第37章

徳行修練を続けながら、徳を得る機会を避くべからざる事

 既に完徳に至る道に於て立ち止まるところなく何時も前へ前へと進まねばならぬことは明らかに分ったが、これが為に注意して、徳を得る種々の機会を一つも失わぬようにせねばならぬ。故に、この有益なる機会をなるべく避けようとするのはその実益を知らぬのである。

 そこで、前の例によって言えば、ここに我等が堪忍の習慣を付けたいとすれば、我等に短気を惹き起させる人及び業、または思いなどを避けるのは不利益である。

 同じくまた或る交際なども、我等に面白くないからといって打ち棄ててはならぬ。却って、我等が五月蝿いと思う人と話し、あるいはこれと交わる事のある時には、何時も覚悟して、その人が惹き起す嫌気と倦怠とを忍ぶようにして置かねばならぬ。もしそうしないならば、決して堪忍に慣れる事はあるまい。

 また今や或る勤めが嫌であると仮定し、それは勤めそのものが嫌であるのか、これを命ずる人が嫌であるのか、あるいは尚気に入る事をする妨げになるから嫌であるのか、いずれにしてもこれを始め、これを続けるのをよしてはならぬ。よしやそれが我等の心を乱しても、またこれを棄てれば安心になりそうであっても、決してよしてはならぬ。もし我等が斯くの如く自分の傾向に任したならば、決して堪忍の稽古は出来ぬ。またたとえ安心するとしても本当の安心は得られまい。何故ならば、その安心は情慾を離れて徳を装うている精神より出るのでないから。

 同じくまた時々五月蝿いという考えが起り、我等の精神を煩わし、あるいは乱すような事があっても、何時もそれを遠くへ退けてはならぬ。その理由は、その思いが倦怠を来たすと共に、また困難に耐忍するを習わせる利益を来たす事が出来るからである。

 外の意見を持っている人もあろうが、しかしながらそれは我等に苦しみを遁れるのを教うるので、我等の希望しつつある徳を求めしむるのではない。

 しかし、未だ熟練しておらぬ新兵ならば、このような場合には余程注意して巧みな演習をせねばならぬ事がある。自分の徳と力との多少によって、あるいは機会を冒し、あるいはこれを避くる事を知らねばならぬ。

 さりながら、敵に全く背を向けてはならぬ。反対の機会を悉く遠ざけるような、退却の法を採ってはいけない。何故なれば、これを以て失墜の危険を逃れるかも知れぬが、とかく将来の為には、不堪忍の誘惑に尚一層陥り易いようになるであろう。それは何も怪しむべき事ではない。我等がその誘惑に対して身構えもせず、反対なる徳の行いを以て自分を強むる事をもしておらぬから、当然のことである。

 ここに繰り返して言うが、かの邪淫の誘惑に対しては、この方法は当て嵌まらぬ。この事については前に特別に言うて置いたのである。

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