の大司教様のあの言葉である。こういうのは洋の東西を問わぬようである。戻る

[管理人注10]  この事はポルトガル語の Wikipedia も言っている。

pt.wikipedia

1968年、プリニオ・コヘイア教授は、教会を内側から破壊することを目論む危険で共産主義的な聖職者に対するキャンペーンを指揮し始めた。同年6月、彼はベルギー人司祭ジョゼフ・コンブリンの破壊的活動についてオリンダ及びレシフェのエルデル・カマラ大司教に書簡を送った。その書簡はブラジルの主要新聞〔複数〕によって発表され、同時に TFP はチラシによっても「TFP は危険な司祭に対する措置を要求する」と題した文書を人々に50万部配布した。〔しかし〕ドン・エルデル・カマラは注意を払わなかった。[64]

No ano de 1968 o professor Plinio Corrêa começa a dirigir campanhas contra o clero subversivo e comunista que visava destruir a Igreja de dentro. Em junho deste ano, envia uma carta para Dom Hélder Câmara, Arcebispo de Olinda e Recife, a propósito das atividades subversivas do Padre belga Joseph Comblin. Esta carta foi publicada nos principais órgãos de imprensa do país, e dela a TFP distribuiu 500 mil cópias à população, em volantes, sob o título "A TFP pede medidas contra Padre subversivo". Dom Helder Câmara não deu atenção [64] .

64. Revista Catolicismo, no.211, julho de 1968. Cit. "Meio Seculo de Epopéia...", pg.179

ご覧のように、これには典拠があるようである。事実のようである。で、私たちが「カマラ大司教という聖職者は避けなければならない」と知るためにはこのエピソード一つだけでも十分だろう。戻る

おまけ

Instituto Vladimir Herzog  / TOK de HISTÓRIA

Dom Hélder Câmara ao lado de Dom Paulo Evaristo Arns

右の人はスーツを着ていて、どこかの政治家か何かかと思ってしまうが、否、れっきとしたブラジルのカトリック司祭、というか、枢機卿である。パウロ・エヴァリスト・アーンス枢機卿。

カマラ大司教と彼は、ブラジルが軍事政権であった時代(1964年~1985年)、政府による人権侵害等に対して共に闘ったようだ。なるほど、そのような闘いは「善」に属する。私もそれを認める。

しかし、いつも言うように、物事は一つや二つの事から成っているわけではなくて、この枢機卿もまた、Wikipedia の英語版によれば──「彼は後に、教皇ヨハネ・パウロ二世がローマ教皇庁を通じてカトリック教会を統治しているやり方について公然と批判し、また司祭の独身制や他の諸問題についての同教皇の教えに対しても疑義を提出した」。まあ、モダニスト、と言っていいのではないか。

「27. 諸教会に潜入し、啓示された宗教を『社会的』な宗教と入れ替えよ」  - 共産主義の目標 -

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