第39章

如何に異なる機会が同一の徳行を修練するに益するか

 一時に数徳を求めんとするよりは、暫時の間はただ一つの徳に従事するのが尚有益であると云う事は既に述べた通りであって、凡て出来する実行的機会は幾ら相互に異なっておっても、皆このただ一つの徳の方へ向けることが出来ると云う事は明らかに分った。今や如何に易しくこれを実行することが出来るかを見ねばならぬ。

 一日でも一時間でも、多少激しき反対を忍ぶ機会に遭う事が度々出来る。例えば、我等の行うた事には咎むべき所はないのに、或る人がこれを咎むることもあろう。また何かの理由によって、他の人が我等に向って呟くこともあろう。我等が何か特別の事か、あるいは僅かな世話でも頼んだら、無残に断られることもあろう。また、真面目な根拠もなくして無闇に悪く批評されることもあろう。なお体に何か痛みを覚えることもあろう。嫌な煩わしい業に従事せねばならぬこともあろう。調理の悪い食物を出されることもあろう。また何とかかとか、この憂世で、人間の憫然[あわれ]な生涯に満ちたる、もっと酷い、もっと辛い困難を、多少堪忍すべき事柄が起ることがあるであろう。

 然るにこれらの機会、もしくはこれに類する場合に於て、たとえ「種々の」徳行を生ずる事が出来ても、もし前に述べた規則に従うて行こうと思うならば、始終我等は現に学びつつある徳に帰すところの業を修練するがよい。

 例えばこれらの機会の来た時、もし堪忍を修練するのならば、我等の勤むるところの業は服従する心を以て、また喜びを以て、反対を忍ぶに向うようにならねばならぬ。

 謙遜を求めようとするのならば、我等は困難の中にあって、凡ての災いを受くべき身であると云う事を心得る機会を認むるであろう。

 服従を得るに働くのならば、反対を利用して速やかに神の権能に帰服するように努め、また神の聖意なるによって、我等のために試しの機会となる凡てのものに服し、神の聖意に適うように励まねばならぬ。

 もし我等の力を尽す目的が清貧にありとすれば、世の凡ての慰めのないのを喜ぶようにせねばならぬ。

 もしまた愛徳を得ようとするのならば、他人は我等の求めつつある徳の機関のようなものであると思い、これに対して愛の業を起し、また神に対しては、これらの困難の生ずるところの愛に満てる源として、あるいは我等の練習の為、且つ霊的な利益を得せしむる為、その困難を許し給う愛深きものとして、愛の業を起させねばならぬ。

 斯く日々に起り得る様々の場合について述べた事を以て、如何に病気の時、あるいは何かの久しき困難の時、現に求めるところの徳の業を行い得ると云う事を、推して悟ることが出来る。

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