1977年9月15日
イスカリオテのユダの自白(抜粋)[20]
1. 多くの司教、司祭、そしてまた平信徒が、しばしば不完全なものの見方をし、あらゆることを全網羅的に、完全に、どんな誤りもなく見ることをしないのは、運命のイタズラである。彼らは物事を全体像(whole picture)のもとに見ない。それで、例えばルフェーブル大司教はトリエント・ミサを信じ、それを宣言する。彼は天主の王国を完全に、且つ誤りなく宣言する。彼は上のあそこの〔上を指差す〕彼らが望むように、真実に行動し、且つ語る。しかし彼は、そこに教皇の替え玉がいることを信じない。他方、他の人々の内、正にその教皇の替え玉の存在を信じる人々の内には、トリエント・ミサも合法であることを信じない者達がいる... 私はこれ以上言いたくない...
2. 本物の教皇(本物のパウロ六世)は、人々に寄り添ったり人々を抱擁したりは決してしなかった。... 彼は常に非常に控えめだった。本物の教皇はその動作と振る舞いにおいて非常に控えめで、そのようなやり方で誰かを歓迎することは決してなかった。キリスト者の愛を装って寄り添ったり抱擁したりしているのは偽物の教皇である。本物の教皇はそのようなことをしようとしない。彼に雇われていた警備員に尋ねてみるがいい。彼のことをよく知っている幾人かの警備員達に、過去、本物の教皇がそのような振る舞いをしたかどうかを訊いてみるがいい。そして、今も過去と同じように振る舞うかどうかを訊いてみるがいい。... 今、本物の教皇は世間に姿を見せることはほとんどないので、このことをお前達自身が確かめることは困難である。しかし、そこには調査されねばならず議論されねばならない二つの重要な要素がある。
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