第36章

絶え間なく警醒して徳の道に進むべき事

 既に述べた外に、なお徳を求むるには、最も必要な事の中に、忘るべからざるものが一つある。

 それは我等が目指している目的に達する為に、何時も先に先にと進まねばならぬ必要のある事である。斯くの如き道に一刻でも立ち止まるのは、これ即ち後戻りするのである。

 何故なれば、徳を行うに立ち止まる時は、我等を動かす感覚的欲と、世事に対する激しき傾向とが、再び心に起って、種々様々の乱れた情慾を発せしめ、徳を亡ぼし、あるいは非常に弱くならしむるのみならず、我等は徳に進むを以て全善なる神より受くる筈の多くの恩寵と恩恵とを失うのである。これに由って見れば、霊生の道は、世の道と違う事が分る。世の道に於ては、よしや立ち止まっても、今まで歩いてきた道は少しも失わぬが、徳の道に至っては、それが損になる。

 しかのみならず、現世の旅人の疲労は続いて歩く運動と共に自然と増して来るものであるが、これに反して徳の道は、前へ前へと進めば進む程、愈々力と元気とが益々強くなる。

 やはり、徳の修練に於て、下流意志の反抗で、道が険しくして疲れるように成ってあったが、その下流意志は衰え、却って徳の存する上流意志が固くなって強くなるのである。

 それによって徳における進歩がこれを行う時の苦しみの幾分を始終に減じて行くのである。またこれに反して仁慈なる神が、この苦しみの中へ混ぜて下さる胸中の歓喜は、何時も豊かに溢れて来るのである。斯くて益々喜ばしく愈々易しくして、徳から徳へと進んで行けば、終に山の絶頂に達す。ここに於て乎、霊魂は完全になって、ただに厭気[いやき]のない所でなく、嬉しく引かれて徳を行うのである。この変化は殆ど自然に出来る。何故なれば霊魂は、乱れた情慾に打ち勝って、これを制した上は、おのずから所造物をも自己をも支配するようになるのである。その時は神の聖意の中に、極めて幸福なる生活を為し、そこに於て甘美に充ち満てる務めの中に、安んじておるのである。

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