第12

欲する度ごとに神の目前に在る事を黙想し馴れる事

 欲する度ごとに神の目前に在る事を黙想し馴れるには、度々、神は我等の目に見えざれども、現にここに我等の前にましまして、我等の凡ての思念や行為をみそなわすと考えねばならぬ。

 また我等の周囲に在る凡ての被造物は、みな窓の如きものにして、神はそこには見えざれども、その窓から我等を眺め給うと想像して、神から己れにこう云われるのを聞くが如くにせねばならぬ、「願えよ、然らば受けん。願うものは必ず受け、戦うものは開かれるべし」。なおまた凡て被造物は、我等が神の目前に在る事を黙想する利益になる道がある。即ちその凡てのものにある原質を思わざるようにして、これらを存在せしめこれに活動及び生命を賜る神に精神を上げるのが、その道である。

 然らば心戦、及び何かの修業に、祈祷を添えることを望む時は、今述べた方法を以て、現に神の目前にあると黙想して、祈祷に掛り、要する所の助力と保護とを願わねばならぬ。

 一つ知らねばならぬ。即ち神の目前にあると黙想し慣れる事が、容易[たやす]くなるに従って、これで大いなる勝利を得て、限りもなき宝を得るに相違ない。殊に神の目前に応わぬ[ふさわぬ]感じや、思念、言葉、行為などを防ぐ方法となって、天主の聖子の尊き生涯に似合わぬ事を退ける道となる。

 なおまた神は此所[ここ]に実際ましますによって、その目前に在る事を絶えず黙想する補助と成る筈である〔=黙想する事の補助と成り給う筈である?〕。何故なれば、凡て自然力と云うものがあって、その作用に限りがあると雖も、現に其所[そこ]にあるか、あるいは近くにある時には、幾分かその力の影響を及ぼすことが出来るによって、ましてその力は限りなく、その作用は云うに云われぬ程他に及ぶ所の神が、現に此所[ここ]にましますならば、その力を著しく及ばせ給う事疑いなし。

 既に今示した何時の場合にも用いられる祈祷の法、即ち神の助力を願う事の外に、各自の境遇に適合する方法がある。例えば神の正義に従いたいと思うて、これを知らんと欲する時は、詩篇にあるが如き言葉を用いてもよい。即ち「主よ、祝せられ給えかし。願わくは、主の戒めを守る事を我れに教え給え。主の掟の道に於て、我れを導き給え」と。

 また天主の凡て我等に与え得給う事、また我等に願えと命じ給う事を求めんと欲する時は、主祷文を用いて、出来るだけ熱心と注意と志とを尽して、その祈祷を唱えねばならぬ。

ページに直接に入った方はこちらをクリックして下さい→ フレームページのトップへ
inserted by FC2 system