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1.序章

十字架につけられたキリストと
甘美なるマリアとのみ名によりて

第1章

霊魂が祈りによって神と一致することについて。──カタリナの霊魂が脱魂のなかで神に四つの願いをささげたことについて。

 神の誉れと霊魂の救いとに対するきわめて大きな望みに悩まされている霊魂は、自分自身を乗りこえて、しばらく、通常の善徳の実行にはげみ、自分に対する神のいつくしみを理解するために、自分自身の認識の独房にこもる。なぜなら、愛は認識に従うものであり、霊魂は、愛しながら、真理に従い、真理をまとうよう努めるからである。
 自分自身と神との認識にもとずく謙遜で引きつづいた念祷ほど、霊魂にこの真理を味わわせ、光明をもたらすものはない。このように理解し実行した念祷は、霊魂を神と一致させる。霊魂は、望みにより、愛情により、愛の一致によって、十字架につけられたキリストのあとに従うとき、別の自分になる。キリストがつぎのように言われたとき、わたしたちに教えたいと思われたのは、このことではなかったであろうか。「わたしを愛し、わたしの『言葉』を守る者には、わたし自身を示すであろう。かれはわたしと一つのものになり、わたしはかれと一つのものになるであろう」(1) 。他の多くの個所にも、同じような言葉を見出すことかできる。この言葉は、霊魂が愛の情念によって別のキリストと (2) なることを立派に示している。
 このことをもっとはっきり示すものとして、思い出すのは、神の使い女の一人 (3) から、念祷のあいだ、精神の大きな恍惚状態におちいったとき、神が知性の目の帳を破って、そのしもべたちに対して抱いておられる愛を観想させてくださったことを聞いたことである。神は、とりわけ、つぎのように言われた。「あなたの知性の目を開いて、わたしを見つめるがよい。そうすれば、わたしの理性的な被造物の尊厳と美とを見ることができるであろう。わたしが霊魂をわたしの似姿として創造したとき、これに与えた美のほかに、婚礼の服、すなわち無数の真実な善徳に飾られた仁愛 (4) を、まとった人々を観察するがよい。この人々は、愛によってわたしと一つになっている。それで、あなたに言いたい。もし、あなたが、この人々はだれかとたずねるならば、わたしは愛の甘美な『言葉』と同じように答えよう。『かれらは別のわたしである。なぜなら、かれらは、自分の意志を脱ぎ棄てて、わたしの意志をまとい、わたしの意志に一致し、これと一つになっているからである』」。
 要するに、霊魂が愛の情念によって神と一致するということは、きわめて真実である。それゆえ、この霊魂は、もっと雄々しく真理を認識して、これに従いたいと望んだ。そして、人間は、まず自分自身にとって有益でなければ、すなわち、自分自身のために善徳を所有し、獲得しなければ、その教えにより、その手本により、その祈りによって、隣人のために有益な者となることができないのを考えて、その望みを高め、至上かつ永遠な「父」に、四つの願いをささげた。
 第一は、自分自身のためである。
 第二は、聖なる教会の改革のためである。
 第三は、全般的には、世界全体のため、個別的には、はなはだしい不敬と不義とによって聖なる教会に反抗しているキリスト者の平和のためである。
 第四は、世界の全般的な需要と発生した特殊な状況とのために、神の「摂理」のご配慮を祈るためである (5)

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