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6.生命の道

第47章

勧めを守らなければ掟を守ることができないことについて。──どんな身分を選んでも、その意志が善かつ聖であれば、いつも神によみせられることについて。

 わたしは、悪徳に対する憎しみと善徳に対する愛との両刃のつるぎをもって、わたしに対する愛のために、利己的な官能の毒を断った人々について話した。このような人々は、もし望むならば、理性の光明にしたがって、この世の事物の黄金を保有し、所有し、獲得することができる。しかし、大いなる完徳に達したいと望む人々は、これを現実的にも霊的にも軽蔑した。それは、わたしの「真理」によって与えられ、遺された勧めを現実に守る人々である。財産を所有する人々は掟を守る。そして勧めは霊的には守るけれども、現実には守らない。
 しかし、勧めは掟と結びついているので、だれも、少なくとも霊的に勧めを守らなければ、掟を守ることができない。世の富を所有するときは、これを謙遜に所有すべきで傲慢に所有すべきではない。借りたものとして所有すべきで自分のものとして所有すべきではない。わたしの「いつくしみ」が、あなたがたの利益のために、あなたがたに利用させるものとして、所有しなければならない。あなたがたは、わたしがこれを与える程度に応じて所有する。あなたがたはわたしがこれを残す程度に応じて保存する。わたしは、それがあなたがたの救いに役立つと判断する程度に応じて、これを残し、これを与える。それで、あなたがたは、そのようにこれを利用しなければならない。
 人間は、財産をこのように利用することによって掟を守り、わたしを万物に越えて愛し、隣人を自分自身のように愛するし、欲望を解脱した心をもって生きる。すなわち、これらの善をもっぱらわたしの意志に従って愛し、保存する。これを現実に所有するとしても、その望みによって勧めを守る。なぜなら、すでに話したように、みだらな愛の毒を断っているからである。
 このような人は、普通の仁愛にとどまる。しかし、掟と勧めとを、ただ霊的にではなく、現実的にも守る者は、完全な仁愛に生きる。わたしの「真理」、「受肉せる言葉」が、「師よ、永遠の生命を獲得するために、なにをしたらよいでしょうか」とたずねた青年に与えた勧めを、単純に守る。わたしの「真理」はかれに言った。「律法の掟を守りなさい」。かれは答えた。「わたしはこれを守っています」。そこで、かれに言った。「よろしい。完全になりたいならば、行って、所有しているものを売り、これを貧しい人々に施しなさい」(7)
 すると、青年は悲しんだ。富に対する執着がまだあまりにも大きかったので悲しんだのであった。しかし、完全な人々は勧めを守る。この世のたからとそのすべての楽しみとを放棄し、徹夜により、苦業により、謙遜で絶え間ない祈りによって、その体を苦しめる。
 普通の仁愛にとどまっている他の人々は、富の現実な所有を放棄しないけれども、永遠の生命は失わない。これを放棄する義務があるわけではないからである。しかし、地上のたからを所有したいならば、わたしが教えた方法で所有しなければならない。これを保存したとしても、罪を犯すわけではない。なぜなら、すべてのものは、至高の「いつくしみ」であるわたしが創造したものであり、わたしの理性的被造物の役に立つように造ったものであって、善いもの、すぐれたものだからである。しかし、それは、わたしの被造物を世の楽しみの下僕や奴隷にするためではない。大いなる完徳に達したいと思わず、この世のたからを保存するのを好む者は、奴隷としてではなく、大名としてこれを所有しなければならない。かれらの望みは、「わたし」に向けられなければならない。その他のものは、自分の所有物としてではなく、借りたものとして愛し、保有しなければならない。これはさきに話したとおりである。
 わたしは人物も、その占める身分も問題にしない。ただ、聖なる望みに注目するだけである。したがって、人間がさまざまの身分を選んで生きるにあたって、大切なことは、善良で、聖い意志をもつことである。そうすれば、わたしの気に入るであろう。
 しかし、だれがこのように生きることができるであろうか。利己的な官能に対する憎しみと善徳に対する愛とによって、毒を断った人である。人間は、みだらな意志の毒を断ち、聖なる愛とわたしに対する恐れとによってその意志を規正したのち、好む身分を選び保持することができる。そうすれば、いかなる身分においても、永遠の生命を獲得するように行動するであろう。たしかに、この世のすべての善を霊的に放棄するだけではなく、現実的にも放棄するのは、もっと完全であり、わたしを喜ばせる。しかし、このような完徳に達する勇気を感ぜず、弱さのためにこれを堪えることができないときは、その身分に応じて、普通の状態にとどまることができる。わたしの「いつくしみ」は、だれもその身分を罪の言いわけにすることができないように、このようにはからったのである。
 実際、だれも言いわけすることができない。わたしは、かれらの情念も、かれらの喜びも心地よく承認する。世俗にとどまりたいと思う者は、富を所有し、位階につき、結婚生活をいとなみ、子供を養育し、その立身をはかることができるし、どんな身分にも、望みどおりにつくことができる。ただし、永遠の死をもたらす利己的な官能の毒を断たなければならない。
 それはたしかに毒である。毒はこれを努力して吐き出し、くすりを飲まないならば、体を苦しませ、ついには殺す。世の楽しみというさそりもこれと同じである。すでに話したように、地上のものごとは、それ自体は善いものである。至高の「いつくしみ」であるわたしがこれを造ったのである。それで、あなたがたは、聖なる愛とまことの恐れとをもって、望むようにこれを利用することができる。しかし、人間の邪悪な意志は毒を分泌する。もしも心をこの愛着から解放する聖なる告白によって、この毒を吐き出さないならば、霊魂は中毒症を起こし、死ぬにちがいない。これは、利己的な官能には苦いと思われるけれども、毒を消すくすりである。
 以上によって分かるように、錯誤にもてあそばれている者がどんなに多いことであろうか。かれらは、わたしを所有し、自分のものにすることができ、悲しみをのがれ、喜びとなぐさめとを抱くことができる。ところが、かれらは、善の外観にあざむかれて悪を選び、みだらな愛によって黄金に執着して亡びる。かれらは、多くの不忠実によって盲目となり、毒を見分けることができない。中毒にかかっていることを認めても、くすりを飲まない。
 この人々は、悪魔の十字架を背負い、地獄の前味わいをおこなっているのである。

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