第37

糾  明

 よく己れについて警醒する人は、日に三度糾明するを常とす。即ち、朝昼夕である。朝と昼との糾明は省くとも、少なくも夕[ばん]の糾明を怠ってはならぬ。聖書を見るに、神は創造の時、人の為に造り給うた事について、二度もこれを好しとし給えりとあれば、まして人は一度なりとも、神に対して致した事を調べずにいられようか。何時かそれについて必ず厳しき審判を受くる筈であるから、別してこれを自ら調べねばならぬ。

 さて、糾明をする方法はこうである。先ず前に、神に向って、己が凡ての思い及び業をよく知るために要する所の明かりを願わねばならぬ。次に、心の中に、忠実に慎みを守りたるか、また如何に心を持ったかを調べねばならぬ。第三に、今日は神へ仕え奉る折りを一つも怠ったことはないかと省みねばならぬ。ここに逐一詳細にそのことを述べはせぬが、この三点の中に各自のため、その身分の勤め、及びその義務の事は入っていると云う事が明らかに分る筈である。

 もし忠実に聖寵に応じて善を為したことがあるならば、必ず神にこれを感謝して、而して後ではこれを思うな。自分のした事を、あたかも未だ何をもせぬが如くに、再びこれを致そうと、決心せねばならぬ。

 もし犯した怠慢や過失や罪を認めた時には、神の尊前に恥じ入りて謙り、これに背いたことを一心に悔んで、こう申し上げねばならぬ、「主よ、我れ自ら為し得る事を我れは為せり。もし主の手が我れを止め給わざりせば、我れは止まらずして、なお酷き事を為す筈なりき。我れは主の止め給いし事を感謝し奉る。請い願わくは、いと惜しみ給う聖子の御名によって、神たる処置を為し給い、我れを赦して、再び背かざるよう聖寵を与え給え」と。

 終に、罪の償いとして、これを償わんとの心を引き起す為、何か意志の内部の克己の業を、自ら己れに命ずるがよい。斯くの如き業は、大いに神の聖意に適うている。また肉身を懲らす事を忘れず、この種々の贖罪の業を忠実に守らねばならぬ。何故なれば、克己もせず、己れをも懲らさずしては、糾明は空な業に過ぎず、温き心を隠すところの利き目なき業に過ぎまい。

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