第4

抵抗と強制及びこれを用うる法

 抵抗と強制とは、実に重くして、疲労を来たす武器である。しかし余程必要にして、これがなくては到底勝利は得られぬのである。これを用うる法は左の如し。

 腐敗したる己が意志、及び悪しき傾向によって、神の思召しを欲せず、これを為すまじと思う時は、必ずこれに抵抗して、こう言わねばならぬ、「黙れ、どう勧められても、我れは必ず神の聖意に帰服せん」と。

 己が意志と悪しき傾向とが、我等を誘わんとする時、これに抵抗するもう一つの法は、こう言うことである、「我れは神の助力を希望して、決して決して神の聖意の外に事を為さじ。主よ、願わくは、我れを助け給え、今や聖意をのみ為さんと決心したれど、恐らくこの決心は、旧来の悪しき傾向の影響に、負けるかも知れぬにより、斯かる事を免[ゆる]し給うなかれ」を。

 斯くて甚だ抵抗するのが苦労[おっくう]にして、薄弱なる意志の耐え得ざるが如く思うに至らば、勇々しき心を以て努力し天国に至るには、必ず強制せねばならず、自らその情慾を懲らす者の外はこれに至るを得ざる事を記憶せねばならず、心配と強制とによって心が非常に苦しく、ほとんど悩みに充たされるようになるならば、ゲッセマニの園に於けるイエズス・キリストを思い出し、その苦痛に己が苦痛を合わせ、その功力によって己れに勝たしめ給わん事を切に願わねばならぬ。その時には天の父に、心の底よりこう申し上げることが出来る、「願わくは、我が欲する如くならず、父の思召しの如くにして、御旨の行われん事を」と。

 而して出来るだけ度々、神の思召しに己が意志を帰服せしむるように修業し、何事もその尊き思召しに従うてのみ欲するように努めねばならぬ。如何なる業を為すも、私を脱して、最も清き意志を以て、あたかも完徳はこの業に極まる、神の聖意と光栄とは、この業のみによるが如く努めねばならぬ。もし後に、何か掟に背いた事を思い出さば、深くこれを悔やむことを表し、これを機会に、いよいよ神の凡ての掟、殊に現に守るべき掟に対して、全く神に従わんとの決心を立て直さねばならぬ。

 因みに、神に従うべき機会があって、如何に些細なものと見ゆるとも、これを無駄に過ごさざる為、一つ言って置きたい。もし小さき事に於て忠実に神に仕えたなら、神はまた大いなる事に於て忠実になる恩恵を賜るに相違ない。終りに臨んで、もう一つ勧めて置きたい。何か神の一つの掟を思い出す時は、先ず前に神を拝礼して、而して後、折りある時忠実を守る為、要すべき助力を賜わらん事を祈らねばならぬ。

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