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5.亡びの道

第41章

至福者たちの栄光について。

 仁愛の情念のなかで生命を終える義人の霊魂についても、これと同じことを言うことができる。この霊魂は愛のなかにつながれている。善徳に成長することはできない。時間は終わったからである。しかし、わたしのもとに来たとき抱いていた愛情をもって、いつも愛することができる。これがその愛をはかるはかりである。この霊魂はいつもわたしを望み、いつもわたしを所有する。そして、その愛は決して裏切られることはない。この霊魂は飢えて満たされる。満たされてまた飢える。このようにして、満足の倦怠からも飢えの苦しみからものがれる。
 選ばれた人々は、愛のなかで、永遠にわたしを見て楽しむ。そして、わたしがわたし自身のなかに所有する善、わたしが、各自のはかりに応じて通じ与える善にあずかる。はかりとは、かれらがわたしのもとに来たとき、抱いていた愛の程度のことである。かれらは、わたしに対する仁愛と隣人に対する仁愛とのなかにとどまり、ただ一つの同じ愛から発する全体的な愛と個別的な愛とによって結合している。それで、かれらがみないっしょに所有している普遍的な「善」のほかに、他人の幸福も楽しみ喜ぶし、仁愛の情念によって、相互の個別的な善を分かち合うのである。
 聖人たちは、天使たちのあいだに座を占める。そして、かれらが現世で特別に実行した善徳の程度と性格とに応じて、天使たちの楽しみと喜びとを分かつ。かれらはまた、地上で仁愛の縁によって結ばれ、もっと親密に、特別な愛情によって愛して来た人々の幸福に特別にあずかる。かれらは、この愛によって、恩寵と善徳とに成長し、たがいに励まし合って、かれら自身においても隣人においても、わたしの栄光をあらわし、わたしの名を賛美した。かれらは、永遠の生命において、この愛を失うことがなく、いつまでも保つ。そして、普遍的な至福に加えて、この幸福を親密に、もっとゆたかに、分かち合うのである。
 しかし、この特別な幸福は、かれらだけがたがいに分け合うのだと、考えてはならない。天の福楽にあずかるすべての市民たち、わたしの至愛なるすべての子供たち、すべての天使たちが、これを分かち合うのである。ある霊魂が永遠の生命に到達するやいなや、みながこの霊魂の幸福を分かつし、この霊魂はみなの幸福を分かつ。かれらの福楽の杯が大きくなることができるとか、満たされる必要があるとかいうわけではない。それは満たされているし、これ以上大きくなることができない。しかし、この霊魂を見知ることによって、かれらのなかに、随喜、満足、喜悦、歓喜があらたにされるのを感じるのである。かれらは、この霊魂が、わたしのあわれみによって、恩寵の充満のなかで、地から上げられたのを見て、わたしのいつくしみによって与えられたこの霊魂の幸福を、わたしのなかで喜ぶ。
 この霊魂もまた、わたしのなかで、霊魂たちのなかで、至福な霊たちのなかで、わたしの仁愛の美しさと心地よさとを観想し、味わいながら、喜ぶ。そして、みながいっしょに、その望みをわたしに上げ、わたしの前で、全世界の救いのために叫ぶ。かれらの生命は隣人に対する愛のなかで終わった。かれらはこの愛を失っていない。かれらは、この愛を抱いて、わたしの「ひとり子」の門を通ったのである (7) 。これについては、のちに話したい。かれらは、愛のきずなにしばられている。この状態で生命を去ったし、永遠にこの状態を続ける。
 かれらは、わたしの意志に立派に適合しているので、わたしが望むことしか望むことができない。かれらの自由意志は仁愛のきずなによってしばられている。それで、時間が終わりを告げるとき、恩寵の状態で死ぬ理性的被造物は、もはや罪を犯すことができない。かれらの意志はわたしの意志に立派に一致しているので、父親や母親が自分の息子が地獄にいるのを見ても、息子が父親や母親が地獄にいるのを見ても、少しも心配しない。むしろ、かれらが罰せられているのを見て喜ぶ。なぜなら、かれらはわたしの敵だからである。こののち、わたしとのあいだに不一致をもたらすものはなにもない。かれらの望みはすべて満たされる。
 至福者たちの望みは、絶えず死という終末に向かって走っている遍歴者であり旅人であるあなたがたのなかに、わたしの誉れが実現するのを見ることである。したがって、かれらは、わたしの誉れと同時にあなたがたの救いを望む。そのため、あなたがたのために絶えずわたしに祈る。わたしはできるかぎりかれらの望みを聞きとどける。あなたがたが、無知のために、わたしのあわれみを拒んでも。
 かれらはまた、その肉体をふたたび与えられるのを望む (8) 。現在はそれを所有していないのを少しも嘆かない。いつかこれを所有することができると確信しているので、前もって、これを喜ぶ。現在これを所有していないのを悲しんだり、それによって至福が減少したり、苦しみを感じたりするようなことがない。
 肉体がその復活後至福を与えられることによって、霊魂の至福が増加すると思ってはならない。もしそうだとしたら、霊魂は肉体から離れているかぎり、不完全な至福しか楽しむことができないことになるであろう。ところが、そのようなことはありえない。なぜなら、その完全性に欠けるところはないからである。肉体が霊魂を至福にするのではない。霊魂が肉体にその至福を分かつのである。霊魂は、終わりの日に、遺骸として残した自分自身の肉をふたたび着けるとき、自分のゆたけさをこれに与えるのである。
 霊魂は不滅であり、わたしのなかに確立され、固定されているので、肉体はこの霊魂との一致によって不滅になり、その重力を失って、微妙軽快になる。栄光を帯びた肉体はひとつの壁を通ることを知ってほしい。火も水もこれに害を加えることができない。これは、肉体特有の力ではなく、霊魂の力であり、これをわたしの似姿として創造した名状しがたい愛によって与えられたものであり、恩寵による特権である。あなたの知性の目は至福者たちの幸福を見ることができず、耳はこれを聞くことができず、舌はこれを語ることができず、心はこれを思いうかべることができない。
 ああ、かれらにとって、絶対的善であるわたしを見るのは、どんなに楽しいことであろうか。栄光を与えられたその肉体を所有することは、どんなに喜ばしいことであろうか。この幸福は公審判においてしか所有することができない。しかし、そのため苦しみを感じることがない。かれらの至福には欠けるところがない。なぜなら、霊魂自身満たされているからであり、肉体は、すでに話したように、この充満を分かつにすぎないからである。
 あなたがたに復活の確証を与えるわたしの「ひとり子」の栄光をおびた人性から栄光を帯びた肉体が受ける幸福については、すでに話した通りである。いつもなまなましいその傷、肉のなかにいつも開かれていて、至高かつ永遠の「父」である「わたし」に、あなたがたのために絶えずあわれみを呼び求めているその傷を見るとき、喜び踊るであろう。みなが、かれと同じであるのを喜び合うであろう。かれらの目はかれの目と、かれらの手はかれの手と、かれらの体全体はわたしの「子」、甘美な「言葉」の体と同じであろう。かれらはわたしのなかにいるのであるから、かれのなかにいるであろう。かれと「わたし」とは同一だからである。しかし、すでに話したように、かれらの肉体の目は、わたしの「ひとり子」、「言葉」の栄光を帯びた人性を眺めて随喜するであろう。
 なぜであろうか。かれらの生命はわたしの仁愛の喜びのなかで終わったのであるから、この喜びは永遠に続くからである。かれらがいまでもなにかの善を成し遂げることができると言うのではない。かれらが持参した善を喜ぶのである。つまり、報いを期待することのできる功徳のある行為はなにひとつなすことができない。各自は、ただこの世において、その意志の好むところに従い、自由意志を使って、功徳を積むか、罪を犯すかすることができるだけである。
 この人々は恐れのなかではなく、喜びのなかで、神の審判を待っている。わたしの「子」の顔は、かれらにとって、恐ろしくもなければ、憎しみに満ちてもいない。なぜなら、かれらは、仁愛のなかで、わたしに対する愛と隣人に対する思いやりとに満ちて、世を終わったからである。
 これによって分かるように、かれがわたしの「威光」を帯びて、審判のために来臨するとき、その顔は少しも変わることがないであろう。ただ、かれから審判される人たちは、ちがった見方をするであろう。断罪された人たちには、憎しみと正義とに満ちているように見えるであろう。しかし、救われた人たちには、愛とあわれみとに満ちているように見えるであろう。

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