第36

敵を愛する事

 キリスト教的完徳は神の戒めを完全に守るに極まると雖も、「敵を愛せよ」と云う掟は神の聖意に近寄らしむるによって完徳の重[おも]なる基礎の一つであると云う事が出来る。

 もし完徳に至る道を短くせんと欲するならば、注意して、神が「敵を愛せよ」との掟を以て特に我等に何を要求し給うかと云う事を探らねばならぬ。神の嘉し給う所は、我等が敵を愛し、敵を恵み、敵の為に祈る事であるが、これは冷淡にせず、無感覚にせず、実に大いなる熱心を以てせねばならぬ。ほとんど己れを忘れ、一心に敵を愛する事と、敵のためにすべき祈祷とに、身を委ねるほどにならねばならぬ。

 適を恵まねばならぬが、先ずその霊魂については、敵に罪を以て己が霊魂を傷つけるような機会を与えぬようにして、身振り、言葉、また凡ての挙動を以て敵を重んじ、これを愛すると云う事を表して、何時でもそれの為に世話する気のある事を証せねばならぬ。

 肉身上の扶助に至っては、用心と常理とを以て、その場合によって、またその敵の各自の特質、及び地位によって、致すべき程を決めねばならぬ。

 この勧めに従わば、徳と安和とが心に溢れるばかりになるであろう。兎も角もこの掟を守るのは、思うほどの困難になるものではない。人性にとりては甚だ辛そうにあるが、しかしこれを真面目に実行する事を望む人、または復讐を促す自然の傾向を懲らそうと常に覚悟している者には、この掟は守り易くなる。何故なれば、その中に安和の甘味が籠っているからである。それでも弱き性質を助けるために、最も効き目のある四つの方法がある。

 第一、祈祷。敵を愛することをしばしばイエズス・キリストに、自ら敵を愛し給うたその功徳によって、願わねばならぬ。イエズス・キリストは十字架上に於て、先ず敵を覚え、彼らのために祈り給い、次に母を覚え、終に皆の後で御自分の事を考え給うた。

 第二の法は、心の中でこう言わねばならぬ、「主は、敵を愛せよと、我れに命じ給うによって、必ず我れはこれを守るべきものである」と。

 第三の法は、敵が神に造られた時に受けた神の肖像を思い出さねばならぬ。そうなれば彼らに対して、有るべき尊重と愛とを引き立てるであろう。

 終に第四の法は、イエズス・キリストが我等の敵を贖うために払い込み給う給うた量り得られぬ値段を、思わねばならぬ。イエズス・キリストはこれが為に、金銀を用い給わず、御自分の血を以て贖い給うのであるから、この血を無駄にせられる事、及び残酷に踏み付けられる事を、忍び給う筈はない。

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