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2.愛と善徳

第10章

愛、謙遜、分別の三徳が一つに結ばれていることの比喩。──霊魂はどのようにこの比喩にあやかるべきかについて。

 この三つの善徳のあいだには、どのような関係があるか、知っているであろうか。地面に一つの輪がおかれていて、その中央に一本の木があり、その一部として、これに結合した脇芽があると想像してほしい。木はこの輪にかこまれた土地から養分を吸い取る。それで、木は土地から引き抜かれるならば枯れるであろうし、土地に植えられるまでは、実を結ばないにちがいない。ところで、霊魂は木のようなもので、愛するためにつくられ、愛がなければ生きることができないことを、思い浮かべてほしい。
 事実、霊魂は、完全なまことの仁愛の神的愛をもたないならば、生命の実ではなく、死の実を生ずる。それで、この木の根、すなわち霊魂の愛情が、自分自身のまことの認識のなかに固定し、そこから養分を取る必要がある。自分自身の認識が、始めも終わりもないわたしに結びついているならば、まるい輪のように、その中をまわりめぐつても、どこで始まりどこで終わるか、決して見きわめることができないであろう。それでも、あなたがその中にいることに変わりはない。あなた自身と「わたし」とのこの認識は、まことの謙遜の徳に見出されるし、また立っている。この謙遜の大きさは、輪の広さと同じである。すなわち、自分自身の認識は、繰りかえして言うが、わたしの認識と一つになっている。さもなければ、この認識は、始めも終わりもない輪ではないであろう。自分自身の認識という始めはあるであろう。しかし、それは、わたしの認識と一つでないならば、虚空のなかに消え失せるであろう。
 要するに、仁愛の木は謙遜のなかに養われる。この木は、すでに話したように、まことの分別という脇芽をつけている。この仁愛の木すなわち霊魂のなかにある愛の情念の髄は、忍耐である。忍耐は、霊魂にわたしが現存していること、および、この霊魂がわたしと一致していることを示すしるしである。
 このように心地よく植えられた木は、多くの多彩なにおいをもつ花、善徳にかおる花をつけている。この木は、霊魂にとって恩寵の実を生じ、隣人にとって有益な実を生ずる。隣人は、わたしのしもべたちの実を受け取る熱誠のいかんに応じて、この実を利用する。この木は、わたしに対して、わたしの名の栄光と賛美との芳香を立ちのぼらせる。なぜなら、これを創造したのはわたしだからである。こうして、この木は、その最終目的、すなわち、その神であり、永遠の生命である「わたし」に到達する。そして、それは、霊魂が望まないかぎり、奪われることがない。
 この木の結ぶすべての実は、分別によって味付けされている。なぜなら、すでに話したように、この分別によって、すべてが結合されているからである。

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