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3.あわれみの神

第18章

神はすべての人をあわれみあるいは正義によって捕えているから、だれも神の手をのがれることができないことについて。

 ──だれもわたしの手をのがれることができないことを知ってほしい。なぜなら、わたしは「存在者」(13) であるが、あなたがたは、あなたがた自身で存在するのではないからである。あなたがたは、わたしによって造られた程度にしか存在しない。わたしはすべてのものの創造主であって、これに存在を分かつ。しかし、罪の創造主ではない。なぜなら、罪は存在ではないからである。したがって、罪は「わたし」によって創造されたものではない。罪は「わたし」のなかにはないから、愛される価値がない。被造物は、「わたし」を愛する義理と義務とがある。なぜなら、わたしは至高の善であり、しかも、きわめて熱烈な愛をもって、被造物に存在を与えたからである。ところが、被造物はわたしを侮辱する。なぜなら、愛してはならないもの、すなわち罪を、愛するからである。しかし、人間は、わたしからのがれることができない。あるいは、かれらの過失を罰するわたしの正義に捕えられて、わたしのなかにいるか、あるいは、わたしの慈悲に守られて、わたしのなかにいるか、どちらかである。
 だから、知性の目を開いて、わたしの手を眺めるがよい。わたしが言っていることが真理であることが分かるであろう。──
 そこで、この霊魂はこの偉大な「父」に従うために、精神の目を開いた。すると、この神の手のなかに、宇宙全体がこもっているのが見えた。神は言われた。
 ──いとしいむすめよ、だれもわたしをのがれることができないことを見て知るがよい。すでに話したように、みながここに正義あるいは慈悲によって (14) 捕えられ (15) ている。なぜなら、みなが「わたし」によって造られ、「わたし」に属しているし、わたしはみなを言葉に言いつくせないほど愛しているからである。それゆえ、わたしは、かれらの邪悪さにかかわらず、わたしのしもべたちに免じて、かれらに慈悲を注ぐし、あなたがあれほどの愛と悲しみとをもってわたしにおこなった願いを聞きとどけるであろう。

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